目次
3 ヘッティンゲン
無限のファランクス
王宮は古かったが、美しく磨かれた石でできていた。まっすぐに続く廊下には真紅の絨毯が敷かれ、両脇に部屋が配置されていた。
「この王宮のどこかにドノスがいるんだね」とセキが尋ねた。
「おそらくな。笛の力で異次元にいたのをこちらに呼び戻された。今更、どこにも行けない」とケイジが答えた。
「えっ、どうして。また異次元の扉を開けて逃げ込むかもしれないじゃない?」
「いや、あの笛には王宮をこちらに持ってくると同時に異次元への扉を塞ぐ力もあると思う。奴は袋のネズミだ」
「セキ」とリチャードが言った。「命運が尽きるとはこの事だ。シロンの力を借りたくれない、スフィアンはヘキ、お前はドロテミスの剣を持ち、ケイジはツクエの刀。茶々は起源武王の力で王宮を出現させた。登場人物は揃ったんだ」
「だが同時に相手も準備万端な可能性は否定できない」とケイジが続けた。
「そう、そして全てを打ち破れるのはただ一つ――」
「誰?」
「夜叉王だけだ」
廊下の角を曲がった所で向こうから何かがやってきた。廊下を塞ぐように横およそ六列に広がったまま、近付いてきた。
「何だありゃ?」と茶々が言った。
「気をつけろ」とリチャードが言った。「隙間なく突進して槍で戦う接近戦の戦法、ファランクスだ」
「でもあんなの、一回、崩しちゃえば終わりでしょ?」とセキが言った。
「あの戦い方の特徴は深さだ。前列が倒れてもすぐに後方の戦士がせり出してくる。何列いるかわかるまでは回避した方が賢明だ」
「上しか逃げ場はないけどあの槍のリーチだと天井まで届くんじゃないの?」とヘキが言った。
「仕方ないな。こちらも隊列を組んでぶつかるしかないか。私、ケイジ、セキで受け止める。ロク、ハク、むらさきは後方でいつでも飛び上がれるように準備しておいてくれ。ヘキ、茶々、くれないはリーチが短いから乱戦になったら出番だ」
槍兵たちは脇目も振らずに突進してきた。リチャード、ケイジ、『焔の剣』を手にしたセキと激突し、槍と剣が交わった。
すぐに数名の槍兵が倒れ、その姿が消え、リチャードたちが僅かに押し返したが、すぐに後列の槍兵がせり出して再び交戦状態になった。
槍兵たちはケイジたちの剣技に為す術なく倒れても、すぐに後列の兵士たちが補充され、圧力が弱まる事はなかった。
リチャードは後方を見て言った。
「ロク、ポッドで飛び上がってどのくらい隊列があるのか確かめてくれ」
ロクのポッドは空中に浮かび、槍兵たちの頭上を越えて廊下の先に向かって飛んでいった。すぐにポッドが戻ってロクが言った。
「何て言えばいいんだろ。どんどん湧き出していて際限がないよ」
「くそっ、妖かしか。黒幕を倒さない限りはこの状況は変わらんな」
「セキ」とケイジが声をかけた。「無謀だが一度だけ大剣を振るえ。そこにできる隙間を狙って皆で飛び込み、隊列を崩す。皆、セキの大剣に巻きこまれるなよ」
前列のセキと中列のくれないが入れ代わり、セキは背中の大剣を抜いた。
「皆、危ないから伏せて。いくよ!」
前線のリチャード、くれない、ケイジが伏せ、そこをセキの大剣が払った。三列ほどの槍兵が一度に倒れたが、セキの大剣も左の壁に刺さった。
「よし、距離が空いた。飛び込め」
後方にいたハクが雷獣にまたがり、槍兵に飛びかかった。むらさきも蛟にまたがって空に上がり、さらに後方の槍兵たちに襲いかかった。ヘキと茶々とくれないは空いている隙間に突っ込んだ。ロクもポッドに乗ったまま廊下の最後方まで飛んでいった。
