第十四話:ケートゥとビーガ

 辛い思い出の残る平原に別れを告げ、北の『高原の町』を目指すタピーたち。口数少なく、黙々と歩きます。
 ベンガがシャンティに言います。
「シャンティ、言おうか言うまいか迷っていたのだが、どうするつもりだ?」
「どうするって何を?」
「いや、このままコンリーヤまで旅を続けるのか、それとも『海人の国』に戻った方がいいと考えているのか、どっちなのだ?」
 シャンティは冷静に答えます。
「あたし、わかったのよ。今何が一番大事かってことが。確かにラメキーに再会して、あたしがラーラワティ様にお願いした時の願いは叶ったのかもしれない。でも、旅をしていく中でもっと大切なものがあるのに気付いたの。あたしはそれを見届けるまではこの旅を止めないつもりよ」
 それだけ言うと、シャンティはさっさと歩いていきます。

 

 とても大きな樹のそばまでやってきたタピーたち。その樹の下は広い木陰になっていて、近くの村人や旅人が、思い思いに話をしたり昼寝をしたりしています。
 ベンガが声をかけます。
「私たちもあの木陰を借りて、一休みするとしよう」
 木陰に入るとひんやりと涼しくて、汗もいっぺんに引っ込んでしまうくらい快適です。タピーたちはてんでに木陰で座ったり寝転がったりしますが、誰も口を開きません。
 その時、木陰を作る樹の根元で瞑想する一人の若い僧の姿がタピーの目に飛び込んできました。僧は目を開けると、タピーたちにあいさつをします。
「お仲間と旅をされているのですね。よろしければ、お話をいたしませんか?」

 

 僧を取り囲んで車座に座るタピーたち。
「私の名前はシーダ、この樹の下で瞑想をしております」
 タピーがみんなをシーダに紹介します。
「ぼくの名前はタピー。こっちの力士がベンガで隣のきれいな女の人はシャンティ。そしてベンガの肩に留まっているのが、極楽鳥のジャック。ぼくたちは、南のジャングルから『海人の国』、『輝く島』を渡って、ダイエントに着いて『商人の港』から『高原の町』、最後はコンリーヤのシュマナ山まで行くんだ」
 シーダはにこにこと笑います。
「長い旅ですね。平原は大変だったでしょう」

 タピーたちの間に流れる沈黙を振り払うようにシャンティが口を開きます。
「ええ、平原は戦で大変なことになってしまいました。あたしの好きだった人もその戦で亡くなりました」
 シーダは両手を合わせます。
「お気の毒なことをしました。しかし、あなた様はすでにその悲しみを乗り越えられたご様子。一体何があなた様を支えていらっしゃるのでしょう」
「さすがはお坊様、すべてお見通しなんですね。あたしにとって本当に大切なのは、ベンガとタピーの願いが叶うことなんです。だから、薄情かもしれませんが、悲しんで立ち止まってはいられないんです」
「ご立派な心がけです。ベンガさん、あなた様は良い仲間をお持ちですね。あなた様の願いも間もなく叶おうとしているようです。私は、あなた様とあなた様のご子息がご無事で巡り会えますよう、この樹の下でお祈りさせていただきます」

 何もしゃべらなかったベンガもシーダの言葉には心が動いたようです。
「お坊様、あなたにはわかるのですか。私が息子のビーガを探しているのを。北の『高原の町』ですか。やはり、そこに行けばビーガに会えるのですか?」
 シーダは首を横に振ります。
「私は一介の修行僧、尋ね人や失せ物を見つけ出すような力があるわけではございません。ただ、あなた様は平原での悲しい出来事に引きずられて、今も悩んでおいでのご様子。そのような状態では、ご子息に巡り会うというあなた様の願いが叶うこともままならぬのではないかと思い、出しゃばらせていただいたまでです」
 ベンガは心が洗われたような気がします。
「お坊様、ありがとうございます。確かに私は自分の無力さを責め続け、あやうく本来の目的を忘れるところでした」

 

