9.2. Story 3 時間の輪

3 魔王の誕生

 男にとって国とは領民だった。
 早朝、城を出て、領内を回り、民と語らい、日が暮れる頃、城に戻るのが彼の日課だった。
 徒歩の場合もあったし、遠出をしようという日にはこの星特有のヴェナと呼ばれる獣に跨る場合もあったが、彼は一切お供を付けず、一人で出かけた。
 先々代の王の時分から仕えるリーブリースという大臣はこれをひどく嫌がったが、男は気にしなかった。
 領民を緊張させず、本音を聞き出すには一人の方が都合良かったのもあったが、誰にも咎められずに野山を駆け巡るのは最高の気分だった。
 幼馴染のスフィアンと一緒に一日中悪さをしていた頃に戻ったような気がした。スフィアンは《念の星》に修業に出て、自分も王の座を継いだ事により、生活が一変した。堅苦しい城の中で、しかめっ面をしているよりも、自分には野山を駆け巡っている方が似合っていた。
 領民たちも生き生きとした自分の顔を見かけると「シュバルツェンブルグ」という長ったらしい名ではなく、「我が王」と親愛の情を込めて呼んでくれた。

 
 その日は少し違った。前夜、居室で聞いたあの音、まるで空が割れたような異様な音だった、その正体を確認しなければならなかった。
 リーブリースに話せば絶対に「調査隊を編成してから」と言い出すに決まっていた。

 シュバルツェンブルグはいつもよりも慎重に、いつもよりも早い時間に出立した。
 音をたてないようにヴェナに跨り、城の外に出ると、夜が明けようとしていた。

 町や村ではなく、少し離れた山に向かい、顔見知りの老人が暮らす炭焼き小屋の扉を叩いたが返事がなかった。無礼を詫びながら小屋の中に入っていくと、炭焼き小屋の老人が毛布を頭からかぶってぶるぶると震えているのが見えた。
「おはよう。どうした、具合でも悪いか?」
 シュバルツェンブルグが声をかけると、老人は布団から目だけを出して答えた。
「おお、我が王じゃねえか。って事は、世界は終わってねえんだな」
「一体何があった。昨夜の凄い物音に関係あるのかい?」
「ああ、裏手の谷底だと思うんだが、わしゃ怖くて見に行けねえよ」
「大丈夫だ。私が今から見に行こう。安心して休んでいなさい」

 
 シュバルツェンブルグは炭焼き小屋から山を一つ越え、ヴェナを置いて徒歩で谷へと降りていった。
 谷底には深い霧が立ち込めていたが、風の加減か、ゆっくりと薄らいでいき、景色がはっきりと見て取れるようになった時に、シュバルツェンブルグの視界に妙な物が飛び込んだ。
 谷底に斜めになって置かれたその物は、最初は赤褐色をした枯れ木に見えたが、やがてそれが鎧のような形をしている事に気付いた。
 鎧があるという事は近くに人がいるのか、シュバルツェンブルグは周囲を見回したが人の気配はなかった。
 慎重にその物に近付いていくと、その物の周囲に黒い湯気がゆらゆらと立ち昇っているような気がした。
 黒い湯気は再びの風に一瞬でその姿を失くしたが、それにより、かえって谷底全体に嫌な空気が蔓延したように思われた。

 あまり良い雰囲気ではないな――シュバルツェンブルグはゆっくりと歩を進めた。足元に砂利とは違うぐにゃっとした感触を感じ、慌てて足を退けると小鳥の死骸だった。
 シュバルツェンブルグはしゃがみ込み、小鳥の死骸を手に取り、祈りを捧げた。その体勢のまま、目線を上げ周囲を見回すと恐ろしい事が起こっていた。
 たった今、ちらっと見えた黒い湯気、それが今や谷底の至る所でゆらゆらと湧き上がっているのが見え、その下の地面ではこの場所と同じように小動物や小鳥が静かに息絶えていた。

 このままではこの黒い湯気が谷を覆い尽くし、やがては近くの村まで侵入する。やはりあの鎧のような物が原因だろう。手遅れになる前にどうにかしないと――シュバルツェンブルグが小鳥の死骸をそっと地面に置き、立ち上がったその瞬間、膝から先の感覚がなくなり、思わず前のめりに倒れそうになった。
 まずい、屍となった動物たちと同じく自分もこの黒い湯気に毒され始めている。こうなれば何としてもこの元凶と思われるあの謎の鎧を破壊せねば。

 
 シュバルツェンブルグは剣を抜き、杖代わりに地面に突き立てながらじりじりと進んだ。
 謎の物体の正体が徐々に露わになった。やはり赤褐色に変色した鎧のようだった。傍らには同様にひどく黒ずんだ兜も散らばっていた。
 この鎧兜の持ち主はここまで来て、それを脱ぎ捨てたのか。それにしては持ち主がいたであろう痕跡は一切見当たらなかった。

