第三話:森の主

 少し前に降り始めたスコールの匂いが立ち込める深い森。タピーは歩きながらジャックに尋ねます。
「ねえ、ジャック。タリーバおじいとは何を話したの?」
 ジャックは羽根を繕っています。
「タピーをよろしく、だってよ。おいらがいるから安心しな、って言っといたよ」
 タピーはにこりと笑います。
「ありがとう、ジャック」

 しばらく歩いていると、ベンガの肩に止まっているジャックが叫びます。
「なあ、この場所ってさっきも通ってないか。あの樹に見覚えがあるけど」
 ベンガが立ち止まります。
「確かに、これだけ歩いているのにまだ森を抜けないのはおかしいな。もしかしたら道に迷ったかもしれない」
 タピーはのんきに言います。
「ジャック、空から見てきてよ。」
「やなこった。さっき羽根繕いしたばっかりなんだぜ。それにおいら鳥だから、こういう暗い空は苦手なんだよな」
「ええっ、このまま迷子になったらどうするのさ。頼むからちょっと空を飛んでよ」
 ベンガが口をはさみます。
「まあ、二人ともそのくらいにしておけ。雨が強くなってきたようだし、あそこの洞窟でやり過ごそう」

 

だんだんと翳ってくる洞窟の中。タピーがベンガに話しかけます。
「今日はこれ以上進めないね」
「まあ、雨の季節でもあるし、無理せず行くとしよう。ところでジャック、この北に神々の住まいがあるのか?」
「おいらは生まれたのがずぅっと南の島だから北の地理はよくわかんねえな。この間もラーラワティ様に聞いたんだけど、教えてくれなかったしな」

 その時、ベンガが緊張した表情になります。
「静かに。何かが洞窟の外を通り過ぎた。
 タピー、様子を見に行くぞ。ジャックはここにいてくれ」

 

 雨上がりのひんやりとした夜風の中に飛び出すタピーたち。外は一面の暗闇、月も見えません。
「あっちみたいだよ」
 タピーとベンガは暗闇の中を走り出しました。
 しばらくして、ベンガが立ち止まります。
「気配が消えている。きっとここだ」
 タピーたちがあたりを注意深く見回すと、一本の大きな木がわさわさと揺れています。
「どうやらこの木の上らしいな。一体何者なんだ」
 木はなおもわさわさと揺れ、何者かが降りてくるようです。やがて、その者は地上に降り立ちました。
「わざわざ追いかけてくるとは。一体わしに何の用じゃな。おや、これは珍しい。バクの子供とトラの二人連れとは」

 降りてきたのは、一匹の大きなサルでした。しわだらけの顔なので、何歳くらいか見当もつきません。
 ベンガは驚きを隠して尋ねます。
「あなたは一体どなたですか」
「名前なぞはとうに忘れてしまったわい。みんなはわしを『森の人』と言っとる」
「失礼ですが、お年はいくつですか」
「途方もない年月を生きておるとしか言えんが、今よりも神が身近におって、あらゆる人間がまだ純粋じゃった頃も知っておる。質問はそれだけか、ならばこちらの尋ねる番じゃ。お主らは一体ここで何をしておる?」
 ベンガがあらたまって答えます。
「私たちは旅の途中で、道に迷ってしまったようなのです」
 『森の人』はあごひげを撫でながら言います。
「ふぅむ、道に迷ったとな。ところで、お主らはなぜそのような姿なのじゃ。人間のように二本足で歩くとは奇妙じゃな」
 ベンガは少しためらいます。
「信じてもらえないかもしれませんが、ラーラワティ様が魔法をかけてくださったのです」
「ふぅむ、ラーラワティがのぉ。で、何のための旅なのじゃ?」
「この子供、タピーが北の山に住む神様に会わなければならないのです。私は生き別れになった我が子を探しています。しかし、北の山が一体どこを指しているのかわからないのです。もしや、ご老人ならご存知ではないでしょうか」

 

 闇の中で『森の人』のシルエットがゆっくりと動き出します。
「確かにわしはお主らの目指す北の山がどこにあるのかを知っておる。だが、それをお主らに教えるわけにはいかん。」
 ベンガは息を呑みます。
「なぜですか。なぜ教えてはくださらないのですか。私たちが怪しい素性だとお思いだからですか。」
「いや、お主らのことはだいたいわかったわい。愚かな動物が、愚かな人間に姿を変え、旅をする、それは許されるのかな?」
 そう言うと、『森の人』はその場で踊り始めました。

 すたん、すたん、すたたん、たん。

「この世のあらゆるものには決まりがある。それが理(ことわり)じゃ。野に生える草も、草を食べる牛も、牛にたかる蝿も、理に従っているのじゃ」
 『森の人』は大地を踏みしめ激しく踊ります。

