2 漂う少年
【むらさきの回想:『死者の国』(続き)】
私は蛟にまたがって『死者の国』へと足を踏み入れました。鼻をつままれてもわからないほどの漆黒の闇でしたが、とてつもなく広い空間に思えました。空中に浮かんでいましたが、足の下では何かの気配がしていました。
「気をつけろよ、むらさき。成仏できない魂なんてもんは肉体がそこにあるとわかれば我先にと食らいついてくる――何だ、怖いのか?」
「いえ、そういう訳ではないのですが、先日、《青の星》で消滅させたばかりの邪悪な者たちに再会するのは少し気がひけます」
「……” Resurrection ”の力で蘇った魔か。心配するなよ。本気を見せれば何ていう事ない――さて。一歩踏み出せば亡者がわらわら寄ってくるぞ」
「わかりました。行きましょう」
何かが足元でのろのろと蠢く闇の中に一歩足を踏み入れました。するとすぐに私と蛟の体が白く輝き出したではありませんか。
「……おい、むらさき」と蛟が声をかけました。「なるほど、極限まで意識を集中した結果、邪悪をはね退ける聖なるオーラを身にまとったか。やるなあ」
「いえ、ミズチ。きっとあなたの力のおかげもありますわ」
「これなら亡者共も寄ってこれやしない。さあ、とっとと行こうぜ」
「どうせでしたら全速で駆け抜けるのではなく普通の速度で行きましょう。『死者の国』の様子も知りたいですし」
『混沌の渦』を悠々と進みました。足元の闇の中でかすかなざわめきが起こりましたが、誰も近寄ってこようとはしませんでした。
数体の魂は闇から這い上がってこちらを見上げているようでした。その中には予想通り、《青の星》で倒したちょび髭の男らしきものの姿も認められました。
「ねえ、ミズチ。彼らが私たちに触れたらどうなるのかしら?」
「今、身に纏う聖なる力の量であれば消滅するんじゃないかな」
「消滅?」
「ああ、だって肉体は失っているんだ。だからその先は消滅、存在自体がなかった事になる」
「まあ」
「でもね、中には消滅させた方がいい魂もいるよ。せっかく転生してもやっぱり邪悪な行為に手を染める――この渦にはまだ謎があるんだよ。不思議なもんだね」
「そうですか……」
「もしあの羨ましそうにこっちを見てる魂を消滅させたいのだったら帰りにするといい。向こうはあれ以上近付いてこないし」
「……ミズチ、妙に内部に詳しくありませんか?」
「本当だね、どうしてだろう。さあ、もうここには見るべきものもない。先を急ごう」
『混沌の渦』をどれくらい進んだでしょうか、突然に空気の様子が変わりました。ルパートの言葉通り、ここでは時間や空間はあまり意味を持たない、きっと一瞬の出来事でしかなかったのでしょう。
「ここからが『茫洋の奔流』さ。ここの魂は『混沌の渦』を抜け出しているから、肉体を欲しがるようなマネはしない」
「でも聖サフィはここで白髪になってしまわれたのでしょう?」
「ああ、次の『無知の大海』で一切の過去の記憶が初期化される。つまりここが自らの過去の記憶を持てる最後の場所さ。だから誰もが自分の生きてきた歴史を伝えたがる。サフィの場合はその何十億という記憶が一斉にサフィの頭の中を通り抜けた……ある意味、『混沌の渦』より始末に負えないね」
「私たちにもその洗礼が?」
「いや、聖なるオーラは更に強くなっている。おいそれとは飛び込んでこれないよ」
「では進みましょうか」
蛟の言葉通り、記憶が飛び込んでくる事はありませんでした。空間のあちらこちらでこそこそと囁き声が聞こえるだけで、私たちは順調に進みました。
その途中で突然、私は蛟に止まるように伝えました。
「どうした、むらさき?」
「いえ、今、父の名を呼ぶ声が聞こえたので――」
「そりゃそういう偶然もあるだろうけど……むらさき、耳がいいんだな。囁き声を聞き分けるなんて」
「いいえ。その声だけはオーラを越えて直接頭に飛び込んできたのです」
そう言って周囲を見回しました。
「ああ、あそこですわ。あそこに子供が」
「行ってみるか」
『茫洋の奔流』と呼ばれる空間の中で、そこだけは他の魂が通り過ぎない、川の流れで言えば淀みのような場所でした。
私はその淀みの中央に立つ少年に近付きました。
「私に話しかけたのはあなた?」
「うん、そうだよ」
五歳くらいの金髪の少年が答えました。
「どうしてあなたは他の魂のように『無知の大海』に向かって流れていかないのでしょうね?」
「わかんない」
「……でしたら連れていってあげましょうか?」
「本当?」
「ええ、あなたの記憶がなくなる前にお聞きしておきたいの。あなたはリン文月をご存じなの?」
「うん、リンはぼくを家族だって言ってくれたんだ」
「そうでしたか……私はリンの娘、文月むらさきです。隣はミズチ」
「マリス……うーん、文月マリスかな」
「マリス、よろしく。やはり私たちは家族なのね」
「おい、むらさき」と蛟が声をかけました。「いいのか。勝手に魂を導いて」
「構わないでしょう。だめなら大公はわざわざ私たちをここに来させませんわ」
「まあ、それもそうだ」
蛟にまたがった私、その私と手をつないだマリスの魂が先に進みました。
「あなたはこれだけの聖なるオーラを浴びても消滅しないのね」
私がマリスに言うと蛟が笑いながら答えました。
「ここにいる魂には邪気が少ないからね――それにしてもそのむらさきの身内は……」
「どうしたの、ミズチ?」
「何でもないよ。ほら、『無知の大海』が近付いてきたぜ」
「マリス、私の手を放してはだめよ。たとえ記憶がなくなってもあなたは私の家族ですからね」
「……よくわからないけど、わかったよ。むらさきの言うとおりにする」
柔らかな光に包まれた場所でした。私は思わず不安になり、手をつないでいるマリスを見ました。マリスも落ち着かなそうに辺りを見回していました。
「……ねえ、マリス」
「……ん、何?むらさき、ここはどこなの?」
「……記憶が初期化されていない――ねえ、ミズチ。私はとんでもない事をしでかしたのかしら?」
「何とも言えないね。むらさきが無理矢理ここに引っ張ってきたからかもしれないし、それがこの子の運命なのかもしれない」
「えっ、でもこのまま蘇ったら前世の記憶が。それどころかこの姿のままで生まれ変わってしまうのではないかしら」
「これ以上はどうもできないよ。魂に肉体の器をあてがってやるなんてできっこない相談だ――さあ、その子の手を放してあげなよ。後は運命に任せるんだ」
「……そうね」
私はマリスの方を振り向きました。
「マリス、ここでお別れよ。後は転生の時を待ちなさい」
「うん、だいじょうぶ。またすぐにむらさきに会える気がする。だからだいじょうぶ」
「そうね。私もそんな気がしますわ。じゃあ私たちは先に行きます」
私が手を放すとマリスは静かに漂い始めました。顔には微笑みを浮かべたまま、私たちの元からゆっくりと遠ざかっていきました。
「マリス、元気でね」
「おい、むらさき。魂に向かって元気はないだろう」
「ええ、でもそう言わずにはいられなくて――さあ、ミズチ。後は『聖人の告解室』ですわ。でもどうしてそんな名前なのでしょう?」
「……、……ん、ああ、じゃあ行こうか。こっちのはずだよ」