 体力は容赦なく奪われていった。
 くそ、この黒い湯気は悪魔が地下から伸ばした繊毛に違いない。この命に代えてでもあの鎧を破壊してやる。

 かなりの時間をかけ、這うようにして鎧のある場所までたどり着いた。
 見れば見るほど禍々しい鎧だった。元は鈍色をしていたが、大量の血を浴び、それがこびりついたために変色したのだろうか。どれほどの数の相手を切り刻めばこのような色に染まるのか想像もつかなかった。
 シュバルツェンブルグは大きく肩で息を一つすると鎧に向かって剣を振り上げた。

 
 剣を振り下ろそうとしたシュバルツェンブルグの頭に声が響いた。
(ここまで来たのは誉めてやる)
「……鎧がしゃべっているのか。この悪魔の繊毛をそのままにはしておけぬゆえ、破壊させてもらうぞ。悪く思うな」
(悪魔の繊毛か。上手い事を言うがこれは今より遥か先の未来、龍との闘いにより鎧に染み込んだ呪いと疫病、あらゆる憎しみが造り出した瘴気だ)
「戯言を言うな。今より遥か先の未来だと。嘘吐きの悪魔め」
(鎧兜を破壊した所でこの瘴気を抑える事はできぬし、そもそもお前に破壊はできない。瘴気を抑える方法、知りたくはないか?)
「……言ってみろ」
(鎧と兜をその身に纏う事だ。さすれば瘴気は収まる)
「な、戯けた事を」

 言葉を返したシュバルツェンブルグは改めて鎧をじっくりと見下ろした。
 もしも伝説の龍と闘ったのが本当であれば、さぞや名のある勇者が身に付けていた物だろう、それを身に纏えば自分も勇者に近付けるかもしれない。
 逡巡を見透かしたように鎧が続けた。
(そうだ、それでいい。お前でなくてはならぬ。これだけの瘴気の中で立っていられるお前であれば必ずや着こなせる)
 シュバルツェンブルグは剣を納めるとのろのろと鎧に手を伸ばし、手に取った。
 ずしりと重かったが不思議と力が抜ける事はなかった。
 シュバルツェンブルグはごくりと息を呑みこみ、鎧をその身に纏った。

 
 リーブリースは気が気でなかった。普段であれば城の主、シュバルツェンブルグ王が朝の視察から戻る時間だったが、昼を過ぎてもその姿はなかった。
 昨夜の大音声の原因を調査しに行ったか、全く我が王の真面目さには頭が下がる思いだ。先代の王が若かった頃はやんちゃをして朝帰りをする事もしばしばだったが、シュバルツェンブルグ王に関してはその心配がなかった。よくできた、いや、出来過ぎた若者だった。
 あのお方なら心配ない、領民の話に耳を傾けるのに夢中になっているだけだ、リーブリースがそう考えて執務に戻ろうとした時、城門の方から大声が聞こえた。
 リーブリースが慌てて城門に向かうと、跳ね橋の付近で門番とヴェナに跨った男が睨み合っていた。

 
「騒がしいぞ。何事だ?」
「はっ、この怪しい男が無断で城に入ろうとしますもので」
「どなたですかな?」
 リーブリースは誰何してからヴェナ上の男に鋭い一瞥をくれた。

 これは……
 異形の鎧に身を包み、兜で顔を覆っているが、ヴェナ上の人物は我が王、シュバルツェンブルグに相違なかった。
 それにしてもあの鎧兜。まるで血の海に長年漬け込んだような色合いといい、この国では見かけない形といい、どこか禍々しさを感じさせる。
 我が王は何故、あのような物を身に付けられているのか。兜を取り、素顔を晒せば済む話だし、一声聞けば門番も我が王だとわかるだろうに。
 そうできない事情でもあるのか。昨夜の大音声に何か――

「――大臣、どうされました?」
「すまん。考え事をしておった。さあ、我が王の帰還なるぞ。門を開けんか」
「えっ、今、何と?」
「何度も言わせるな。誰かヴェナを引けい」

 
 その日以来、鎧兜の男は城にいても一言もしゃべらず、兜もはずさなかった。
 家臣は気味悪がり、次々に城を去っていったが、リーブリースだけはシュバルツェンブルグである事を信じ、黙々と仕えた。

 やがて男が暗黒魔王という名で悪名を高めていった頃に、たまらず一度だけ尋ねた事があった。
「あなたは我が王、シュバルツェンブルグで間違いありませんな?」
 どうせ何も答えないとたかをくくっていたリーブリースは、次の瞬間返ってきた予想外の回答に腰を抜かさんばかりに驚いた。
「……思いたいならそう思え。余はセンテニア家の嫡男、リチャードだ」

 

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 ジウランの航海日誌 (10)

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