「よし、ようやく切り開けそうだ。リチャード、後は頼む」
ケイジは気配を消し、その通り道には槍兵たちがばたばたと倒れていった。
リチャードは壁に刺さった大剣を抜こうと難儀するセキのために拳で壁を破壊しながら言った。
「セキ、遅れを取るなよ」
千年越しの再会
気配を消したケイジは踊るように槍兵たちを倒しながら、真っ先に最後方までたどり着いた。
ロクの言った通り、新たな槍兵がそこから湧いていた。ケイジはそれを無視して廊下の角を曲がり、先に進んだ。
廊下を塞ぐように一台の馬車が横向きに停まっていた。骨でできた六頭立ての馬車上に馭者がいた。頭が二つある異形の者だった。
「お前が『不死』だな?」
ケイジが気配を戻して言うと馬車の馭者が立ち上がった。
「イモータル・チャリオット、貴様らを地獄へ運ぶ馬車だ。むっ――」
「何だ?」
「おれたちの顔を見て何も思い出さないか。このトカゲ野郎」
二つの頭についている顔の一つは髭もじゃの野蛮人、もう一つは少しいかれた眼つきの男だった。
「知らんな」
「おれの得物、『山壊斧』とこいつの技、『毒爪拳』。剣士ならこれで思い出すだろう」
「――ヌガロゴブとレグリ、ドノスの将軍だった者だな」
「また会えて嬉しいぜ」
「浅ましいな。マンスールの『死人返し』で蘇るとは」
「うるせえ。そういうてめえはどうなんだよ」
「私か。私は生きている。あの戦いの後、千年の眠りについていた」
「じゃあおれたちの仲間入りさせてやるよ」
「やるか――だがもう一人、将軍がいなかったか?」
「もう一人?ああ、いるぜ。そのうち出てくんだろう」
ケイジは巨大な六頭立ての馬車と対峙した。
馭者の掛け声に従い、六頭が突進を開始した。ユニコーンのような鋭い角を頭に携えた先頭の二頭は頭を下げ、角をケイジに向けながら突進した。
ケイジは派手に飛び退かず、体を右にすっとずらし、すれ違いざまに一番近い馬の首を落とした。
馬車はしばらく進んで壁の手前で器用に反転した。ケイジが首を落とした馬の骸骨も何もなかったように存在しない頭を振って突撃に備えていた。
「元々ゾンビだから首が落ちたくらいでは影響ないか」
ケイジは鬼哭を抜いて声をかけた。
「おい、いつまで寝ている?私の目はごまかされんぞ」
(ちっ……気付いていたか。まだ終わっていないのか)
「それどころか、千年前の亡霊がお迎えに来た」
(……あれは『山壊斧』のヌガロゴブたちだな)
「お前の好物だろう。成仏させてやれ」
(人使いが荒いな)
「人ではないだろう」
(まあ、いい。まずはあの馬からだ)
再び突進した馬車をケイジは避ける事なく正面から受け止めた。体勢を低くし、そのまま馬車にひき潰されると思われたが、何事もなくすれ違い、馬車に背中を向けたまま膝を着いた。
反転しようとした馬車の様子が変わった。動きがおかしくなり、六頭の馬の全ての肢が膝の下で真っ二つに斬れ、馬車は前のめりになって止まった。
動かなくなった馬車を見て、ヌガロゴブとレグリの怪物、イモータル・チャリオットが馬車を降りた。
「さすがケイジだ。だがおれたち二人を相手にして果たして無事でいられるかな」
「体は一つしかない。注意力が散漫になるだけだ。何ならもう一人とやらも呼んだ方がいいのではないか」
「抜かせ。二倍の力、見せてやる」
チャリオットは左手一本で巨大な斧を振り回しながら襲いかかった。重そうな斧が連続して振り下ろされ、ケイジは下がりながら避けた。
ケイジが壁を背にするとチャリオットが言った。
「後がないぜ」