 だだん、だだん、ずだだん、だん。

「思い上がった人間が理から逃れようとするが、それは容易いことではない。ところが、お主らは、ラーラワティの力とはいえ、運命の輪をやすやすと破ってしまった」
 燃え盛る炎のように『森の人』は踊り続けます。
「あらゆるものが生きている間に別の生き物に姿を変えたらどうなると思う。世界はどうにも立ち行かなくなるぞ」
 ベンガは慌てて言います。
「私たちは世界を変えるなどという大それた考えは持っておりません」
「自分達だけくらいなら問題ないと思っているようじゃが、小さな綻びはやがて世界を覆い、取り返しのつかない事態に陥るのじゃ」
「では私たちにどうしろと言うのですか」
 『森の人』は冷たく言い放ちます。
「お主らはこれ以上、この世界に関わるべきではない。このまま森の中をさ迷い続けるがよかろう」
 確かに『森の人』の言うことは正しいように思えて、ベンガは言葉を失います。

 タピーは思いました。
「おじいさんサルは、ぼくたちをキライなのかなあ。ベンガもしゃべらなくなっちゃった。なんだかむずかしい話みたいだけど、ぼくが何とかしよう。おじいさんサルにわかってもらわなくっちゃ」

 

 真っ暗だった森の中に少しずつ差し込む朝の太陽。『森の人』は踊り続けています。
「どうじゃ。このままこの森で暮らすというのならば、元の姿に戻してやってもよいぞ。理に従うならば、次の生まれ変わりでは人間にもなれるだろう」
 黙っていたタピーがとうとう口を開きます。
「おじいさんはぼくたちが変だって言うけど、そっちの方がよっぽど変だよ」
 『森の人』は踊りを止めて聞き返します。
「ん、バクの子供よ。それはどういう意味だ」
「おじいさんは悪い人じゃあないのに、どうしてぼくたちに意地悪するの?」
「ふん、その目はまるっきり節穴というわけでもなさそうじゃ。では最後の質問をするか」
 『森の人』は静かに問いかけます。
「お主らは北の山に行くと言ったが、行ったところで何がある。偉い神に会って何を願う。神だとて、お主らの期待には添えないかもしれないぞ」
 タピーはきっぱりと答えました。
「ぼくは別に構わないよ。北の山に神さまがいなくたっていいさ」
 『森の人』はちょっとびっくりしたようです。
「ん、それは一体どういう意味じゃな。そもそも神に会わなければ、お主の願いは叶えられないのじゃろ」
「うーん、うまく言えないけど、ラーラワティさまが旅に出ろって言ったのは、願いをかなえるためだけじゃないんじゃないかなあ。だって、ベンガやジャックに会えたし、あ、ジャックっていうのは一緒に旅をしてる鳥なんだけどね。それに今はおじいさんと話をしてる。ぼくは今までこんなにたくさんの人たちと話をしたことがなかったんだ。体の色が違うからって、誰もぼくを相手にしてくれなかった。でも、ベンガやジャックやおじいさんはそうじゃなくて、ぼくの目を見て話をしてくれるし、こうやってぼくの話を聞いてくれる。
だから、もしも神さまに会えなかったら、そりゃ悲しいだろうけど、でも、ベンガやジャックやそれにこれから先で会う人たちの話を聞いたり、ぼくが話したり、一緒に笑ったり、泣いたりするのが、うーん、なんて言うのかなあ」
 ベンガが小さな声で助け舟を出します。
「タピー、もしかしたらお前は私達を友だと言いたいのか」
 タピーは目を輝かせます。
「そう、友だちだよ。ベンガもジャックもみんなみんなぼくの友だちなんだ。それがいちばん大事なんだよ」

 

 突如ばさばさと上から降りかかってくる朝露。『森の人』がおもむろに口を開きます。
「これはまた、今時こんなに純粋な心を持った者がいるとは驚きだわい」
 タピーは笑って聞き返します。
「えっ、おじいさんだってぼくたちの本当の姿が見えるんだからきれいな心の持ち主なんでしょ。ラーラワティさまがそう言ってたよ」
「お主らの本当の姿が見えるのは、純粋な心とかいう問題ではないがな」
 しわだらけの『森の人』は一瞬だけ笑ったように見えました。
 『森の人』は再び踊り始めますが、さっきまでの踊りとは違って、軽やかで嬉しげです。

 ととん、ととん、すととん、とん。

「わしは気が変わった。お主らをこの森に閉じ込めてしまうつもりじゃったんだがな」
 『森の人』は楽しげに踊ります。

 たらった、たらった、てぃらららたん。

「このまま旅を続けて、北の山を目指すがよい。わしはお主らの成長をしかとこの目で見届けてやろうぞ」
 『森の人』がそう言うと、しわだらけの額に三個目の目が浮かび上がります。
「あ、あなたは」

