9.8. Story 3 終わりのない坂道

2 夏の終わり

 歯を磨いてシャワーを浴びた所までは覚えていた。
 服を着て、水筒を肩から下げ、ホテルの部屋を出ようとした途端に、目の前が真っ暗になって意識が遠のいた。

 気が付くと布団の上で寝ていた。
 ホテルのベッドではなく、畳の上に敷かれた布団だったので、一瞬自宅にいるのかと勘違いした。
 しばらく天井を眺めて、ようやく自分が広い和室の真ん中に敷かれた布団の上に横たわっているのを理解した。

 セミの声がした。
 ひどく暑くて寝返りを打って、リンは飛び上がった。
 自分の右横にもう一人、父ではない人物が横たわっていたからだ。
 リンがこわごわ覗き込むと、同じ年頃くらいの少女だった。
 少女は熱でもあるのか、尋常でない汗をかいて、小さく唸っていた。

 すっかり目が覚めたリンは改めて周囲を見回した。
 自分の寝ていた広い和室の右手は障子が開けっ放しになっていて、縁側から外の景色が見えた。真夏の日差しの下、緑の山々が視界いっぱいに広がって、セミの鳴き声はそちらから聞こえるようだった。

 ここはどこだ。万博に来ていたはずなのに、こんな山の中にいるなんて。
 そうだ、父さんに訊けばわかるかもしれない。
 リンは少女を起こさないように、縁側と反対の障子をそっと開けた。
 開けた先は土間で、一台の自転車がぽつんと置かれているだけで、他には何もなかった。土間の向こうに玄関があり、戸は閉まっていた。
 今度は縁側の方に回ってみたが、縁側の先には壁があるだけだった。

 リンは和室に戻って布団の上に座り込んだ。
 和室と土間しかない家、父さんの姿は見当たらず、見知らぬ少女が熱を出して唸っている。
 どうすればいいんだろう?

 
「この中に入って息子を救い出す」と源蔵が言った。
「そう言われると思っていました。本当は私たちもご一緒したいのですが」
「いや、見ず知らずの君たちを危険な目に遭わせる訳にはいかない。知っての通り、私はこういった別空間を経験した事があるのだよ。一人で大丈夫だ。安心したまえ」
「こいつが」とコクがハクを指して言った。「『ご一緒できない』って言うのには訳があるんだ。こういった空間は強力な力で維持しとかないと、すぐに閉じる。その維持を俺たちがやっとかないと、あんたもあんたの息子も戻ってこれなくなっちまうんだ」
「なるほど。で、用済みになった場合はどうするのだね?」
「それは……まずは息子を無事に救い出す事だ。空間を閉じるのはその後で考えりゃいい」
「わかった。まだ他に言っておく事があるかい?」
「――息子さんだけでなく、同年代の女の子もこの先にいる可能性がかなり高いです。その子も救い出して下さい」
「もちろんだよ。さっきフロントがバタバタしていたのはそれが理由かい?」
「そうです。しかもその女の子は昨夜から熱を出しているようです。一刻も早く助けてあげないと」
「わかった。他にはないね」
「その水筒、中身はたっぷり入ってるよな?」
「抜かりないよ――では行くとしよう。君たちの名前は帰ってからゆっくり聞く」
 源蔵はそう言って空間に身を投じた。

 
 リンはしばらく待ったが、父が現れる気配はなかった。
 少女は一回だけ目を覚ましたようだったが、またすぐに眠りに落ちた。あまり具合が良くなさそうだった。
 このままじゃ、まずい。僕がどうにかしなくちゃ。
 ――そうだ、自転車だ。
 土間に置いてあった自転車に乗って、誰かに助けてもらえる場所まで行くんだ。

