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2 巨大なるブッソン
北の海、氷に覆われた海底でブッソンは暮らしていた。冷たい氷の中でじっとしたまま動かなかった。へたに動けば、海は荒れ、気候が変わってしまうとも噂されていて、移動の時には瞬間移動のような不思議な術を使うと言われていた。
巨大な魚、ブッソンの全身を見た者は誰もいなかった。海のどのくらいの部分を占めているのか、西の海の『風穴島』よりも大きいのではないか、人々の噂はどこまでも大きくなっていった。
今、その場所にナラシャナがいた。前の女王マイアを娘のように可愛がっていたブッソンにとってナラシャナは孫のようなものだった。
ナラシャナが近づくとブッソンの声が聞こえた。
「ナラシャナではないか。どうした?」
まるで地の底から響くような声が聞こえた。
「こっちに来るがよい」
ナラシャナは言われるままにブッソンの頭と思われる方向に移動した。
「おじさま、ごぶさたしております。お元気そう……ですわね」
「それほど元気でもないわ。今もムルリから馬鹿者どもの寄合の様子を聞いていたのじゃ」
「まあ、馬鹿者だなんて。おじさまにかかるとお父様も形無しです」
ナラシャナは無邪気に笑った。
「それはそうと、一人でここを訪れるなど珍しいな。何かあったか?」
「ええ、おじさまは物知りだから、私の質問に答えてくださると思って」
「ただ長生きなだけじゃ――さあ、何を聞きたい?」
「はい。私たちの暮らすこの世界では三界がお互いにいがみ合っています。何故このような事態になったのですか?」
「ほほぉ、ナラシャナもずいぶんと大人になったもんじゃ。お前の口からそんな質問が出るとは思わなんだぞ――どれ、それならわしも本気で答えよう」
ブッソンはほんのわずか体の向きを変えたようだった。猛烈な潮の流れが起こってナラシャナは流されそうになった。
――その昔、Arhatsはこの世界にまずは精霊と龍を造ったそうな。次に三界、そして最後に『持たざる者』を作った。この六種族は、精霊のアウロ、龍のウルトマ、『空を翔る者』のモンリュトル、『水に棲む者』のニワワ、『地に潜る者』のヒル、持たざる者のマー、それぞれの指導者の下、皆で協力して世界を開拓した。互いに争う事もなく、ただ世界を良くしようという思いじゃったのだろう。
ところがArhatsはこの良き指導者六人を自分たちの住む世界、通称、『上の世界』に連れ帰ってしまったのじゃ。
残った種族は恐慌に陥った。龍族はディヴァインという優れた者が残された者を率い、いつの間にか表舞台から消えた。精霊たちはアウロがいなくなると同時に姿を消した。
では三界はどうか。残されたのは優秀な指導者の遺物だけだった。空を翔る者にはモンリュトルの乗り物と言われるシャイアン、水に棲む者にはニワワの『凍土の怒り』と『大陸移動の秘法』、地に潜る者には伝説の金属ミラナリウムがそれぞれ残されたが、残された者に到底使いこなす事などできはせん。
とりわけ悲惨だったのは持たざる者だった。指導者もおらず、マーの遺物もなく、この世界では奴隷の身分に落ちぶれ果ててしまったのじゃ――
「……お父様は優れた指導者だと思うのですが――」
「ワンクラールか。ばらばらだったこの海をどうにかここまでまとめ上げた功績は認めよう。だがこの世界を平定できる器ではないな」
「……では空を翔る者の王は?」
「アーゴの事を言っているのか。あやつも無理だな。アーゴや地に潜る者の王ネボリンドにそこまでの広い見識はない――むしろアーゴの息子のリーバルンの方が見込みがある」
ブッソンの口からリーバルンという名前が出たので、ナラシャナは思わず「えっ」と小さく叫んだ。
「どうしたのじゃ、ナラシャナ。リーバルンはなかなか賢い若者で、持たざる者にも分け隔てなく接しているらしいぞ」
「あの、そのリーバルン様であれば世界は平和になるとお思いですか?」
「いや、それはわからん。必ず足を引っ張る愚か者がおるもんじゃ。それにリーバルン一人ではできる事にも限りがあろう。優秀な仲間がいないと無理じゃな」
「おじさま。例えば私が、そのリーバルン様との間の架け橋になれば、三界の諍いは収まるとは思いませんか?」
「……ナラシャナや。滅多な事を言うもんじゃないぞ。わしだから良いが……ん……誰か来たようじゃ。ナラシャナ、どこかに隠れておれ」
ナラシャナはブッソンの影に隠れるように移動し、入れ替わるように現れたのはヤッカームだった。
「これはブッソン殿。ご機嫌麗しゅう」
ヤッカームが耳障りな声で挨拶をした。
「ムルリから聞いたぞ。またぞろ馬鹿な考えを述べたそうじゃの」
「はて」と言ってからヤッカームはにやりと笑った。「ムルリが何をご注進したか知りませんが、極めてまっとうな事を申し上げただけです」
「何の用じゃ」
「ブッソン殿ですから申し上げますが、我が王のお体の状態、そう長くは持ちません」
「……わかっておるが、レイキールがいる」
「いえ、レイキール様はまだまだ子供。あのようなお子が王になれば、それこそ空を飛ぶ者共に付け込まれましょうぞ」
「何を言いたい?」
「しっかりした大人が王とならなければなりません。私めがナラシャナ様と結婚すれば、レイキール様の義兄、何も問題がないではありませんか」
ブッソンに隠れて会話を聞いていたナラシャナは叫びそうになり、慌てて口を手でふさいだ。
「……ヤッカーム、それでわしに協力を求めにきたか」
ブッソンがそう言うと、ヤッカームを無数の大きな空気の泡が取り囲んだ。
「生憎だな。お前と組む気などさらさらないわ」
「ブッソン殿ならおわかりでしょう。我が王がお倒れになり、レイキール様が王になれば、水に棲む者は終わりですぞ」
「言っている事はもっともだが、本当に欲しいのは王の座などではあるまい――」
「――ブッソン殿には本音で話さないといけないようですな。私めの欲しいのは凍土の怒りと大陸移動の秘法、そしてブッソン殿ご自身の力にございます。この三つが揃えば、三界はもとより、この広い銀河全体をも支配できるに違いありません」
「本性を現したか。だが望む物は何一つ手に入らん。どれも選ばれた人間にしか使いこなせん。お主では無理だ」
「そんなものは手に入れた後でどうにでもなる。ブッソン殿のご協力のほどや如何に」
「わしの答えか……三つ数えるうちにここから立ち去れ……三」
「ブッソン殿、後悔なさいますぞ――」
「お主をここで討ち損じる方が悔いを残す……二」
どこかから「ごぉっ」という音が聞こえた。
「……これがお答えですか」
「その通りだ……一」
「わかりました。今日の所は戻る事にいたしましょう」
ヤッカームは高笑いをしながら去っていった。
ヤッカームが帰って、「ごぉっ」という音は止み、再び静かになった。
ナラシャナがおそるおそる顔を出した。
「おじさま、今の――」
「愚か者の戯言じゃ。気にするでない。それよりもリーバルンに会ったのだな?」
「……はい、『清廉の泉』で一度だけ」
「まさか付き合っているのではないだろうな?」
「いえ、そんな。でも『もう一度会いたい』と言われました」
「……良いか。この話は誰にも言ってはいかん。くれぐれも慎重に行動するのだ。何かあったらわしに相談するのじゃぞ」
「ありがとう、おじさま」