チャリオットは力任せに突進し、斧を持ったままケイジを壁際に追い立てて、首筋に斧の柄を押し当てた。斧の柄で体を押さえつけたまま、もう一方の手をケイジに見せつけた。そこには研ぎ澄まされた金属製の爪が装着してあった。
爪が襲ってくるのをケイジは首を動かして避けた。爪は壁に刺さり、硬い石の壁面が豆腐のように崩れ落ちた。
チャリオットはケイジが動けないように尚も斧の柄をぐいぐいと首筋に押し付け、とうとうケイジの手から刀が力なく床に落ちた。
これを見たチャリオットは勝ち誇った獣の雄叫びを上げ、勢いよく爪を振り上げたが、そのままの姿勢で止まった。ケイジを押し付けていた圧力が弱まり、チャリオットは二、三歩後ろによろけた。
床に落ちた『鬼哭刀』が自らの意志でチャリオットの首を刎ねていた。ヌガロゴブとレグリの苦悶に満ちた首がころころと転がり、首を失った胴体もうつ伏せに倒れた。
ケイジは空中に浮かんだ鬼哭刀を手にして言った。
「まだ終わりではないぞ。もう一人いると言っていたからな」
倒れたチャリオットがぴくりと動いた。
ヌガロゴブとレグリの頭のあった場所から新しい頭が生まれようとしていた。
もう一人の将軍か――
ケイジの脳裏の片隅にぼんやりとした疑問が湧いた。
ドノスのもう一人の将軍、名は何と言ったか、どのような技を使ったか――
何も思い出せなかった。だがそれを思い出すのはとても大事な事のような気がする。
まあ、いい。もうすぐあの体から生えてくる男の顔を見れば思い出す。
チャリオットが再び立ち上がったが、そこにある顔は予想したものではなかった。坊主頭に鋭い眼光、その表情は苦悩に満ちていた。
「――お主、ツォラではないか?」
「ケイジだな」
「何故、お主がここに?」
「お前は私の最期を知るまい。《霧の星》で奸計に落ち、チオニに連れてこられ、人体改造を受けた。武人として到底許容できぬ最期だった。だからこの忌まわしい姿になり果てても、武人として生を全うしようと思った」
「なるほど。ヌガロゴブやレグリと同じ体にあっても、あのような外道たちとは一緒に行動したくなかったという訳か」
「その通りだ。だがケイジ――」
「何だ?」
「お前のその姿は何だ?」
「何故、まだ生きているという意味か。私はチオニの戦いの後、千年の眠りについた。だからまだ現役だ」
「そんな事を言っているのではない。何故、お前はそのように生き生きとした目をしている?同じ千年生き抜いたドノスとは大違いだ」
「ツォラ、先に進みたい。道を開けてはくれないか」
「断る」
「何故だ。私とお前が戦う必要はない。シロンもスフィアンもドロテミスもツクエも起源武王までもが我らのドノス打倒に力を貸してくれているのだぞ」
「言ったろう。武人として死にたいと。お前と戦って死ねるのであればまさしく本懐を遂げた事になる」
「――決意は固いようだな」
「いざ」
ツォラは曲刀『クライリバー』を右手に持ち、ケイジは『鬼哭刀』を構えた。
倒しても倒しても無尽蔵に湧いてくる槍兵たちを前にしてセキたちは半ばうんざりしていたが、それが突然、ぴたりと止み、槍兵たちは煙のように消え失せた。
「ケイジが元を絶ったようだな」とリチャードが言った。「よし、先に進むぞ」
リチャードたちが進むとケイジが壁に背をつけたまま上を向いて立っていた。ケイジの傍らには膝から下のない骸骨の馬が曳く巨大な馬車、二つの顔のある生首、曲刀を手にうつ伏せに倒れた騎士、世にも奇妙な残骸が散乱していた。
「ケイジ、これは?」とリチャードが尋ねた。
