7.8. Story 4 帰郷

3 果たされる約束

 翌日、昼前にティオータが能太郎とその妻、雪乃、息子のジウランを連れて市邨の屋敷を訪れた。
 お腹の膨らみが目立つようになったもえが笑いながら出迎えた。
「わざわざすみませんね。ご足労願っちゃって」
 ティオータは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。能太郎が西荻窪で買ったという手土産のケーキを差し出した。
「お口に合うかどうかわかりませんが」
「まあ、素敵。でも西荻窪なんてなかなか行く機会ないわ」
「そうですよね。東京の西と東、今日も久我山から出てくるのはちょっとした旅行でした」
「本当にすみません。うちのおじいちゃん、わがままで」
「――ああ、そうなんですか。父さんは何も言ってくれなかったんで」
「とにかくお入り下さい。仔細はまた後で」

 
 もえに案内されたティオータ一行は客間に通された。主の席には車椅子に乗った伝右衛門、その傍らには美木村が立っていた。もえもその傍らに置いてあった椅子に腰かけた。
「すまねえな。年寄と妊婦なもんで無作法を許してくんな」
 ティオータ一行は促されて大きな長方形の座卓の廊下側に座った。反対側にはセキが一人でちょこんと座っていた。

 
 近くの料亭から取り寄せたのだろう、豪華な塗の器に入った弁当が卓に並べられると伝右衛門が口を開いた。
「じゃあ始めるかな。あっしの名は市邨伝右衛門、人様にゃあ言えねえ稼業に就いて、かれこれ六十年。隣にいるのが若頭の美木村義彦、その隣の腹のでっけえのが孫のもえ、皆さんの反対側に座ってんのがもえの婿のセキになりやす」
 ティオータ一行、特に事情を知らない能太郎と雪乃は訳もわからず会釈をした。
「実はよ、ティオータさんとの付き合いも六十年近くになるんでさあ。そんな訳で今日は旧交を温めるって事で皆さんにお集まり願った次第です」

「――こっちも紹介するよ」
 ティオータが口を開いた。
「おれの隣が能太郎、久我山で獣医、動物病院ってのを開業してます。隣はその妻、雪乃、同じく病院を手伝ってます。ちっこいのがジウラン、まだ一歳になるかならないか――もえちゃんの生まれてくる子のいい遊び相手になってくれるんじゃねえかな」
「ティオータさん、美木村さんの所の美夜ちゃんも忘れないでね」ともえが付け加えた。
「ああ、そうだった。ジウランと美夜は同い年だな」

 
「もえさん」
 食事の最中、能太郎が尋ねた。
「どうでもいい事ですけど、お子さんは市邨の名字を継がれるんですか、それとも――」
「あら、考えた事なかったわ。そりゃあおじいちゃんは市邨を継いでほしいでしょうけど、セキの家も――」
「僕は構わないよ」
 黙っていたセキが声を上げた。
「だって文月の兄妹は九人もいるんだ。誰かが文月を名乗るよ」

「えっ、文月ですって」
 能太郎が素っ頓狂な声を出した。
「もしかするとセキ君は文月リンの?」
「そうです。五番目の子です」
「わあ、感激だなあ。ぼくはリンより四つ上のほぼ同世代なんだ。思春期真っ只中のぼくは彼の活躍に胸を躍らせたものさ」
「おい、おい、能太郎さん」
 すっかり相好を崩した伝右衛門が言った。
「あんただって銀河の英雄が父親だろ?」

