7.2. Story 4 ヌエ

3 始宙摩寺

 

退魔の鐘

 朝の6時を回った頃、一人の若者が屋敷を訪ねてきた。
「おはようございます」
「おお、あんたか――他の方はどうした?」と美木村が尋ねた。
「来るべき決戦に備え、一足早く高野に戻りました。私だけはそちらの――」と言って若者は庭に置かれた不気味な腕を指差した。「物を高野に運ぶために参った次第です」

「なるほど。ああ、紹介が遅くなった。隣にいるのが鬼の腕を切り落とした文月セキだ」
 美木村に紹介され、セキは挨拶した。
「セキです」
「高野山始宙摩寺の明海と申します。お父上にはお世話になりました」
「えっ、父さんを知ってるの?」
「私はもっぱら使い走りでしたので、師の大海がお相手されていましたが――さあ、早くその腕をしまいましょう。夜になる前に高野に戻らないと」
 明海は背中に背負っていた白木の箱を降ろし、その中から荒縄と護符を取り出した。
「美木村様も刀が使えなくては何かとお困りでしょう」
 明海は荒縄で腕を何重にも縛り上げ、その上から慎重に護符を幾枚も貼った。そうして刀を腕から抜き、美木村に返した。

 
 明海は長さ一メートル以上ある鬼の腕を背中に背負うとセキに向かって言った。
「セキ殿。参りましょう」
「えっ、僕も行くの?」
「それはそうです。鬼は腕を取り返しに来ます。セキ殿がいなければ話になりません」
「ふーん、でもその腕を持ったままで新幹線に乗れるの?」
「……まだご存じありませんでしたか。新幹線などとうに動いておりませんぞ。ヌエが京都駅を破壊し、そのままそこに居付いております」
「ヌエ?」
「左様です。申し上げた通り、東京を騒がす鬼と京都を騒がすヌエ、両方同時にケリをつけます。それにはセキ殿のお力が不可欠。さあ、参りましょう」
「美木村さん、何だかそういう話みたい。ちょっと行ってくるって、もえに伝えておいて」
「わかった。目一杯、暴れてこい。こっちも今夜中にケリをつけておく」

 
 セキと明海は空から太平洋に出て紀伊半島を越え、昼前に高野山に着いた。
 かつてデズモンドも通った異次元への道を抜けると始宙摩の本殿が見えた。

「セキ殿をお連れしました」
 すぐに一人の僧侶が外に現れた。
「時間通りですな。この寺の大海と申します」とヤギ髭の老人が言った。
「行動を開始するのは夜でしょう?」とセキが尋ねた。
「鬼と対決の前に幾つかやっておきたい事がありましてな。明海。腕は結界の中に置くのだ」
「えっ、どちらでございますか?」
「先ほど庭に張っておいた。そこに置いた後、本堂の地下じゃ――さ、セキ殿。参りましょうぞ」
 セキは黙って大海に付いて本堂の中に入っていった。

 
 地下に案内されると巨大な青銅の鐘がセキの目に飛び込んできた。
「これは?」
「その前に現在の状況をご説明いたそう。ヌエという怪物が現れ、京都の駅ビルに居座っておる」
「明海さんから聞きました」
「そのヌエを正気に戻すのがこの鐘。セキ殿には日が沈むと同時にこの鐘を撞いて頂きたいのです」
「どうして僕が?」
「これほどの巨大な鐘、セキ殿でないと撞けぬからです」
「でも……」
「撞木がないと言われるのでしょう。今、若い者たちが山に木を伐り出しに行っております。間もなく戻りますゆえ、それまではお寛ぎ下され」

 
「――父に会った事があるんですか?」
「二十年前の戦いが決着した後、こちらに来て頂く機会がありました。後程、セキ殿にも見て頂くが、『無限堂』にも足をお運び頂きましたぞ」
「父にも鐘は撞けたんじゃないですか?」
「その通りですがその時ではありませんでした。ヌエは深い眠りにつき、目覚めてはいなかった」

「――目覚めさせたのは僕たちなんです」
「それは必然であったのでしょう。あの場合、ああするしかなかった。誰もあなた方兄妹を責める事はできません」
「何でその事を?」
「大師が直接お声をかけて下さいました。何しろこの世界最大の危機です」
「そんなにまずい状況ですか?」
「他の大陸では連日数千人の死者が出ている国もあると聞きます。この日本はまだ良い方、大師が前もって警告して下さっておりましたからな」
「東京の鬼と京都のヌエを退治して終わりですか?」
「――まだやって頂かねばならぬ事は残っておりますが、それについては当面の魔を退けた後にお話致します」

 
 山で伐り出したばかりの真新しい杉の木が本堂に運び込まれ、撞木作りが始まった。
 撞木ができ上がるまでの間、大海と明海がセキを『無限堂』に案内した。
「このお堂は我々と弘法大師、空海をつなぐものです」と大海が言った。
「はあ」
「ここに来られた外の方はデズモンド・ピアナ様、あなたのお父様、そしてあなたが三人目です」
「廊下に絵が飾ってあるみたいですけど」
「左様。この絵は宇宙の歴史――」