「ドノスの三大傑作の一つ、『不死』――実際は死人返しにより蘇った亡霊の集まりだ」
「……今は亡きマンスールあたりとの共同制作だな」
「で、ケイジはそこで何してるんだい?」とロクが言った。
「待っている」
「何を?」
「相手は『不死』だ。どうせまた――」
「はーはっは、その通りだ」
笑い声にリチャードたちが振り返った。じりじりと馬車ににじり寄ったヌガロゴブとレグリの生首が馬車と一体化するのが見えた。走れなくなった馬車は宙に浮き、首を落とされた先頭の二頭の骸骨の馬にヌガロゴブたちの首がくっついた。
「どこまでも浅ましいな――むらさき、頼む。だがこの倒れている男だけはそのままにしておいてくれ」
「わかりました」
むらさきは言ってから蛟にまたがって馬車に近付き、槍を振り下ろした。
「ぬぉおー」
光とともに馬車が消えた。
ケイジは倒れているツォラに声をかけた。
「ツォラ、安心しろ。ドノスは倒す」
ケイジが無言で合図をし、むらさきはツォラに近寄った。
よく似た男
チャリオットが塞いでいた廊下の突き当たりのドアを開けると広間のような場所に出た。
(ケイジ)
鬼哭が自ら口を開いた。
「何だ」
(何を考えている?)
「とても大事な事だ。だがそれが何であるか思い出せない。先ほど一瞬だけ頭の中にそれが顔を出したが、今は消えた」
(集中しろ。次の相手もお前でないと倒せんぞ)
「……鬼哭。やはり人間よりも気配を感じ取るのが早いな」
(褒められて悪い気はしないが、本気を出さないとお前であっても死ぬ。それほどに強い)
「そのためにお前がいるのではないのか」
(――まあ、そう言えばそうだ)
「皆、今の会話を聞いたな。ここにいる相手は私が倒す。皆は下がっていてくれ」
「えっ、ここに敵が。誰もいないじゃない」とヘキが言った。
ケイジはヘキの言葉を無視して広間の中央に歩を進めた。腰をぐっと落とし、刀の柄に手をかけた。
「出てくるがいい。気配を消す者同士の戦いで気配を消していても意味がなかろう」
ケイジの言葉に応えるかのようにケイジから二メートルほど離れた場所に一人の男の姿が浮かび上がった。
「我が名は『永遠』」
その場にいた全員が息を呑んだ。現れた『永遠』はケイジそっくりの姿をしていた。
ケイジが白の袷に黒の袴、黒い足袋に草履姿だったのに対し、『永遠』は上から下まで黒づくめだった。
『永遠』の頭部には二本の角のような突起がある以外はケイジによく似ていて、片刃の刀を腰に差している所もケイジと同じだった。
「『永遠』とやら。本当の名はヘッティンゲンか」
「いかにも。私はドノス王の三大傑作の一人、『永遠』のヘッティンゲンだ」
「という事はお前のその姿は人体改造の結果か?」
「聞いて驚くな。千年前にお前の剣技に惚れ込んだドノス王がこの私を造り上げたのだ」
「それは光栄だ。だが気配まで消せるとは驚きだ」
「ム・バレロ様の持つ錬金の力だ。お二人の力により私はお前を越えた」
「立ち合ってもいないのに大した自信だな――もう一つ、フラナガンもお前の仲間か?」
「それについてはわしが答えよう」
ヘッティンゲンの足元の床から首だけがにょきっと出て、やがて全身が姿を現した。上半身が裸で派手な首飾りや髪飾りをつけた男だった。
「わしはム・バレロ。チオニの錬金学士の長をしている」
「《青の星》にも来た事があったな」
「うむ。二十年ほど前に。その時は貴殿に会う機会はなかったな」
「さきほどの質問だ。フラナガンとは?」
「あれは失敗作だ。チオニから放逐したが会ったか?」
