目次
1 サソーの悲劇
住民の脱出が始まった。
ウシュケーはネボリンドと『松明洞』で別れの言葉を交わした。
「ネボリンド様、色々とお世話になりました。旅の安全をお祈り致します」
「うむ、貴殿も気をつけてな。サフィを盛り立てるのだぞ」
「はい。ところでギラゴー様の姿がないようですが」
「ふむ、ヤッカームの腰巾着ゆえ、あちらのシップにでも乗り込んだのではないかな」
「……そうですか。では失礼致します」
マードネツクでもニライが全住民の乗船を確認して自らもシップに乗り込んだ。
「サフィ様、皆、一足先に『約束の地』でお待ちしております。さあ、カリゥ。シップの発進よ」
サソーでは白龍が住民の乗船を指揮していた。
「こんな大事な時にアダニアはいねえし、何やってんだ」
その頃、アダニアは半狂乱でホーケンスの街を走り回っていた。
やはりビリヌの姿は見当たらなかった。ホーケンスの東の端に待機したシップに向かう人波に流され、逆らい、何度も往復をしたが、とうとう会えなかった。
こんな事をしていられない、急いで戻って人々を誘導しなければ。アダニアは未練を残したまま、サソーに向かった。
住民の乗船がほとんど終わった所に、アダニアが白龍の下に走ってやってきた。
「おい、アダニア。何やってたんだよ」
「すまない」
「後は操縦者のあんたと……トスタイだっけか、そいつだけだよ」
「白龍、本当にすまなかった。トスタイは私に任せて、君は『白花の海』に急いでくれないか」
「頼むぜ、あんたがいなきゃシップは動かないんだからな」
アダニアはサソーで一際立派なトスタイの家に向かった。暗闇ではなく夕焼けに照らされた赤い闇の中から声がした。
「アダニア、待ってたぜ」
「その声はトスタイか。何をしているんだ。早くシップに乗ろう」
「へへへ。てめえはシップに乗れるとでも思ってるのか。これを見ろ」
赤い闇から姿を現したトスタイはビリヌを引きずるように抱え、その首元にはナイフを押し当てていた。
「ビリヌ……トスタイ、貴様、ビリヌをどうするつもりだ?」
「いい事を教えてやろうか。この女はよ、元々、てめえを骨抜きにするためにおれが接近させたんだよ」
「何だと?」
「ところがこいつはよ、途中でてめえに惚れちまったみたいでよ。全くの役立たずだぜ」
「馬鹿を言うな」
「馬鹿かどうかは直接聞いてみろよ」
アダニアはトスタイに押さえつけられて俯くビリヌに問いかけた。
「……ビリヌ、今の話は真か?」
「……本当でございます――でもアダニア様、信じて下さい。私は誠実なあなたのお人柄に心の底から――」
「そこまでだ」
トスタイが髪の毛を引っ張るとビリヌは小さな悲鳴を上げた。
「てめえもこの女も仲良くここで殺してやるよ。覚悟しやがれ」
「トスタイ、手を離せ――シップを操縦できるのは私しかいないのだ」
「そんなの知らねえよ。乗りゃあどうにかなんだろ。大体てめえはいつもおれをこけにしやがって。その態度が気に入らねえんだ」
「アダニア様、私に構わずシップにお乗り下さい」
ビリヌが叫んだが、再びトスタイに髪の毛を引っ張られた。
「うるせえ、このあま。黙っていやがれ」
「トスタイ、止めろ。わかった……お前の言う通りにする。私はここに残る。その代わりビリヌを放してやってくれ」
「アダニア様、いけません」
「一人の人間も救えないのに多くの人々を救おうとはおこがましい話だ。トスタイ、その代わり約束してほしい。人々を『約束の地』に連れて行ってくれ」
「あん、何、寝ぼけた事言ってんだ、てめえは。おれは好きな所に行ってそこで王になるに決まってんだろ。今、船に乗ってる奴らはおれの奴隷だ。文句あるか」
「……いけません」
ビリヌは思い切りトスタイの足を踏みつけ、アダニアの方に走り出した。不意をつかれたトスタイは逃げるビリヌの背中にナイフを突き立てた。
「ああ……」
スローモーションのようにビリヌが倒れた。アダニアはそれを呆然と見送ったがすぐに我に返った。
「……トスタイ。越えてはならぬ一線を越えたな」
アダニアは杖を左手に持ったまま向かっていった。
「へっ、そんな杖で――」
すれ違う瞬間に杖から鋭い刃が飛び出し、トスタイを肩からばっさりと斬り下した。
「し、仕込杖……」
トスタイはどうと倒れ、断末魔の痙攣を起こし、静かになった。
アダニアはビリヌに駆け寄った。抱き起こすとまだかすかに息があった。
「ビリヌ、しっかりしろ。さあ、一緒にシップに乗ろう」
「……アダニア様……ご無事で良かった」
「ビリヌ、しっかりしろ」
「私は……トスタイに……雇われていた……あなたにはふさわしくない」
「そんな事はどうでもいい。共に『約束の地』を踏むのだ。私にはお前が必要だ」
「うれしい……でも、もうだめです……お願い……シップの人たち……あなたは、私の分まで……生きて……」
ビリヌの手が力なく地面に落ちた。アダニアは力いっぱいビリヌを抱きしめ、しばらくそのままの姿勢でいた。やがて首にかかっていたペンダントをはずし、自分の首にかけ直した。
「ビリヌ。お前はいつでも私と共にある。サフィ様が見たという『死者の国』、いつかそこで再び巡り会おう。その時にはお前を絶対に離さないから待っていてくれ」
アダニアは血のように赤い夕焼けを背にシップに急いだ。