- 2022年6月19日
ゲームとの付き合い 1985年 その2
折角買ったファミコンで「スーパーマリオブラザーズ」と「プーヤン」の2本のカセットをやり続ける訳にもいかない。 時間があれば店に行き、新しいカセットを入手していた。 「チャレンジャー」、「スペランカー」、「ドルアーガの塔」は攻略本込みで夢中になった記憶がある。 今考えるとどれもくせの強いソフトだった。 元祖みんなでスペランカー Switch版 通常版価格:2904円(税込 […]
折角買ったファミコンで「スーパーマリオブラザーズ」と「プーヤン」の2本のカセットをやり続ける訳にもいかない。 時間があれば店に行き、新しいカセットを入手していた。 「チャレンジャー」、「スペランカー」、「ドルアーガの塔」は攻略本込みで夢中になった記憶がある。 今考えるとどれもくせの強いソフトだった。 元祖みんなでスペランカー Switch版 通常版価格:2904円(税込 […]
1984年は喫茶店やゲームセンターでゲームをやらなかったので何の思い出もないが、実はその前の年、1983年に任天堂ファミリーコンピュータが発売されたが、キラーコンテンツも出ないまま廃れていくのかなという状況だったようだ。 1985年になり、発売されたのが「スーパーマリオブラザーズ」で一気に社会現象になった。 ソフトどころかハードも全く手に入らない、ようやく下の姉が御徒町の紫色のビル、 […]
この年もテーブルゲームは新作登場ラッシュだった。 中でも「ハイパーオリンピック」は皆が夢中になり、ボタン連打のし過ぎで流血していたと思う。 流血を防ぐために定規が用いられるようになり、ガチャガチャのカプセルの半球を持ち込んでボタン連打する猛者もいた。 そうして筐体はボタンが磨滅し、やがてゲーム自体が忘れ去られた。 「ゼビウス」という名作も生まれた。 これについてはどうにか二面までクリ […]
この年に発売された「ディグダグ」とか相変わらず議員の息子Hは上手だった。 今になって思えば、アーケードゲームの上手さはどれだけ100円をつぎ込めるかがポイントだった。裕福な奴は無尽蔵に100円を消費していたのに比べて、経済的にあまり余裕のなかった自分はほぼどれをやっても下手だった。 そんな中でも「アルペンスキー」は比較的よくできた方だった。 滑降、大回転、ジャンプの3面で1セットなの […]
何故かこの年になると少し遊べるゲームが出てきた。 「ラリーX」、「ギャラガ」、そこそこクリアできるようになった。 下の姉が「宝石鑑定士になる」と言い残してアメリカに旅立ったのもこの年だった気がする。 初めて行った成田空港で帰国する姉を待つ間、任天堂ゲーム&ウォッチの火事場から人が落ちてくるのを助ける奴をずーっとやっていた記憶がある。
1980年、喫茶店のバイトはもう辞めていたが、そこの店には「パックマン」の筐体が入っていた。 相変わらず自分はセンスがなくて一面もクリアできなかったが、ディスコ仲間のK君や議員の息子Hはコインの山をテーブルに積んで夢中になってやっていた。 「クレイジークライマー」も流行った。 ただでさえセンスがないのに独特のレバーに慣れなくて、全く上手にならなかった。
ここでいうゲームはボードゲームやトランプではなく、ビデオゲームだ。 1979年、共通一次の試験当日に「スペースインベーダー」と出会ったのが始まりだったが、自分はインベーダーが下手であまりのめり込めなかった。 結局、最後の早い一匹が消せず、一面すらクリアできなかった。 インベーダーのゲーム筐体はあっという間に至る所に置かれるようになり、喫茶店だけでなく、ボーリング場のゲームコーナーも全てゲーム筐体に […]
高校生の頃、一番好きな場所は新宿だった。 新宿には何もかもがあったので、他の街、例えば渋谷に行く必要性は全く感じなかった。 赤坂、六本木に至っては自分の生活とは無縁の地だった。 一度だけガールフレンドと渋谷から青山通りを通って六本木まで歩いた事があったが、青山は道が広すぎるという印象しか持たなかった。 でも一番大事な街は池袋だった。 だってそこに着かないと何も始まらなかったから。 & […]