目次
3 青いストール
東京の中心、六本木では防衛庁跡地の再開発が進んでいた。
一年後の開業を目指し、商業、住居複合型の高層ビルの建築が急ピッチで行われる現場にティオータがいた。
能太郎からは「引退して孫の顔でも見ながらゆっくりと過ごして欲しい」と言われたが、体が動く限りは働くつもりだった。
ティオータの外見はどう見ても四十代から五十代だったが、関東大震災の前から日本にいるので、実年齢は百歳を優に越えていた。名前と同じく年齢も『パンクス』を通せば、如何様にも改竄できたので問題はなかった。
仕事でも誰にもひけを取らなかった。元《歌の星》親衛隊長にとっては、高層ビルの鉄骨の上も地上と一緒だった。さすがに人目を気にして命綱をつけて登っていたが、ティオータには不要な物だった。
その日、作業を終え、地上に降りたティオータはプレハブの事務所に戻った所で声をかけられた。
最近雇われた事務バイトの女子大生だった。
「お茶、どうぞ」
「おっ、すまねえな。まだ帰らなかったのかい?」
ティオータは熱いお茶を啜りながら言った。
「ええ、まだ仕事が残ってて――でも藤太さんはすごいですよねえ。あたしの父さんと同じくらいの年なのに、真っ先に現場に行くんだもん」
「おれは頭もよくねえし、そのくらいしか取り柄がねえんだよ」
「そんな事ないです。尊敬します――あらっ、藤太さん。朝は首に素敵なストール巻いてませんでしたっけ?」
「いけねえ。忘れてきちまった」
ストールは能太郎が「まだ寒い日もあるから」と言ってプレゼントしてくれたものだった。もう一人の肉親、デズモンドがひがまないようにとお揃いのブルーのストールで、ティオータのものにはTの縫い取りが、デズモンドのものにはDの縫い取りが付いていた。
プレゼントをもらったデズモンドは上機嫌だった。
こちらに戻って以来、家を持たずに門前仲町の市邨の屋敷に居候しながら『クロニクル』を書いているようだった。
第二版は先週、『ORPHAN』上で刊行されたばかりだった。間もなく議長職を辞するという噂のコメッティーノが大々的にヴィジョンでアナウンスをしていた。
本人曰く、初版の改訂とエピソード5、6の新規追加らしかったが、どうしてもエピソード7までを最終的な第二版として刊行したいようだった。
「へっへっへ。エピソード7にはティオータ、お前も出てくんだぜ」
デズモンドが笑いながら言った。
「止せよ。大体、地下の組織が表沙汰になってもいいのか?」
「この星のほとんどの人間はインプリントしてないんだから内容が知れた所で生活には影響ない。平気さ」
「やっぱりまずいぜ。刊行する前に先生にお伺い立てといた方がいいだろうよ」
「そうだな。書き上げたら真っ先にお前に読んでもらうとするか」
「そりゃいいが、いつ頃だ?」
「半年くらいの内にはどうにかしてえんだよなあ。もう手付払っちまってるし」
「手付?」
「ああ、いつまでも居候って訳にはいかねえだろ。湘南の海岸沿いにいい一軒家を見つけたんだよ。そこに引っ越すつもりだ」
「――おめえ、やっぱり能太郎たちとは一緒に暮らさねえつもりか」
「その話はもう済んだだろ。お前もわしも能太郎とは同居しない。能太郎はもう立派な大人だ」
「ならいいけどな。おめえの事だから、市邨のアウラやヒナが可愛くって、ジウランなんかどうでもよくなっちまったんじゃねえかって心配してたんだ」
「ティオータ。言っていい事と悪い事があるぜ。どこの世界に孫が可愛くないジジイがいるってんだ。アウラとヒナを見てるとよ、自分が能太郎にしでかしちまった事を思い出すんだよ。父親のいない子は不憫だ。もえ一人で伝右衛門さんの面倒見て、双子の乳飲み子まで世話すんのは大変だろうから、わしが手伝ってるんだ」
「ああ、わかった、わかった。じゃあ、おめえは湘南に落ち着いたら、もうどっかに出かけるつもりはねえんだな?」
「当たり前だ。『クロニクル』の正式名称は『ナインライブズ・クロニクル』だぞ。ナインライブズが出ちまったら、もう完結だ。最後のひと踏ん張りって奴だ」
デズモンドめ。ジジイのくせに頑張っていやがる――
自分も負けていられない、体が動く内は現場に出て、この刻々と移り変わる東京の姿を見守ってやる。
作業員たちは皆、引き上げたようで、現場には誰もいなかった。
ティオータは暗闇が迫る中、命綱もつけずにするすると鉄骨の足場を登った。空を飛んでもよかったのだが、さすがに気が引けた。
青のストールが鉄骨に巻き付けてあるのが見えた。作業中は暑いから途中ではずしたのだがあんな場所に置いたかは自信がなかった。
ティオータは狭い鉄骨の上を軽やかに渡り始めたが、途中で足を止めた。
一瞬、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
やがて手足が痺れ、身体の自由が利かなくなりつつあるのに気付いた。
さっきのお茶か――だが自分は毒耐性の訓練を受けたソルジャーだ。とするとこれは『老い』か。しばらくじっとしていれば痺れは収まる、そう考えて鉄骨の上で跪いた。
冷や汗をかいてしゃがみ込むティオータの視界の端に黒いものが飛び込んだ。
鳥?
