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4 クマタカの羽根
杉並区久我山に能太郎の開業する『ピアナ・アニマル・クリニック』があった。夕食を終えた能太郎は書斎のデスクの引き出しからビニール袋を取り出し、中の羽根を灯りに透かすように眺めた。
父、ティオータが亡くなってから半年が経とうとしていた。
日が経つにつれ、あれがただの事故とは思えなくなった能太郎は行動を開始した。自分も獣医だったが、より専門家の意見を聴く事にした。大学時代の友人のつてで鳥類研究所まで出向いて羽根を調べてもらうと、予想通りクマタカのものだった。
都会のど真ん中にクマタカが生息しているはずがないのは鳥については半ば素人の自分にも予想がついていた。
父は何故あの羽根を手に握りしめていたのか?
飼い慣らされたクマタカが足場の上の父を襲った?
ありえない話に思えた。自分は父たちのように修羅場を潜り抜けてきた人間ではなかったから、全く推測がつかなかった。
思考はいつもそこで停止した――
一度だけ雪乃に相談した。
雪乃は真剣な顔つきで「夫婦はいつでも一緒。あなたが行動する時には私もついていく」と言ってくれた。
しかしどう行動すればいい。
デズモンド父さんに相談するべきか。だがあの人の事だから事実を見つけ出そうと大暴れするに違いない。それはできなかった。
激しい雨が窓を叩く音がした。
今夜は大荒れだな――
雨音に混じって医院の電話が鳴っているのが聞こえた。
何だろう、こんな夜中に。動物の病気や怪我も人間のそれと同じく、時間を選ばなかった。往診の準備をしないといけないなと思いながら住居から続く医院のドアを開けた。
電話のディスプレイは『非通知』だった。能太郎はためらいながらも受話器を取った。
「――あ、もしもし。ピアナ先生ですか?」
「はい」
「八王子の郷西(ごうさい)ですが」
「ああ、どうされました?」
郷西というのは八王子の西のはずれに暮らす身体の不自由な老人だった。半年くらい前に飼っているオウムの具合が悪いと言って、往診して以来の付き合いだった。
「ペッコリーナが……」
「オウムがどうされたんです?」
「……怪我をして。いつもの外の散歩中に」
「怪我はひどいのですか?」
「……ワシかタカに襲われるのを見たんです。それはひどい有様です」
「……ワシかタカ……クマタカではありませんでしたか?」
「いやあ、そんなのはわからんよ。でもあんな大きな鳥はこの辺の山でも見た事ないです」
「――わかりました。そちらに伺いますから。一時間くらいで着きますので安心して下さいね」
能太郎は受話器を置いた。ここからだと甲州街道をずっと行って、高尾の先で横道に入れば良かったと記憶している。クマタカの謎の解明が一歩進展するのではないかと深く考えずに受けてしまったが、外は激しい雨だった。
気がつけば雪乃がパジャマにカーディガンを羽織って背後に立っていた。
「あなた、どうしたの?」
「ああ、往診に行ってくるよ」
「この天候の中を?」
「――高尾の郷西さんの所だよ」
「えっ、危ないわ」
「……クマタカの羽根の秘密がわかるかもしれないんだ」
「だったら私も行きます。私もお父様の事故は割り切れないわ」
「しかしジウランは?」
「すやすやお休み中よ。朝までに戻れば大丈夫でしょ」
能太郎はバケツの水をひっくり返したような雨の中、車を走らせた。甲州街道に出て、まっすぐに進み、高尾を過ぎた辺りで横道に入った。
道は狭くなり、勾配がきつくなった。加えて叩きつけるような雨で視界もあまり効かなかった。
「あなた、気をつけてね」
「もうすぐだ。郷西さんのペッコリーナが待っててくれてるからね」
対向車とやっとすれ違えるくらいの山道になった。
能太郎は路肩を踏み外さないように慎重に車を進めた。
大きな右カーブに差しかかった時に、突然、対向車のランプが点灯した。
「えっ?」
能太郎は無意識にハンドルを左に切り、車はバランスを失い、ガードレールを突き破った。
蒲田大吾は自分の机で、コンビニで買ったサンドイッチを片手に、ウェブサイトをチェックしていた。
昨夜、激しく降った雨も朝には上がって、初夏の強い日差しが東京を包んでいた。
「ああ、やっぱりあれだけ降ると場所によっては冠水するんだ。元々東京は水の街だったそうだし、それをどんどん埋め立ててるんだもんな。戦前から生きてるデズモンドさんはどう思うだろう」
最近は何かあるとデズモンドの名前を思い出していた。二十年前はリンの事ばかりだったから、自分は影響を受けやすいのかもしれない、蒲田は苦笑しながら画面をスクロールした
新聞の電子版の社会面に昨夜の大雨の被害が出ていた。その中に『大雨で運転誤る?獣医夫妻死亡、東京高尾』というヘッドラインを発見して一瞬どきりとした。
確か、デズモンドの息子の職業は獣医だったはずだが、場所が高尾となっているから違うはずだ。安心してニュースの詳細をクリックした。
読み進む内に蒲田の血の気がすーっと引いていった。