 タピーもベンガも腰を抜かしそうなくらい驚きました。『森の人』はまぶしい光に包まれ出し、声も年寄りのしわがれ声ではありません。
「よいか。目指す北の山ははるか遠く、コンリーヤのシュマナ山と呼ばれる場所だ。ここから海を渡り、海岸線に沿って歩き、『海人の国』より船に乗るがよい」
「シュマナ山はそこからすぐなの?」
「いや、そこからまた長い道のりだ。今は『海人の国』を目指すことだけを考えるがよい。お主らはちっぽけな島の上にいて、まだ旅の一歩も記していないのだ」

 そこにジャックが慌てて飛んで来ます。
「おいおい、お前ら。おいらがどんなに探したか...ひゃあー、あなた様は。」
 さらに何か言いたそうなジャックを制して、『森の人』が言います。
「さて、全員揃ったようだな。森から出るとするか」
 そう言って『森の人』が指差した方向には森の出口が見えます。
「あれほど探しても見つからなかった森の出口がこんなところだったとは」
 きらきら輝く『森の人』は森の出口に向かって歩き始めます。
「わしの力で出口を隠しておいたのだ。さあ、早くわしについて来い」
 ずんずんと海の方に向かって歩いていく『森の人』、その後を追いながら、タピーはベンガにひそひそ声で言います。
「ねえ、ジャックはあのおじいさんサルを知ってるみたいだね」
「うむ。私もあの方が誰だかわかったぞ」

 

 切り立った断崖に着いた『森の人』とタピーたち。崖の下からの突風に吹き上げられながらタピーが言います。
「わあ、これが海なの。大きいなあ。でも、どうやってここを渡るの?」
「はるか向こうに黒い点のように見えるのが陸地だ。これからお主らをあそこまで渡してやろう」
 そう言うと、『森の人』の体がさらに輝き出し、本当の姿が現れます。
「ああ、やはりあなたはディアンカーラ様でしたか」
 ディアンカーラはおごそかに自分の頭を指差しながら言います。
「わしの頭には天上の大河の水が流れておるが、その水を海にこぼした時の飛沫で虹ができるのだ。これより向こうの陸地まで虹の橋をかける。お主らはそれを渡っていくがよい」

 ディアンカーラは断崖の上に立つと、髪の毛を束ねている髪飾りをはずします。
「天上の聖なる河よ。その一滴を海にこぼすが良い」
 一滴どころの話ではありません。ディアンカーラの頭からものすごい量の水が滝のように海に落ちていき、飛沫が上がります。
 飛沫からは美しい七色の虹ができていき、やがて、その虹はどんどん大きくなり、はるか向こうの陸地までまあるい橋がかかります。
 タピーたちがびっくりして言葉を失っているのを見て、ジャックがおずおず尋ねます。
「ディアンカーラ様、ところでこの橋は渡っても大丈夫なんですか。」
「うむ、大丈夫だ。ラーラワティも言っておったろう。信じる心が大切だと」
 ベンガはディアンカーラに尋ねます。
「ディアンカーラ様、ありがとうございます。なぜここまでしてくださるのですか?」
 ディアンカーラは髪の毛を束ね直します。
「さて、わしにもよくわからんが、あの少年の言う通りかもしれん。あの少年の純粋さと見守るお主の誠実さが、世界を照らす光となるのかもしれん」
 タピーは虹の橋の方に駈けて行きます。
「わあ、この虹、かちんかちんだよ。ねえ、早く渡ろう。」
「タピー、それよりディアンカーラ様にお礼を言わないか」
 タピーが頭をかきながらやって来ます。
「そうだった。おじいさん、じゃなかったディアンカーラさま、どうもありがとう。そうだ、一緒に旅をしない?」
 ジャックがあわててタピーをつっつきます。
「こら、お前は何を言い出すんだ。すいません、ディアンカーラ様。こいつは本当に世間知らずでして」
 ディアンカーラはちょっぴり笑顔を見せます。
「まあよい。早く橋を渡るがよい。もしも、お主らの心に少しでも邪なるところあらば、たちどころに嵐を起こすからそう心得よ」

 

 ディアンカーラに見送られ、虹の橋を渡るタピーたち。タピーはベンガに話し掛けます。
「ディアンカーラさまは『ただ者』じゃあないね」
 ジャックがタピーを怒鳴りつけます。
「またそんなこと言ってるのか、お前は。ディアンカーラ様は神々の中の神。普通だったらお前が話なんかできるわけないんだぞ」
 ベンガがジャックをなだめます。
「まあそう言うな。タピーのおかげで森を抜けられたようなものだしな」
 タピーはきょとんとしています。
「おじいさんサルになれば、すごい力があるってこと?そうだよね、おじいさんは大事にしないといけないよね」