巨大な鳥がティオータの目をめがけて襲いかかった。
ティオータは痺れる体で攻撃を防いでいたが、とうとう耐え切れなくなった。
ティオータの姿は鉄骨の上から消えた。
デズモンドは赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
時刻を確認すると朝六時前だった。
デズモンドは大きく伸びを一つし、部屋を出て、もえ親子の部屋に向かった。この時間、もえはもう台所に立っている、デズモンドは「入るぜ」と声をかけて部屋の襖を開けた。
部屋の中央に置かれた子供用ベッドの上ではアウラとヒナが火のついたように泣き続けていた。
「おら、どうした、どうした。アウラ、お前は男の子だろ。泣いたらおかしいぞ。ヒナ、朝飯はもうすぐだから、それまで我慢するんだよ」
デズモンドは慣れた手つきで二人の赤ん坊をあやした。赤ん坊たちはすぐに笑顔に変わって、デズモンドは満足そうに微笑んだ。
もえが部屋に入ってきた。
「デズモンド、ごめんなさいね。すぐに朝食の支度するから、ちょっとこの子たちと遊んでて」
「気にすんなよ。お前だって大変だ。わしはただ飯食らってるんだからこのくらいはやるさ」
「でも『クロニクル』の編集、忙しいんでしょ」
「まあな。誰かがセキたちの事を記録に残してやらにゃならんだろう」
「そうだね。ありがとう」
「そんな顔するな。あいつらはわしと一緒で、ある日、ひょっこりと帰ってくるって」
「うん。順天もそう言ってた」
「あっちも男と女の双子だよな。ミチとムータンか」
「偶然かしらね。ロクの所のオデッタにもセカイが生まれたし、茶々の所のワイオリカにもヴィゴーが生まれた。皆、同い年よ」
「そりゃ偶然じゃねえな。やっぱこいつらも何かを運命づけられてんだろ」
「平凡でも元気に育ってくれるのが一番よ――あ、味噌汁が吹いちゃう」
もえが出ていくと、すぐにデズモンドにヴィジョンが入った。
「こんな朝っぱらから何だよ。『クロニクル』の感想は受付けちゃあいないし――ん、サンタ。ああ、渋谷のサンタか」
目の前にサンタが映った。
「デズモンド、六本木まですぐ来てほしい」
「何だよ、唐突に」
「詳しい事はこっちで話すから。早く」
「――ああ、わかったよ」
早朝の六本木交差点にサンタがいた。もうすぐ取り壊される予定の喫茶店の前に立っていたサンタは異彩を放った。外国人にしなだれかかってはしゃぐ若い女や終電を逃して飲み続けた賑やかな大学生たちもサンタの姿を認めると、姿勢を正して避けていった。
サンタはいつもの『Santa X』の革ジャンにごついライダーブーツの格好だったが、その顔はまるで鬼だった。
「よぉ。朝っぱらから何だよ。こんな所に呼び出して」
初めて乗った大江戸線で地下から現れたデズモンドが言った。いつもの赤いチェックのシャツだったが、首にはブルーのストールを巻いていた。
「……デズモンドの旦那。一緒に来て下さいな」
デズモンドは黙ってサンタの後をついて歩いた。二人が歩く様は阿形、吽形一対の仁王像が命を吹き込まれたようだった。
サンタの足は工事現場の前で止まった。
「この中っす」
「――こりゃあ、どういうこった」
ビニールシートで覆われた工事現場の一角でデズモンドは問いかけた。
「昨夜、現場の作業員が帰った後だったみたいです。おそらく死因は高所からの転落による――」