「私の弟子が。その時に『ケイジを知っている。ヘッティンゲンに会え』と言っていたそうだ」
「偽りの記憶だ。貴殿を呼び寄せるためのな」
「そうまでして私に会いたかったか」
「ドノス王の力とわしの力の結晶、ヘッティンゲンと貴殿のどちらが優秀か、見てみたいと思うのは当然だ」
「いい迷惑だな。で、私はヘッティンゲンと対するが、お前はまさか見物だけか?」
「わしはドノス王に忠誠を誓った身。この先のドノス王の下に行かせはせん」
「つまりはお前を倒せばドノスの下に行ける訳だな?」
ケイジの問いかけに対してム・バレロは意味ありげに笑った。
「わしと対峙するのは誰でも構わんが……そうだな、どうせなら七武神の一人、リチャード・センテニアと手合せをしたい」
「私は構わないぞ」
「ではケイジ殿の後で」
「ふん、何事か企んでいるな。食えない男だ」
全員が見守る中、ケイジとヘッティンゲンの立合いが始まった。ケイジが摺り足で円を描くように動くと、ヘッティンゲンも同じように動いた。互いに刀を抜かないまま、まるで氷の上を滑るように動き回った。
先に仕掛けたのはヘッティンゲンだった。意図的にケイジに背後に回らせて、振り返りざまに刀を振り下ろした。ケイジは攻撃を予期して半歩下がり、そこから踏み込んで刀を斬り上げた。ヘッティンゲンも予想していたのか、体を弓のようにそらせて切っ先を避け、そのまま後方にトンボをきった。
剣技の腕はほぼ互角だった。互いの攻撃がまったく当たらずにまるで剣舞を舞っているような状態だった。
ケイジは膠着した立合いの中で意味ありげに小さく笑った。
ヘッティンゲンが踏み込んで刀を突き出した。初めてケイジが避けるのではなくその切っ先を刃で払いのけ、自らも踏み込んで相手の胴の付近を横に払った。
やや面食らったヘッティンゲンは必死で腹をへこませてこれを避け、半ば闇雲に刀を振り下ろした。ケイジは難なくこの攻撃をかわし、素早く刀を突き出した。切っ先がヘッティンゲンの右の腿をかすめ、袴が破れ、そこから鮮血が滲み出した。
体を離したヘッティンゲンは一瞬だけ驚愕の表情を浮かべたが、すぐに反撃に移った。再び踏み込んで刀を払い、ケイジは右に体をひねって避けた。半回転して背後ががら空きになったケイジに斬りかかると、ケイジは背中を向けたままで刀を突き出し、切っ先がヘッティンゲンの頬をかすめた。
ヘッティンゲンはよろよろと二、三歩下がり、膝をついた。
「……バカな。お前の方が上だと」
「模倣では私に勝てない」
ケイジはゆっくりと振り向いてヘッティンゲンに刃を向けた。
「よくわかった。ならばこちらも物真似ではない自分の技で攻めよう。錬金の技、味わうがよい」
ヘッティンゲンの刀身が靄のようなもので包まれていった。
「鬼哭、お前の大好物だぞ。腹は減っているか」
(ああ、腹ペコだ)
ヘッティンゲンの刀をケイジは鬼哭で受け止め、鬼哭は刀身にまとわりつく瘴気を吸収した。しばらくそれが繰り返されたが、ケイジの動きが一向に鈍くならないのを見て、ヘッティンゲンの顔に焦りの色が浮かんだ。
(ケイジ、もう腹いっぱいだ。そろそろ終わりに――)
ヘッティンゲンが斬りかかるのをケイジは刀で受け止める振りをして、低い姿勢で避けてから踏み込み、胴を一閃した。
ヘッティンゲンは刀を床に落とし、仰向けに倒れた。
「私とよく似た剣士よ。さらばだ。こなした実戦の数が違ったな」
(ケイジ。今度こそ本当にさらばだ。達者でな)
「鬼哭……」
再び鬼哭は物言わなくなった。
バクヘーリア
「やはり貴殿らは強い」