 土間に降りて自転車の状態を確認した。大人用だがどうにかこげるだろう。
 問題は少女だった。ここに置いていく訳にはいかない。あの子をどうやって運ぼう――

「あの」
 いつの間にか眠っていたはずの少女が起きて、和室の端に立っていた。
「……ここはどこ?」
「僕もわからないんだ」
「中原さんはどこかしら?」
「それ誰?ここには僕と君しかいないよ」
「えっ、どうして――あ、ごめんなさい。あたし、沙耶香です」
「僕はリン。リンって呼んでいいよ」
「ねえ、もしかしたらここは万博会場の中のどこか?」
「縁側から外を見てごらんよ。昨日、あんな景色は近くになかった」
 沙耶香はちらっとだけ振り返って、すぐにリンに向き直った。
「あなたも万博に行ってたの。あたしもよ。お父様じゃなくて中原さんが連れてきてくれたんだけど」
「どうしてだかわからないけど、迷子になってここにいるみたいだ」
「どうすればいいの?」
「君が眠ってた間、僕の父さんか他の誰かが来るんじゃないかって待ってたけど来なかった。だからこれから自転車に乗って探しに行こうと思ってるんだ」
「どうして。外は暑いわよ」
「だって、君は病気じゃないか。顔が真っ赤だよ。早くお医者さんに行かないとだめだよ」
「うん、少しふらふらするの――ねえ、あたしも連れてってくれる?」
「もちろん、そのつもりだよ。でも君をどうやって運ぼうか?」
「二人乗りで大丈夫よ。あたし、しっかり捕まってるから」

 
 自転車を土間から引っ張り出し、リンは久々に戸外に出た。
「わあ、暑いな。準備はできた?」
 外に出てきた沙耶香は珍妙な格好をしていた。ターバンのように頭から布をかぶって、もう一つ同じものを手に持っていた。
「二人とも帽子ないでしょ。日射病になるといけないから、枕カバーをかぶったの――はい、これ、リン君の分」
「あ、ありがとう。体は本当に大丈夫?」
「平気よ」
「できるだけ日陰を進もうね」

 リンは沙耶香から枕カバーをもらうとそれを頭にかぶった。
 サドルにまたがり、自転車の具合を確認した。
「さあ、行こう」
 沙耶香が女の子座りで荷台に腰掛けた。
「ちゃんと捕まっててね」
 リンは右足で地面を蹴ると共に左足でペダルを力いっぱい踏み込んだ。

 
 まっすぐな舗装道路はどこまでも続いていた。
 ここまでは人とすれ違うどころか、車や家も見当たらなかった。
 縁側から見た時には緑の木々の生い茂る山の中だと思っていたのに、道の両脇はぼぉっと白い霧がかかったようで、陽射しを遮る場所はないようだった。
 リンは後の沙耶香に話しかけながら進んだ。
 まだ会話が続くうちは大丈夫だ。でもこのままじゃ、僕も倒れちゃう――

 
 源蔵を見送ったハクとコクは急いで、“Do not disturb”の札を外のドアノブにかけた上で、ハクが6階、5階、ロビーの様子を確認しに出かけた。

 様子を見にいったハクがコクの待つ部屋に戻ってきた。
「下は大騒ぎになっている。警察を呼んだようだ」
「ホテル関係者にせよ、警察にせよ、各部屋を見て回る。そん時にこいつをどう説明する?」
 コクは目の前の黒い空間を指して言った。
「確かに非常にまずいな――」

 
「やれやれ、頼りないボディガードだわ」
 二人は突然響いた声に身を固くした。
 現れた二人の女性を見てコクは声を上げた。
「……シメノばあちゃん。もう一人はコザサおばさんか?」
「そうだよ」
「1970年のばあちゃんか、それとも俺たちと同じ時代のばあちゃんなのか?」
「バカだねえ。70年のあたしたちがこの状況を知ってる訳がないじゃないか。あんたたちと同じく、リンに言われてこの時代にやってきたんだよ」
「って事はよ。今、ばあちゃんたちは二か所に存在してるんだな」
「そんな事、気にしてる場合じゃないよ。あんたたち。この穴が見つかったらどうしようって悩んでるんだろ?」
「その通りです」
「安心おし。結界張ったから警察もこの部屋には入れないさ」
「ありがとうございます」