「……これは」
市邨の屋敷にいたデズモンドに警察から電話がかかった。もえから電話を受けたデズモンドは黙って受話器に耳を押し当てていた。
「ああ、わかった。ありがとよ――大吾にもよろしく言っといてくれ」
デズモンドは受話器を置いてからもえに言った。
「もえ、ちょっと出かけてくる」
「えっ、何の話だったの?」
「……能太郎と雪乃が死んだ」
デズモンドはそれだけ言って外に出ていこうとした。
「久我山?」
「いや、高尾だそうだ――もえ、一つ頼まれちゃくれないか。久我山に行ってジウランを」
「わかった。こっちに連れてきてもいいでしょ」
「ああ、すまねえな」
外に出たデズモンドは人目も気にせず、空に飛び上がった。
空の色が変わるほど高くまで上がったデズモンドは大声で叫んだ。言葉にならない怒りと悲しみ、今のデズモンドであれば地球上の全人類を皆殺しにするのも容易かった。
ひとしきり叫び終わったデズモンドは急降下して、現場に向かった。視界に山道が映った。ガードレールが捻じれてちぎれた箇所があり、その先の谷底にブルーシートがかけられ、捜査員が出入りしていた。
デズモンドが谷底に降りると警官が走ってきた。
「現場検証中につき、立入禁止――」
すぐに蒲田の声がした。
「その人は関係者、いや、肉親だ」
白い手袋をはめた蒲田が現れた。
「早かったですね。まさかずっと空を?」
デズモンドが何も答えず、現場をじっと見ているのに気付いて、蒲田は話すのをあきらめた。
目の前には白いステーションワゴンが無残な姿を晒していた。
「車内の様子は……?」
「雨で柔らかくなった地面がクッションになってくれたせいでしょうか、大破してはいません。お二人は……先ほど、収容しました」
「そうかい。ありがとよ」
デズモンドは山道に待機している救急車を見上げた
「デズモンドさん、お二人の久我山のご実家には、小さなお子さんがいらっしゃるのでしょう?」
「連絡を受けてすぐにもえに行ってもらった。わしも今からそっちに向かうよ――」
「――あの、ぼくは捜査を続けます。又、連絡しますので」
デズモンドは蒲田の顔をじっと見つめ、何かを言いかけたが止め、去っていった。
高尾からJRで吉祥寺に出て、そこから井の頭線で久我山に着いた。何回か来た事のある能太郎の家にも人が出入りしていた。デズモンドが会釈をしながら家の中に入ると、もえがジウランと一緒にいた。
「――じいちゃん」
金髪のジウランがデズモンドに抱きついた。
デズモンドは黙って腰を下ろし、ジウランを抱きしめ、頭を撫でた。
「もえ、ありがとよ。アウラとヒナは大丈夫か?」
「近所の人に頼んだから平気――現場に行ったの?」
「ああ、あいつらは昼頃には帰宅する」
「デズモンド、あなた以外にお身内は?」
「さあ、能太郎の身内はわしとジウランだけだ。雪乃の方はよくわからん」
「それじゃあ、ご近所の方に訊いてみるわ。さっきから色々と世話を焼いてくれて、いい人たちばっかり」
「ああ、もえ。すまねえな。わしはそういうのは全くわからないんだ」
「しょうがないわよ。デズモンドは地球人じゃないんだから」
もえの言葉に反応したのか、デズモンドの胸に顔を埋めていたジウランが顔を上げた。
「えっ、じいちゃん。地球人じゃないの。宇宙人?」
「そうよ、ジウラン。おじいちゃんはすごい人なの」
「えーっ、うそだあ?」
「……しょうがねえな。もえ、台所から生卵持ってきてくれないか」
もえが生卵を持ってくるとデズモンドはジウランに卵を見せた。
「いいか、ジウラン。これは生卵だ。わかるな」
デズモンドは卵を両掌で包んで、十秒ほどそのままの姿勢でいた。
「さあ、ジウラン。卵を割ってみろ」
「無理よ、デズモンド。お椀に開けないと――」
「大丈夫だよ。もえ、割ってみな」
デズモンドから卵を受け取ったもえは、おそるおそる卵を振った。不審そうな顔が驚きの表情に変わった。
「えっ、どうして?」
もえが近くのテーブルに卵をぶつけて殻をむくと、ゆで卵が現れた。
「ほら、ジウラン。ゆで卵だよ」
「えっ、じいちゃん。すっごーい」
「まあな。さて、ジウラン。散歩にでも行くか」
「うん」
「じゃあ、もえ。よろしく頼むよ」
デズモンドはもえに深々と一礼をして、ジウランの手を取った。
デズモンドが散歩から帰ると、もえが出てきた。
「……戻ってこられたわ。居間に」
デズモンドは覚悟を決め、居間に入った。
能太郎と雪乃がまるで眠っているかのように横たわっていた。傍らでは知らせを聞いたご近所さんらしき人が数人、涙に暮れていた。
デズモンドは能太郎の枕元に座った。
「……馬鹿野郎、どうしていっちまった。ジウランはまだ三つだぞ」
呆然と立っていたジウランを枕元に無理矢理座らせ、デズモンドは言った。
「――いいか。ジウラン。父ちゃんと母ちゃんにはもうすぐ会えなくなる。ティオータのじいちゃんもいない。わしと二人で生きていくんだ」
状況が掴めないジウランは黙ったまま両親の顔をまじまじと見つめていた。