 吹っ切れたようなベンガとシャンティの表情。ベンガはシーダに尋ねます。
「もし、この先『高原の町』で私がビーガと再会し、願いが叶うのであれば、あとはタピーの願いが叶うこと、それだけを目指してシュマナ山に向かえばよいのですね?」
 シーダは少し困った表情になります。
「さて、何と申し上げればよろしいのでしょう。タピーさん、あなた様はお苦しみになられている。私には苦しみを取り除くことはできませんが、あなた様のお話を聞くことはできます」
 言われたタピーは、ちょっとためらった後ゆっくりと話し始めます。
「あのね、ぼく、自分の願いが一体何なのかわからなくなっちゃったんだ。ラーラワティさまには『みんなと同じ色のバクになりたい』ってお願いしたんだよ。でも、もう帰る村もないし、そんなのはどうでもよくなっちゃった」
 シーダは黙って先をうながします。
「南のジャングルから長い旅をして色んな人に会ったし、楽しかったり、辛かったり、悲しかったり、色々なことがあったんだ。でも、平原の戦みたいのは、もうたくさんだよ。ベンガはラーゴと勇ましく闘ったし、シャンティは命がけで戦を止めさせようとした。それなのにぼくは、何もできないまま、たくさんの人が死ぬのをただ見てるだけだった。ぼくは何で旅なんかしているんだろう?」

 タピーの話が終わったのを確かめてから、シーダが言います。
「タピーさん、あなた様はこれまでに多くの人たちを救ってこられた。私のように樹の下で考え事をしているだけの人間とは違い、あなた様は自らの行動で人を救うことができるお方なのです。神々もそれをご存知だからこそ、あえて辛い試練をお与えになり、あなた様はそのたびに試練を乗り越えられ、ここまで成長なさったのです。そして、今、神々はあなた様に最大の試練をお与えになったと、私には思えるのです。その神々の問いかけに対して、ここで答えを出す必要はありません。ベンガさんの願いが叶い、シュマナ山に着くまでの間、考えるのです。ここで旅を止めるのは簡単ですが、それではあなた様は何も為しえていないことになってしまいます。前に進まれるがよい、そして進みながら少しずつ考えるのです。あなた様が旅をする本当の理由を」

 大きな樹の木陰で大きな伸びをするタピー。
「うーん、シーダさんの言うとおりだね。ぼく、元々考えるのは苦手なんだ。だったら、前に進んだほうが楽だよね」
 元気を取り戻したタピーを見て、シーダはゆっくりとうなずきます。
 ベンガは嬉しそうな表情になり、シーダに礼をします。タピーたちもシーダに深々と礼をします。

 木陰を離れ街道に戻る時にベンガが振り返り、シーダに最後の問いかけをします。
「シーダ様、もちろん、私たちの本当の姿も当然おわかりなんでしょうね」
「はて、本当のお姿とは一体何なのでしょう。人の姿を借りているかどうかはさほど重要ではない、と私に教えてくださったのは、今のあなた様方ですよ」
 小さく微笑むと、シーダは瞑想に戻ります。

 タピーたちの迷いは晴れました。いよいよ北の『高原の町』に入ります。

 

 とうとう『高原の町』に着いたタピーたち。コンリーヤが近いせいでしょうか、今までのどの町よりも涼しく、空気も澄んでいます。
 タピーがベンガに言います。
「ようやく、『高原の町』に着いたね。さっそく、ビーガを探そうよ」
「いや、まずは旅の疲れをとることにしよう。シャンティ、すまないが宿代を使わせてしまうことになる」
「いいのよ。じっくりと腰を落ち着けて、ビーガを探しましょうよ」
 ジャックが気を利かせて飛び立ちます。
「じゃあ、おいらは宿屋を探してくらあ」
「うむ、ジャック、ありがとう。では、あそこのカフェでお茶でも飲もう」

 カフェの紅茶はとても香しく、この世の飲み物とは思えません。思わず、タピーがカフェのつんとすました給仕に尋ねます。
「ねえねえ、どうしてここのお茶はこんなに美味しいの?」
 給仕は、当然のような顔で答えます。
「『高原の町』で採れるお茶の葉は世界一、そして町の水もやっぱり世界一、何しろラーラワティ川から汲んだ水ですからね」
「ええっ、ラーラワティ川なんてあるの?」
 給仕はまたしても当然の顔で答えます。
「はい、町を出てコンリーヤとは反対の方に歩いていくと、小さな山に囲まれた湖があって、そこがラーラワティ様の生まれ故郷って言われているんですよ」
 シャンティが給仕に気軽に尋ねます。
「ねえ、このへんで若いトラを見かけなかったかしら?」
「わ、私は何も。仕事がありますので、失礼」
 給仕は顔色を変えると、急いでカフェの奥に引っ込んでしまいました。