「そんな事を聞いてんじゃねえ。こいつが、こいつがそんなヘタ踏む訳ねえだろうが!」
「そうは言いますけど」
シートの中にいる警官の目を気遣って、サンタはデズモンドを離れた場所に引っ張った。
「パンクスやアンビスの人間の場合、大変なんですよ。検死は状況を理解してる医者って事で、間もなく釉斎先生が来てくれます。警察関係の方は西浦さんが裏で色々と手を回してくれてるんです」
「バカ野郎。てめえはこれが事故だと思ってんのか。事件に決まってるだろうが――蒲田、蒲田大吾を呼べ」
「まあ、まあ。もうすぐ釉斎先生が来ますから」
「能太郎も来るのか?」
「当たり前でしょう。身内なんですから」
「おお、そうだな」
しばらくすると天野釉斎が到着した。釉斎は目をしょぼつかせながらブルーシートの中で立っていたデズモンドとサンタに会釈した。
「先生、どうなんだい?」
一通りの検死を終えた釉斎にデズモンドが尋ねた。
「――うーん。死因は足場から転落しての強度の打撲。頭を強く打ってる――でもティオータだからここまで綺麗なご遺体なんだね。普通の人間があの高さから落ちたら……」
「先生、何か薬物は?」
「毒でも盛られたと思ってるのかい。薬物の痕跡は認められなかった。彼の身体は常日頃診てきたから、常用薬とかに親しんでる事もない」
「って事は?」
「足場の上で意識を失ったんだろうな」
能太郎がブルーシートをくぐって現れた。
「……デズモンド父さん、これは?」
「顔を見てやれよ――おまわりさん、こいつが身内だ。顔を見せてやっちゃくれねえか」
能太郎は横たわるティオータの前にしゃがみ込み、顔をまじまじと見ていた。
「父さん……眠っているみたいな顔じゃないですか……きっとデズモンド父さんが戻って、張り詰めていたものがなくなったんですね」
ブルーシートの外に出ると、出勤してきた作業員たちがそそくさと持ち場に戻っていった。
プレハブの事務所に入り、能太郎に遺品が手渡された。着替えの入ったかばんの上には青いストールが置かれていた。
「どうやらそのストールを現場に忘れて取りに戻っての事故だったようです」
警官が気の毒そうに言うと、能太郎は辛そうに眼を伏せた。
「さあ、後は西浦さんに任せましょうや」
サンタが言い、釉斎とデズモンドは事務所の外に出た。六本木、赤坂、乃木坂にまたがる広大な工事現場のあちらこちらからラジオ体操の音楽が聞こえていた。
葬儀はティオータの自宅で近親者だけで執り行われた。
能太郎は雪乃とジウランを伴っていた。
サンタが諸事を取り仕切り、デズモンドと釉斎はティオータの遺影の前に座っていた。
もえがベビーカーにアウラとヒナを乗せて現れた。
美木村も美夜の手を引いてやってきた。
遅れてきた西浦が能太郎を呼び出した。
「能太郎君、遺品は貰い受けた?」
「ええ、六本木で」
「ああ、そう。一応警察が保管してたものもあるんだけど、事件性はないからって返却されたのを預かってるんだ。これ」
西浦はそう言って、ビニール袋に入った鳥の羽根を能太郎に見せた。
「これは鳥の羽根ですね?」
「うん。ティオータの手の中にあったらしいんだ。遺品かもって事で渡しとくよ」
能太郎はビニール袋の中の鳥の羽根をまじまじと見つめた。
これは猛禽類、しかも大型、イヌワシ……いや、この美しさはクマタカ?