「ちょっと穴の様子を見せておくれ」
 白い単のシメノと赤い単のコザサは部屋の中央に進み、空間を覗き込んだ。
「しっかりしてるわね。さすがは羅漢が造ったもの」
「こちらから塞ぐのは難しいわね」
「姉さん、リンはすでに出発したようよ」
「源蔵さん、急いで追い付いて」

 
 道が大きく曲がり出し、下り坂になった。
 ようやく山の中に入ったのかな。相変わらず木々の姿が見えなかったが、セミの鳴き声は大音量で耳に飛び込んできた。
 このまま下り坂が続けば楽だけど、そんなはずはなかった。
「ねえ、調子はどう?」
「……うん、まだ平気」
 反応が少し鈍くなったような気がした。日陰を探さないと――

 
 源蔵は自分の置かれた状況を整理した。
 ホテルの部屋で黒い穴に身を投げ、気がつくと見知らぬ場所にいた。
 背後には黒い穴、前方には白い道がどこまでも伸びていて、今いる場所が道の終点のようだった。
 緑の山々が一望できたが、一体ここがどこなのか見当もつかなかった。
 蝉時雨がフルオーケストラで鳴っていた。
 リンはどこにいるのだろう。ここで待っていれば――

 蝉時雨に混じって人の声が源蔵の耳に飛び込んできた。
 リンは自転車で出発した。早く見つけてあげなさい――
「えっ、君はあのホテルの青年か。女性の声のようだが」
 ここで待っていては間に合わない。急がないと息子も少女も危険だ――
「わかりました。まっすぐに行けばいいんですね」

 源蔵は走り出した。肩から下げた金属製の水筒がかたかたと小さな音を立てた。

 
 下り坂は終わり、だらだらとした上りになった。
 この上り坂が終われば山の頂上だ。
 そうすれば誰かが待っているだろうか。
 いや、ここまで道以外のものは何もなかった。頂上にも何もないだろう。
 リンはあきらめ半分でペダルをこぎ続けた。

 頂上には予想外のものが待っていた。一本だけ背のそんなに高くない木が生えていて、その下に日陰ができていた。
「ああ、ちょっと休憩」
 休まずに山を越えたリンは後の沙耶香にも聞こえるように大声を出したが、返事はなかった。
 木陰に自転車を止め、荷台に腰掛ける沙耶香の様子を確認した。息が荒くなり、目は潤んでいた。
 急いで沙耶香を木陰に運び込み、水筒の水を飲ませた。
「大丈夫?」
「……平気よ。先を急ごう」
「うん」

 何故かはわからないけど、この先の下りを越えると、また上りで、そこには木が一本だけ生えていて、そしてまた下る……その繰り返しのような気がした。それがいつ終わるのか、自分の力だけではどうにもならないんじゃないか、リンはそう思いながらゆっくりと沙耶香の手を取った。

 
 源蔵は走った。
 こんなに走ったのはいつ以来だろう……大都が事故に巻き込まれた、あの悪夢の日が最後だったような気がした。
 それにしても不思議な風景だった。遠目には緑の山々が広がっていたのに、実際には道の脇は霧で煙ったようになっていて一本の木も生えている気配がなかった。
 陽射しは容赦なく照り付けたが、水筒の水には手をつけなかった。これは息子と助けを求めている女の子に与えるものだった。
 山を一つ越えた所で心臓が痛くなり、もう一つ越えると今度は膝が笑い出した。
 もうだめだ、少し速度を緩めたい、だが自分の気持ちとは裏腹に足は止まらなかった。