 

 ジャックが探してきた宿屋に着いたタピーたち。宿屋の主人が愛想よく応対します。
「へい、毎度。お客さんたちは旅の人ですね。南の平原は大変だったらしいですね」
 タピーは主人に言います。
「うん、ぼくたちは戦の中を抜けて来たんだよ。」
「へえ、そりゃあすごい、ほとんど生き残った人のいないものすごい戦で無事だったなんて、お客さんたちはきっと神様に守られているんだな。あやかりたいもんだ」
 ベンガが尋ねます。
「ときにご主人、このへんで若いトラを見かけたですとか、トラを飼っている家があるのをご存知ではないでしょうか?」
 それまでぺらぺらしゃべっていた宿屋の主人がにわかに口ごもります。
「ええ、それは、まあ……町の中に獰猛なトラがいるわけないじゃないですか。からかっちゃいけませんよ」

 

 宿屋で休み、翌朝からビーガ探しを開始するタピーたち。昼過ぎに待ち合わせ場所のカフェに戻ってきた時に、タピーがシャンティに尋ねます。
「シャンティ、どうだった。もう、ぼくの方はぜんぜん」
「あたしの方もよ。普通に話してても、トラの話になると急に黙っちゃって。ねえ、ベンガ、この町にビーガはいるのかしら?」
「カフェの給仕や宿屋の主人にしても、他の町の人にしても何かを隠している気がする。何よりも、我が息子ビーガはここにいるという父親の直感がある」

 その時、タピーたちのテーブルに一人の少女がやってきます。少女は固い表情のまま、小さな声で話します。
「トラを探している旅の人たちよね。あたしはオルナン。さっき、そこのきれいな女の人がお母さんにトラのことを聞いてたの。でもお母さんは、ううん、みんながウソをついてるの。ケートゥが恐いから、本当のことが言えないの」
 ベンガは息を呑んで尋ねます。
「では、やはりビーガはこの町のどこかにいるんだね?」
「名前はわかんないけど、白くてとっても元気なトラよ。一度だけ、町で見かけたことがあるの。ケートゥが食堂のおじさんを脅かすのにトラを連れてたの。きっと、食堂のおじさん、お金が返せなくなっちゃったからよ」
「ケートゥはそんなに偉いのかい?」
「えらくないわ。みんな大っきらいよ。でも、町で一番のお金持ちだから、みんなお金を借りてるし、逆らえば魔法でひどい目に合わせられるって」
「一体ビーガは、ケートゥはどこにいるんだい?」

 オルナンが答えようとしたその時、どこからか吹く一陣の突風。風はオルナンの体を空中に舞い上げたかと思うと、彼女を地面に叩きつけます。カフェにいた人々はあっけにとられますが、やがて顔を伏せ、ひそひそ話しを始めます。
 シャンティは倒れたまま呻いているオルナンに駆け寄ります。
「ひどい、これがケートゥの仕業ってわけ。何でみんなこの子を助けようとしないのよ。早くお医者様に見せないと」
 顔を伏せたままの町の人々を無視して、シャンティはオルナンを抱き上げます。
「あたしはお医者様を探すから、あなたたちはケートゥの居場所を、お願い」
「うむ、わかった。ジャック、とにかくこの町で一番大きな屋敷を探してくれ。恐らくそこがケートゥの屋敷だ」
「任せとけ。『商人の港』とは比べ物になんない小さい町だ。すぐに見つけるよ」
 走り去るシャンティ、飛び立つジャックを見送りながら、タピーがベンガに尋ねます。
「ケートゥは何でこんなずるいことをするの?」
「さあ、きっと私たちが恐いんだろう」

 