勝負を見ていたム・バレロが口を開き、ム・バレロとリチャードが広間の中央に進んだ。他の者は少し距離を置いて立っていた。
「ところで錬金の極意をご存じか?」
「知らんし、知りたくもない」とリチャードが答えた。
「おや、貴殿の父上であれば知る事に対しての欲求は人一倍だったから、喜んでこの話に聞き入ったろうに。残念だ」
「……父を知っている、という事は貴様も『カザハナ計画』に一枚噛んでいたな」
「マンスールもジュヒョウもわしの弟子。弟子のやる事くらいはわかる」
「真の黒幕か。《青の星》でもクラウス博士を派遣し、アメリカで死人を蘇らせたな」
「その通りだ」
「錬金の極意とは何だ?」
「そもそも錬金を構成する要素は三つある。『原罪』、これは人が生まれ落ちた時から抱える罪だ。『悪行』、生きている間の嫉妬、飽食、姦淫等のあらゆる欲望に満ちた悪い行動だ。そして『輪廻』、こうした悪い人生を送った者に限って、次の転生でより裕福に暮らしたい、誰よりも幸せになりたい、そう願うのだ。そうした人間は転生しても貴殿らが言うまっとうな人生は送らん」
「――むらさき、本当か?」
「リチャード、信じてはいけません。『死者の国』の転生は『混沌の渦』を経て、『茫洋の奔流』、『無知の大海』へと魂が渡る過程で浄化されるのです。悪いまま転生するなど――」
「なるほど、娘。少しは知っているようだな。それならば何故、悪人の数は減らない?」
「それは環境では?」
「違うな。『混沌の渦』からいつまで経っても未練がましく『茫洋の奔流』に進めないでいると何が起こると思う?哀れな魂は渦の底深くに沈んでいき、やがて暗闇の底で転生をする――」
「お前」と蛟が言った。「バクヘーリアの事を言ってるな」
「……ほぉ、その名を知る者がいるとはな。いかにも、そのバクヘーリアと通じる事こそが錬金の奥義」
「ミズチ、そのバクなんとかというのは本当か」とケイジが尋ねた。
「ああ、だが大抵の人間は浄化のプロセスに乗る。『混沌の渦』から出られずに沈んでいくのはごく稀にいるくずだけだ」
「こんな話をご存じか。《祈りの星》のダガナゲウスという男は毎日、教会に通う熱心なバルジ教徒だった。だが彼は常に人間の原罪について思い悩んでいた。そんな彼が死んで、『混沌の渦』に放り出されたが、彼はそこでも原罪の事だけを考えていた。すると足、すでに意識だけの存在なので足のあった場所だな、を引っ張る者がいた。ダガナゲウスはそのまま抵抗せずに底まで連れていかれ、現在はバクヘーリアの審問官をしているという」
「そのバクヘーリアをこの世に蘇らせるつもりか?」
ケイジが問いかけるとム・バレロは首を横に振った。
「バクヘーリアとは人格なのか、領域を指すのか、よくわかっていない。呼び出すなど不可能だ。だが世界がバクヘーリアになればそれはそれで面白いな」
「結局、貴様の言いたい事はこうか」
リチャードが仏頂面で言った。
「たとえ貴様が死んでもまともな転生はしない。再び悪人として蘇る」
「父上と違って思慮が浅いな――だが間違いではない」
「貴様ほどの人間がドノスに殉じるとは思えんが」
「ははは、そこまで評価してもらえるとは嬉しいな。さて、貴殿たちも早くこの先に行きたいだろう」
リチャードとム・バレロが剣を手に向かい合った。
あっけない幕切れだった。二、三合斬りかわした所でリチャードは肩口から胸にかけてずばっと剣を振り下ろし、ム・バレロは倒れた。
「……食えない奴だ。やはりドノスを見捨てるつもりだな」
「さて行こう」
ケイジはそう言って気配を消した。