海の近くの家に引っ越したのは、ミチルが世界からいなくなって数か月経った頃だった。その頃の僕は食事も睡眠もろくにとらず、あわよくばお迎えに来てもらおうとしているように見えたらしい。絶望の辺土に立ちすくんだままで動けないでいる愚か者を見かねた友人たちが、気分転換が必要だよ、と言って探してくれたのがその家だった。
越してきた当初は何も変わらなかったが、やがて少しずつ外界と接点を持つようになった。
きっかけは会社の近くのコンビニで煙草を買うのを忘れたて、駅から家までの帰り道の間でタバコを買おうと思った事だった。自動販売機を探している内に、どの辺りをどのくらい歩いたのだろう、気が付けば浜辺に出ていた。しばらくすると足に纏わり付く砂と波がとてつもなく重たく感じられるようになり、運動不足の僕は息が切れた。それでも何故か歩くのを止められなかった。
以来、浜辺を歩くのが日課となった。大抵は早朝、朝の浜辺では人も海も新しく生まれたてのような気がして好きだった。
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その夜は大型の台風が真夜中に通過したらしかった。屋根に打ち付ける激しい雨の音を聞きながら、サヨクくずれのコメンテータのしかめっ面をテレビで見て布団に入った。
夜中に目が覚めるとすっかり静かだった。台風はどこかに行ってしまったようだ。一旦目が覚めるともう眠る事はできそうになかった。
時計を確認すると早朝というよりも深夜の時間だったが散歩に出かける事にした。
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海に着くとそこは暗黒の世界だった。台風が月も星も音までも吹き飛ばしてしまったんだと思った。
歩いている内に前方に何かが横たわっている気配がした。もちろん暗黒の世界の中で見えているはずはないのだが、異様なシルエットのものがある、そんな気配だった。
恐る恐る近付いていき、煙草を吸うために持っていたライターを灯した。
それは確かテレビで観た事のある何とかのツカイとかいう巨大な魚で、試しに頭から尻尾まで歩いてみると優に三メートル以上はあった。
この台風で陸に打ち上げられたのだろう、気の毒にな。
そう思って打ち上げられた魚の隣に座って煙草に火を点けた。
きっとこの魚は海には戻れずにこのまま死んでいく。
僕はここにいるのに、死んでいく魚を黙って見ながら煙草を吸っている。
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僕はパンツの砂を払うと、その魚に慎重に手を触れた。優しく触らないと壊れてしまう気がして頭を持ったまま、ゆっくりゆっくりと水辺に向かって引っ張っていった。
十分近くかけて、ようやく魚の全身が水に浸かる所まで漕ぎ付けた。
後は水の中に戻せば終わり、凪いだ海に魚を放した。
魚はぷかぷか浮くだけで、一向に泳ぎ出す気配を見せなかった。
もっと沖で放さないとだめか。
僕は一旦、浜辺に戻り、スニーカーを脱いで煙草とライターと小銭をその中に入れて濡れない場所に置き、パンツの裾をまくり上げて再び海の中に入っていった。
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魚を小脇に抱えたまま、沖に向かって進むがなかなか泳ぎ出さなかった。
自分よりもはるかに大きな魚を抱えているせいか何度もバランスを崩し、水の中で尻餅を着いたり、つまづいたりした。
やがて、もう足が届かない地点までやってきた。
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「もうこれ以上は無理だ。後は一人で泳いでいってくれ」
そう言って魚を沖に向かって放そうとした時に、魚から声が聞こえた。
いや、実際には魚の浮袋か何かが音を立てただけだったかもしれない。
「……サ……ヨ……ナ……ラ」
僕は戻るのも忘れ、ようやく姿が見えなくなりつつある魚の姿をいつまでも追いかけた。
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浜辺で寝転んで煙草に火を点けた。
いつの間にか涙がこぼれ落ちてきた。
ミチルを失くしてから初めて声を上げて泣いた。
空がだんだん明るくなってくる。
そろそろ家に帰ろう。