 間もなく、ジャックの知らせを受けて町で一番大きな屋敷に向かうタピーたち。ベンガが緊張した声を出します。
「注意しろよ。ここに間違いない。ケートゥめ、屋敷に漂うビーガのにおいはさすがに消せなかったようだ」
「ぼくもケートゥに会ったら、言わなきゃならないことがあるんだ」
「そうか、よし、屋敷に乗り込むぞ。ジャックはシャンティと宿屋で待っていてくれ」

 大きな鉄の扉をぎぎぃっと開けて、タピーとベンガは屋敷の中に入っていきます。とても広い中庭を横切り、屋敷の扉を開けると、無数の彫刻や立派なシャンデリアのぶら下がる広いホール。そのホールの中心部に伸びるらせん階段の上に一人の男が立っています。
 タピーとベンガは息を呑みます。
「お前がケートゥか」
 らせん階段の上の男は、奇妙な緑色のガウンをまとっていて、顔にはのっぺりとした表情のない仮面をつけています。
「いかにも、おれはケートゥだ。そっちのでかい奴にはラーゴ兄貴がずいぶん世話になったようだな」
 ベンガは今にもケートゥに飛びかかっていきそうです。
「それで恐ろしくなって、こんな卑怯な真似をしたわけだな」
「何とでも言うがよい。お前にはおれは倒せん。それだけわかっていればよい」

 タピーが一歩前に出ます。
「君がバクの村を襲わせたの?」
 ケートゥはとぼけた声を出します。
「動物の村を襲ったって?何度もやってるからどれだかよくわからんな。ちょっと待てよ。ああ、『商人の港』から売り飛ばした奴らか。あれはいい金になったぞ。何しろ、バクは珍獣だからな」
 ぎゅっと拳を握り締めるタピーを片手で制して、ベンガが一歩前に出ます。
「絶対に許さん。お前を八つ裂きにしてやる」

 

 らせん階段の上のケートゥに詰め寄ろうというベンガ。そこにつむじ風のように一匹の白い獣が現れ、まるでケートゥを守るかのようにベンガの前に立ちはだかります。
「お、お、お、お前は」
 ケートゥは勝ち誇ったように笑います。
「はっはっは。おれを倒そうと思うなら、まずはこの『シェバ』を倒すことだな」
 ベンガは声の限りを振り絞ります。
「ビーガ、ビーガではないか。私だ、ベンガだ」
 けれどもビーガはベンガには気づかず、威嚇するようなうなり声をあげます。
 ベンガの声が一段高くなります。
「どうした、父だぞ。父がお前を迎えに来たぞ。なぜ、私に気づかないのだ」
 ベンガはそう言いながらよろよろとビーガのいる階段を登っていきます。
 タピーが思わず声をあげます。
「あ、あぶない」
 そう言い終わらないうちに、ビーガの鋭い爪がベンガをかすめ、頬からはたくさんの血が噴き出します。
「なぜ、なぜ、はるばるここまでやってきたのに、お前は父の姿がわからないのだ」
「だめだ、ベンガ。ここはひとまず逃げようよ」

 呆然としているベンガの背中にタピーはむしゃぶりつきます。そして、ベンガの背中を何度も何度も叩いて、ベンガを引きずるようにしてケートゥの屋敷を後にします。
「ふわははは、何度来ても同じだ。お前らではおれは倒せん」
 ケートゥの勝ち誇った笑い声だけが響き渡ります。

 