「どうしたの?」
「いえ、何でも。どうもありがとうございます」
西浦は能太郎から離れ、座っているデズモンドを手招きで呼んだ。
「デズモンドさん」
「よぉ、西浦さんじゃねえか」
「『蒲田を呼べ』って騒いだんだって。面識あるんだっけ?」
「何言ってんだよ。『クロニクル』書いてりゃ、あんたや蒲田大吾の名前は出てくるんだ。こっちはよく知ってるよ」
「あ、そうか――事故じゃなくて事件だと思ってるの?」
「いや、断定はできねえ。あん時は興奮してた」
「パンクス内での事だから、蒲田君に連絡だけはしておいたんだ。そうしたら『明日、会いませんか』って。会って話をしたいようだったよ」
「わかったよ。そんな気分じゃねえけどな」
翌日、デズモンドは待ち合わせ場所に指定された東京タワーのそばの喫茶店に向かった。
先に来ていた蒲田はデズモンドの巨体を見つけて立ち上がった。
「どうもお呼び立てしてしまって。警視庁の蒲田です」
「デズモンド・ピアナだ」
「この度はお悔み申し上げます」
「ああ――あんたと会うのは初めてなのにどうも初対面って気がしないな」
「『クロニクル』であれだけ取り上げて頂いてますから」
「あんた、バインド持ちだったな?」
「ええ、文月君やリチャードさんと連絡を取る必要がありましたんで、西浦さんとぼくは真っ先にインプリントしてもらったんです」
「で、エピソード6はどうだったい?」
「……あの通りでした。ぼくは何もできなかった、いや、今もそうなんでしょう」
「いや、あんたは立派だよ。この星のぼんくらどもに比べりゃな」
「手厳しいですね。実はそのぼんくらの一人の件でご相談なんですが」
「何だい、そりゃ」
「ぼくは今、警視庁に戻っていますが、一時期、中央に出向していたんです。その時の上司が――」
「わかった。葉沢何とかだな」
「そうなんです。インプリントしてないはずなのにどこで情報を仕入れたのか、『けしからん。名誉棄損だ』と憤ってるんですよ」
「放っとけばいい」
「そう思うんですけど、葉沢は毎日のように電話をかけてきて文句を言うんです。たまったもんじゃない」
「困った奴だ。直接わしに言えばいいのにな」
「調査機関にいるので当然、デズモンドさんの動向は把握しています。ですが――」
「ですが、何だよ」
「『デズモンドさんに触れてはいけない』というのが機関内部での戦前から続く暗黙の了解事項なんですよ」
「かーっ、バカじゃねえのか。化け物扱いしやがって。わしが他所の星の人間だってのは明白だし、今更接し方がわからん訳でもないだろう」
「そうですよね。二十年前、いや、もっと前から進歩がないんです。デズモンドさんはこれだけ表に出てるんだから、特別扱いはおかしいんだ」
「その通りだ。表に出てこない藪小路みたいのを怪物っていうんだぞ」
「……その名までご存じなんですね。最大のタブーと言われるその名を」
「当たり前だ――なあ、待てよ。葉沢はわしが会って話しても満足せんよな?」
「えっ、いきなり何ですか。そうですね。『クロニクル』を訂正しないとだめでしょうね」
「そんな真似できるか。だが葉沢が喜ぶような情報を与えてやればどうなる?」
「それは大喜びですよ……えっ、まさかデズモンドさん、藪小路の?」
「まあ、今すぐという訳にはいかないが、その内な」
「大丈夫ですか。デズモンドさんなら問題ないか」
「おお、わしはリチャードと同じくらい強いから心配するな。まあ、今日の所は葉沢には『わしはいたく反省している』とでも言っといてくれ。そのうち、びっくりするような情報をやるからよ」
「無理しないで下さいね」
「ところでティオータの件、ありゃ本当に事故か?」
「警察はその方向で特に捜査しないようですね」
「ふーん」
「デズモンドさん、ご家族、お身内も含めて気を付けて下さいよ。何かあったらぼくは動かせてもらいますから」
「そうならないよう祈るよ」
デズモンドは席を立って、二人分の会計を済ませ、恐縮する蒲田に手を振って店を出た。
藪小路か。大空襲の夜に会ったきりだが、あの男を過小評価していたかもしれん。どうせ、どこかに行く予定もないし、いっちょ調べてみるか。事によっては次の改訂版であの男を前面に出しても面白いかもしれないな――
(注)最初に出した第二版では藪小路についてはほとんど触れられていない。
「なかなかの出来ではないか。ティオータほどの実力者を倒すとは」
藪小路は死王に言った。
「ありがたいお言葉です」
「こういう回りくどいやり方は私の性に合っている。だが詰めを誤ったな」
「と申しますと?」
「警察が鷹の羽根を押収し、それを息子の能太郎に渡した。能太郎は獣医だ。あの羽根が都心では見かけない鳥のものだとわかり、怪しむ」
「むむむ、それは――すぐに対応致しましょう」
「慌てる必要はない。言ったではないか。回りくどいやり方が好きなのだ。デズモンドに怪しまれないようにじっくりと時間をかければいい」
「承知。ご希望通りの絵を描いてご覧にいれましょう」
「こちらもその出来栄えに敬意を表して協力してやろう」
「協力とは?」
「警察を抱き込んである」
「そんなのは昔からやられているのではありませんか。一声かければ白を黒だったと言う事になるでしょう」
「そういうのとはレベルが違う。完全な子飼いなので捜査しないどころか、そもそもの犯罪の実行の手助けもしてくれる」
「ははは、それは最早警察ではありませんね」
「ただ条件があって、私の屋敷のあるこの付近でしかそれができない」
「十分です。喜んで使わせてもらいます」
「そうか――遠刈、警察署長、専内に連絡をしろ」