 三つ目の山の中腹ではるか前方に小さな黒い点が見えた。近付くと、それが人だというのがわかった。
 道の真ん中に自転車が横倒しになり、男の子が仰向けに倒れ、女の子が傍らで座り込んでいた。
「リン!」
 源蔵は倒れているリンに駆け寄ると、持っていた水筒の水を手に取り、リンの顔を濡らした。
「……あ……父さん」
「どうしたんだ?」
「……幾つも山を越えて……でも転んじゃって……あ、あの子は平気?」
 源蔵はしゃがみ込む沙耶香に近寄った。源蔵が小さく肩を叩くと、沙耶香は顔を上げて、にっこり微笑んだ後、目を静かに閉じてぐったりとなった。
「これはまずい――リン、この子は誰なんだ?」
「……そういえば、さっき自己紹介されたけど覚えてない」
「お前もまずいな。二人とも脱水症状を起こしかけているに違いない。早くここから出よう」
「えっ、出口あるの?」
「ああ、私が入ってきた場所、そこから出られるはずだ」

 
 ぐったりとした沙耶香を背負い、リンを荷台に乗せ、源蔵は自転車をこぎ続けた。あれほど厳しく照り付けていた夏の太陽がいつの間にかオレンジ色の夕日に変わり、三人を染め上げた。
「……終わりだなあ」
「えっ、父さん、何か言った?」
「いや、夏も終わるな」
「……夏休みはまだ終わらないよ」
「そうだな」

 
 道の終点が見え、黒い穴が確認できるほどの近さになった。
 源蔵は自転車を止め、リンが荷台から飛び降りた。

「何、この黒いの?」
「父さんはこの穴を通って来た」
「『タイムトンネル』みたい」
「ああ、そんなものだ――さあ、リン。この子を連れて穴に飛び込め」
「えっ、父さんが先に行ってよ」
「……父さんはまだやらなければならない事がある。すぐに追い付くから先に行きなさい」
「えーっ、三人でも十分に入れるよ。一緒に行こうよ」

「――リン。よく聞きなさい。父さんは昔、これと同じような経験をした。その時に知ったのは、こういった穴は誰かが塞がなくてはいけないという事なんだ。そのままにしておく訳にはいかないからね。つまり、父さんがここに残り、この穴を塞ぐ」
「……えっ、戻ってからあっち側で塞げばいいじゃない?」
「こういう穴には『方向』があるらしい。理解しにくいかもしれないが、穴を開けられた側、つまりこちらだな、からでないと塞げない。穴を開けた側の空間を操作するのは並みの人間では無理なんだそうだ」
「……よくわかんないよ。一緒には行けないの?」

「安心しろ。リン、いつか又会える。父さんは必ずお前の下に戻る」

「約束だよ」
「約束だ。ああ、静江さんに……いや、いい。直接会って謝ろう――さあ、急ぎなさい」
「絶対だからね」

 源蔵は半ば強引に沙耶香の体を、続いてリンの体を穴の中に押し込んだ。

 
 梅田のホテルの部屋にリンと沙耶香が戻った。
「……帰ってきた」
 意識のないまま、ベッドに横たわるリンと沙耶香を前にハクが言った。
「沙耶香の方はそっと部屋に戻しとこうね」
 シメノはそう言って沙耶香の体を抱きかかえ、コザサと共に部屋を出ていこうとした。

「ばあちゃん、この穴は?」とコクが尋ねた。
「源蔵さんはわかってるはず。だから戻ってこない」
「……向こうから穴を閉じる気か?」
「そう。それが歴史の必然」
「確かに。じいちゃんの行方不明は起こるべくして起こった訳だな」

 
 源蔵は暗い穴の前に立った。肩から下げた水筒がかたかた鳴った。
 大都のような超人ではない凡人の私にできるだろうか。
 だがやるしかなかった。
 源蔵は意識を集中し、「穴よ、閉じろ」と念じ続けた。
 やがて目の前が真っ白に光り出し、自分がどこかに流されていくのを感じた。

 

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