 やっとの思いで宿屋に戻ったタピーとベンガ。オルナンをお医者様に届けたシャンティも帰ってきています。ぼぉっとしているベンガに、タピーが大きな声を出します。
「ねえ、ベンガ。聞いてよ。ねえ。いいから聞きなよ」
 ベンガは少し我を取り戻したようです。
「あ、ああ、何だ」
 タピーが大きく一つ息を吸ってから話します。
「聞いてよ、ベンガ。今のままじゃだめなんだよ」
 ベンガがゆっくりとタピーを見ます。
「それはどういう意味だ?」
「きっと、ビーガはケートゥの魔法で操られているんだ。だから、ビーガにはベンガがわからないんだよ」
「ではどうすれば?」
「もう一度ケートゥの屋敷に行くんだよ。でも、ベンガは戦っちゃだめ。ケートゥとはぼくが戦う。ダゴンの時みたいにケートゥの夢に入るから。だって、それ以外にケートゥに勝つ方法なんて思いつかないしね。その間に、ベンガにはビーガと二人っきりで落ち着いて話をしてほしいんだ。そうすれば、ビーガもベンガのことがわかるんじゃないかな」
 ジャックがタピーをたしなめるように言います。
「おいおい、無茶言うなよ。ケートゥが眠ってるところにお前が近づいたら、ビーガに気付かれるだろ。そうしたら、結局ケートゥが目を覚ますだろう」
 シャンティも首を横に振ります。
「そうよ。あの時はチュンホアの持ってきた『霊山の眠り粉』があったから、ダゴンは確実に眠ったのよ。でも、もう『霊山の眠り粉』はないし……あ、ちょっと待ってよ。そう言えば、『海人の国』を出る時にチュンホアが渡してくれた包みがあったわ。本当に困った時に使えって言ってたけど」
 シャンティがチュンホアのくれた紙包みを開けると、中には小さな竹筒、包んであった紙にこう書いてあります。

「親愛なるシャンティへ
 『霊山の眠り粉』ほどの効き目じゃないけど、眠り粉を作ったんだ。
 困った時に使うといいよ。
          春(チュン)花(ホア)」

 ジャックは満足気にうなずきます。
「よっしゃあ、じゃあ、ダゴンの時みたいにこの粉を空から撒いて...ってこれっぽっちの量じゃあ無理か」
「ええ、ジャックには、ビーガをベンガのところまでおびき出す役目をやってもらわなくちゃならないし、眠り粉をどうやってケートゥに使うかは別の手を考えないとだめよ」
「何かいい手があるはずだよ。とりあえず、明日ケートゥの屋敷を見張ろうよ」

 

 翌日、ケートゥの屋敷を見張るシャンティとジャック。タピーとベンガはケートゥに顔を見られているので、宿屋で待機です。昼過ぎに、ジャックが何かに気付きました。
「おい、いつも行くカフェの給仕じゃないか?」
 そこには、かごを抱えてケートゥの屋敷に入っていくカフェの給仕の姿がありました。
「あ、もしかするといけるかもしれないわよ」
 日が沈む頃、再びケートゥの屋敷から出てきた給仕をシャンティがつかまえます。
「あら、給仕さん、こんばんは。こんなところで何なさっているの?」
 給仕はいつも通り、すまして答えます。
「何って、あるお金持ちの方が毎日私どものお茶をお屋敷でお飲みになるんで、給仕をしに行って帰るところですよ」
 シャンティは思いっきり甘えた声を出します。
「ねえ、お願いがあるんですけど」

 

 翌日の夕方、ケートゥの屋敷に入っていく、カフェの給仕の格好をしたシャンティ。ケートゥの部屋に通され、昨夜習ったばかりのお茶を入れます。
 ケートゥは仮面をかぶったままで部屋の中央のソファにふんぞり返ったまま、シャンティに声をかけます。
「おい、お前はいつもの給仕と違うが、どうしてなんだ?」
「ええ、彼はちょっと具合が悪くなりましたので、今日だけは私が代わりにやってまいりましたのよ、おほほほ」
 シャンティは愛想よく振舞いながら、そっと眠り粉をふりかけたお茶をケートゥに差し出します。
「ふん、どうでもいいが、不味い茶を入れてみろ。ただじゃあすまさんからな」
 これを聞いてシャンティは恐ろしくなります。
 奇妙な仮面をかぶったままのケートゥがおもむろに口を開きます。
「……ふむ、悪くない。いつものとは違うが、これはこれで美味いな」
「そ、そ、そ、それはどうもありがとうございます。では、私はこれで」

 ケートゥが大きな声を出します。
「おい、ちょっと待て」
「は、はい、何でしょう」
 シャンティは生きた心地がしません。
「空いた器を持ち帰らないでいいのか?」
「あら、そうでしたわ、私としたことが」

 