 
 その場に一瞬重苦しい空気が流れたが、その空気を振り払うように能太郎が答えた。
「ええ、そうです。普段暮らしていると何とも思わないんですけど、たまに『ネオ』の方が病院を訪れると、『すごい人のご子息だ』とか言われて――あらためて父は偉大だなと実感します」
「ふーん、そうだよな」
「ぼくの中の父の記憶は一緒に美しい野山を駆け巡った事、美しい母とたくましい父。ある日突然に父の背中にしがみついたまま空を飛び、そして着いたのが東京だった事、それくらいです」
「へえ、そうだったのかい」
「そしてその後、ここにいる父さんに会った。父さん、寒い日でしたね?」
 能太郎がティオータに問いかけるとティオータは頷いた。
「ああ、オリンピックの前だったな。デズモンドとお前が軒先に立ってた。あの野郎は『半年で戻る』って言い残して五歳になる能太郎をおれに預けてったんだ」
「父さんは『手違いがあっただけで必ず戻ってくる』と言って、色々と話をしてくれますけど、ぼくはジウランに同じ熱量をもって話す事ができるだろうか、それだけが心配です」

「能太郎さんよ、もしもだ」
 伝右衛門の顔は少し紅潮していた。
「もしもデズモンド・ピアナが戻ってきたらどうなさる?」
「デズモンド・ピアナはぼくの父、父さんはぼくの父さんです。どちらがどうとか比較できるものではないでしょう――とは言うもののぼくの意見は正しいんでしょうか?」
「ん、どうしてだい?」
「もえさんにあんな質問をしたのも皆さんのお考えを知りたかったんです。ぼく自身は名字なんて大した問題じゃないと思っています。でも世間はそうは取らないかもしれない」
「あんたも能太郎・ピアナって名で苦労してんだな」
「ジウランにはそんな思いをさせたくないですからね――もっとも父さんにしたって、まともな名字を名乗ったのを見た事がないですけど」
 能太郎がティオータを見て笑うと、ティオータは困ったような顔をした。

 
「能太郎さん、あんたのお考えはよおくわかった――そろそろ出てきな」
 伝右衛門の言葉を合図にセキが背後の襖を開けるとそこには赤いシャツを着た大男が立っていた。
 赤いシャツの大男は無言で下座を回り、能太郎の前で正座した。男は畳に頭をこすりつけながら言った。
「能太郎、ティオータ、すまねえ。半年のつもりが三十年もかかっちまった」
「……えっ、もしかするとあなたは?」
「ああ、そうだ」
 ティオータが答えた。
「デズモンド・ピアナ、お前の本当の父親だ」
 能太郎は土下座するデズモンドの両手を取って言った。
「父さん、何を謝っているんですか――お帰りなさい」

 
 デズモンドはゆっくりと頭を上げた。
「お前、わしを恨んでないのか」
「何を言うんですか。ぼくは父さんの……これだとどっちの父さんかわからないな。ねえ、セキ君。君には母親がたくさんいるだろう。どうやって呼び分けているんだい?」
 突然に話を振られたセキは驚いた表情を見せた。
「えーと、沙耶香母さん、ジュネ母さん、アダン母さん……そんな感じです」
「ああ、それがいい。ぼくはデズモンド父さんの息子だし、ティオータ父さんの息子ですよ」
「能太郎」
「子供の頃からティオータ父さんに聞かされました。デズモンド父さんは誰も成し遂げた事のない偉業を実現するために旅に出たのだと。三十年もかかったのはさぞ辛い旅だったからでしょう。でもこうして無事に戻った。きっとまた素晴らしい記録を書かれるんですよね」
「能太郎……」
「さあ、妻の雪乃に会うのはもちろん初めてでしょう。そして孫のジウランの顔も見てやって下さい」

 
「能太郎さん。回りくどい真似しちまって堪忍してくれよ」
 伝右衛門が上機嫌な表情で言った。
「だがよ、この馬鹿二人じゃあ、互いに遠慮し合って埒が明かねえんだ。だから当事者のあんたの正直な意見が聞きたかった」
「伝右衛門さん、ありがとうございました。ぼくも父二人に対する気持ちを再確認できました」
「ならいいや。しゃしゃり出た甲斐があったってもんだ――さて、あらためてデズモンドさんの帰還と新しい家族の誕生の祝いといこうじゃねえか」

 

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 Chapter 9 ナインライブズ

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