 やがて、すっかり日も沈んだ頃にケートゥの屋敷の窓をこつこつと叩く音。ジャックがビーガをおびき寄せるためにやってきました。
 ビーガは自分の主人がいつもより早く眠りについてしまったのを気にしながらも、怪しい音の方に忍び寄っていきます。一羽の極楽鳥がしきりに窓を叩いているのが見えました。ビーガは自分の野生の血が騒ぐのを覚え、鳥を捕まえるために足音を立てずに外に出て行きます。
 ジャックはしめたとばかりに、ビーガを挑発します。
「よお、青二才のトラさんよ、捕まえられるもんなら捕まえてみな」
 うなり声を上げて突進してくるビーガを見て、ジャックは逃げ出します。捕まりそうで捕まらない微妙な距離を保ちながら、どうにか屋敷の広い中庭の端までやって来ます。
「よっしゃ、あの塀の向こうにベンガが待ってるから、もうちょいだ」
 ところが悲しいかな、ジャックは夜目の利かない鳥、あと少しというところで、翼が木の枝にぶつかってしまい、地上に落下してしまいます。
 ものすごい勢いで迫ってくるビーガが、鋭い爪を見せて前足を振り上げます。
「ひゃあー」

 けれども、ビーガの前足はジャックに振り下ろされませんでした。
 ベンガです。ベンガが自らの体を盾にして、ジャックを守ったのです。
「ジャック、よくやってくれた。礼を言うぞ」
 ベンガはそう言うと、がっちり背中に食い込んだビーガの爪を振りほどいて、ビーガと向き合います。
「ビーガよ。私だ。ベンガだ」

 

 ビーガがジャックを追いかけていったのを確認して、屋敷の中に忍び込むタピー。らせん階段を登ってケートゥの部屋の前に立ちます。
「どうか、ケートゥが眠っていますように」
 部屋のドアを開けると、確かにケートゥが寝こけています。
 タピーはほっと息をついて、意識を集中させ始めます。ケートゥの口から立ち昇ってくる霧のようなものがタピーの体を包み込んでいき、やがてタピーの姿はすっかり見えなくなります。
 タピーはケートゥの夢の世界に旅立っていきます。

 

 真っ暗なケートゥの夢の中。タピーは、はるか先に消えてしまいそうなほんのかすかな光を見つけます。
「あ、あそこにケートゥがいるんだな。行ってみよう」
 果たしてそこには、瞑想をするケートゥの姿がありました。

 わーう、わーう

「やい、ケートゥ、お前の夢を食べに来たぞ」
 ケートゥは座ったままで、目を開けると言います。
「何だ、お前は、おれの夢を食いに来たとは。獏か。獏ごときがおれの瞑想の邪魔をするとはどういうつもりだ」
 タピーはケートゥが自分をちっとも恐がっていないのに、内心びっくりします。

 わーう、わーう

「お前の夢を食ってやるから覚悟しろ」
「こいつは笑わせる。おれの夢だと。食えるもんなら食ってみろ。この暗闇がおれの夢、食われたところで痛くもかゆくもないわ」

 確かにダゴンの時とは違って、ケートゥの夢には宝石もお金もきれいな女の人もいません。それどころか一面の闇しか広がっていないのです。
 タピーは急に恐くなりました。こんな男を相手にして自分は勝てるのかしら、そう思うとこの場から逃げ出したくなりました。

 そんなタピーの頭の中にラーラワティの言葉が飛び込んできます。
「タピー、心の目をしっかりと開くのですよ。あなたなら、暗闇以外に見えるものがあるでしょう」

 タピーはもう一度意識を集中します。さっき見えたほんのかすかな光、きっとあれこそがケートゥの本当の夢なんだと信じて、ケートゥをよおく観察します。
 すると、座っているケートゥの右手のあたりがかすかに光っています。あれに間違いない、タピーは思いっきりケートゥに体当たりをします。
 咄嗟のことにケートゥは尻餅をつき、そのはずみで右手の中のものがタピーの方に転がってきます。
 タピーはそれが何であるかを確かめもせず急いで拾い上げると、ケートゥに向かって叫びます。

 わーう、わーう

「これがお前の本当の夢だろう。それならこれを食べてやる」

 

 中庭のベンガとビーガ。ジャックは木の枝の上ではらはらしながら二人の対峙を見ています。
「ベンガ、何で、何で反撃しねえんだよお。このまんまじゃあ、死んじまうぞ」
 そうなのです。さっきからビーガの鋭い爪がベンガに向かって幾度となく振り下ろされるのですが、ベンガは黙ってそれを受け止めているのです。
「息子のビーガに対して手を上げることができるわけがないだろう。そのうち、タピーがケートゥの魔法を打ち破ってくれる、それまでの辛抱だ」

 

 手の中の光るものをタピーに取り上げられたケートゥ。突然、立ち上がったかと思うと、タピーの方によろよろと歩み寄ります。
「食わないでくれ、それだけは食わないでくれ。頼むから、それだけは」
 ケートゥの豹変ぶりに、タピーは改めて自分がケートゥから奪い取ったものを見ます。
 それは銀の鎖のついたペンダントロケットでした。ロケットの中にはにっこり笑う黒髪の美しい女の人の写真が入っています。
 ケートゥはその場に座り込むと、おいおいと泣き始めます。

「それは死んだおふくろの写真だ。おれと兄貴の親父は厳しい人間で、おれは小さな子供の頃から、岩山に登ったり、滝に打たれたりの厳しい修行をさせられた。兄貴はもう大きかったから何の文句も言わなかったが、おれは弱虫のガキでいつも親父にこっぴどく叱られては泣いていた。おふくろは病弱でいつも床に伏せっている人だった。ある日、おれが家に泣きながら帰った時、おふくろは床から出てきておれにこう言った。『修行が辛い時にはこれを見なさい。わたしはいつもあなたのそばにいるから。』おれは親父や兄貴に内緒で、そのペンダントを肌身離さずつけてた。修行が辛くて泣きたくなった時には、おふくろの写真を見てがんばらなきゃって思った。やがて、おれも大きくなって修行にも耐えられるようになった頃、おふくろはあっけなく病気で死んだんだ。もちろん、その時も修行中だったから、死に目には会えてない。おふくろだけじゃないさ、親父が死んだ時だって、おれと兄貴は修行してた。でも、そんな血のにじむような修行の甲斐あって、神はおれたちを認めてくれるようになった。『神にも人にも動物にも退治されないこと』、兄貴が願うからおれもそういうもんだと思った。『世界の王になる』、これも兄貴が言うからそれでいいんだと思った。でも、お前も見たろう、おれの夢を。ただひたすらの暗闇だ。世界の王になるなんて言っても、毎日、あの虎みたいな奴に怯えながら暮らしてるんだ。夢なんかあるはずがない。そんな中でたった一つおれが信じられるのが、おふくろの思い出なんだ。だから、お願いだ。それだけは食わないでくれ」

 それだけ言うと、ケートゥは抜け殻のようになってしまいます。タピーは複雑な気持ちになりましたが、ビーガにかけられた魔法を解くのが先決だと思いました。
「約束しろ。もう二度と悪いことはしないって」
 ケートゥは力なくうなずきます。
「わかった、もう悪いことはしない。おれはもう一度山にこもって修行し直す」

 

 霧が晴れて姿を現すタピー。涙を流して眠っていたケートゥも目を覚まします。
「そうか、お前だったのか。お前みたいなちび助におれが負けるなんてな」
 この言葉にタピーは身構えます。
「えっ、もし約束破ったら、今度は本当に夢を食べちゃうよ」
「約束する。『シェバ』の魔法も解こう。ところで、ちび助。一つだけ頼みがあるんだが」

 

 ベンガに何度も爪を振り下ろしていたビーガ。突然、その動きが止まり、ビーガは周りをきょろきょろと見回すと、目の前の血だらけのベンガに気付き大声を上げます。
「ああ、父さん。あなたは父さんじゃないですか。この傷は、そうか、ぼくが、ぼくが。何てことをしてしまったんだろう。ぼくには生きてる資格なんてない」
 嘆きながら自らの爪で喉をかき切ろうとするビーガをぎゅっと抱きしめてベンガは言います。
「いいんだ、お前は魔法をかけられていただけだ。今、タピーがそれを解いてくれた。タピーのおかげだ。ビーガ、父はお前に再び会えて嬉しいぞ」
 ベンガはそれだけ言うと、がっくりと膝を落とし、地面に倒れ伏します。

 とうとうタピーはケートゥを打ち破りました。ベンガもビーガとの再会を果たしました。