 
 そう言うと大海はふわりと浮き上がった。セキと明海も同じように浮かんだ。大海は急勾配の廊下に沿って絵の説明を始めた。
 かつて大海の師、青海がデズモンドにしたように大海はセキに絵を説明していった。デズモンドを題材に採った『史聖来訪ノ図』、改め『史聖入山ノ図』まで説明をした所で大海は一旦間を置いた。
「ここまではよろしいですかな?」
「はい」

「これから先はあなたのお父様が関与した歴史、最初が『四邪覚醒ノ図』にございます」
 なるほど、赤い服の女性が空に浮かび、その下に四人の男が描かれていた。いつだったか母、沙耶香がしてくれた話がこんな感じだった。
 その次は『七聖再臨ノ図』、どうやらリチャードたち七人を意味するようだった。
「よろしいですかな。次がこちら、『虚誕九生ノ図』。意味はわかりますかな?」

 その絵は暗闇に浮かぶ赤黒い九つの頭の蛇だった。
「……ナインライブズの誕生ですか?」
「いや、そうではありません。『虚誕』は『うつろにしていつわり』、つまり『でたらめ』という意味にございます」
「えっ?」

「ここからはリン殿もご覧になっていない新しい絵です。『九生探石ノ図』。如何ですかな?」
 セキが見たのは九人のまだ若い男女たちが両手に様々な色の石を携えている構図だった。
「……いかがですかなって言われても、あまりよくわかりません。この九人は僕たち兄妹なのかもしれないけど」
「今、石は幾つありますかな?」
「” Sands of Time ”と” Resurrection ”……絵の中では全員両手に石を持ってるから、あと十六個もあるんですか?」
「あなたにわからないのであれば我々にわかるはずもありません。大師の言葉を待つしかありませんな」
 明海が「そろそろ」と無言で合図をし、大海は言った。
「さて、本堂に戻りませんと。どうも異なる次元にいると時間の経過が怪しくなってしまいますな」

 
 本堂では天井から太い縄で撞木を吊るす最後の作業に入っていた。撞木の長さは二十メートル、太さも優に二メートルはあった。
「セキ殿にはあの鐘を撞いて頂きたい。あの鐘は元々ヌエを鎮めるために大師がお造りになったもの。日没と同時に撞き始めましょう」

 セキは鐘に近寄った。これだけ大きいと撞木も大きくしなければならないが、撞木を動かすためには重力制御が必要だった。
 あの撞木の上に乗って、一気に重力を開放して、とあれこれ考えていると大海が声をかけた。
「セキ殿、撞けそうですかな?」
「どんな形でもいいんですよね?」
「構いません。鐘の音がヌエまで届けば良いのです」
「やってみます」

 
 その時がきた。寺の若い人間たちが忙しく動き回る中、大海がセキに言った。
「セキ殿。お願いします。鐘を撞いた後の手筈はわかっておりますな?」
「ええ、京都駅に行ってヌエを連れてここに戻ってくる」
「その通りです。あまり猶予はありませんぞ」

 
 セキは撞木の上にひらりとまたがった。
 撞木の重力を軽くして下にいる若い者たちが撞き紐を持って後方に撞木を引き、鐘にぶつかる瞬間に重力を元に戻せば、鐘が鳴り響くはずだった。
 重力を解放しながら下に向かって「引いて下さい」と声をかけた。気合と共に撞木が後ろに引かれ、そのまま鐘に向かって進んだ。
 撞木が鐘に当たる寸前に重力を元に戻すと、下の若者たちは急に勢いを増した撞木に引き摺られるように総崩れになったが、それでもどうにか撞木は勢いよく鐘に激突した。
 響きのない「ぼんっ」という音がした。

 セキはへたり込む若者たちを尻目に空を飛んで鐘の様子を見に行った。
「あちゃぁ、少しずれただけでも全然、音が響かないんだ」

 
 心配した大海と明海もやってきた。
「セキ殿、どうされました?」
「当たるポイントが微妙にずれてるみたいです」
「むぅ。撞木の位置を調整せぬといかんか。大師の残された図面通りにやったのですが……だが時間があまりありません」
「どうにかしますよ。当たる瞬間に鐘を動かしますので、明海さん、上で掛け声を」
 促された明海が撞木の上にまたがり、セキは撞木と鐘が当たる予定の場所の空中に陣取った。

 
「では改めて。セキ殿」
 明海の声に頷いたセキは若者の動きと共に重力を制御し始めた。後方に下がった撞木が近付くと、撞木の重力を元に戻し、同時に鐘の重力を一瞬だけ解放して、わずかにその位置を横にずらし、又、元の重力に戻した。
 今度は大地を揺らす低い音が鳴り響いた。
 間髪を入れず、もう二回続けて撞木を鐘に叩きつけた。下の若者たちは撞木に引き摺られているだけで、セキがほとんどの動きをコントロールしなければならなかった。

 
「お見事――」
 大海の言葉にセキは首を横に振った。
「もう一度やりましょう。空海さんは一人で撞くように図面を描かれたんだと思います。だから僕一人でやってみます」

 セキは明海と若者たちを脇に退かせ、一人で撞木の撞き紐に相対した。荒縄の紐を体にぐるぐると巻き付け、後方に下がった。
 重力を制御し、丸太をマッチ棒のように軽くして勢いをつけジャンプし、最も上空に達した地点で重力を元に戻した。重さを取り戻した丸太はさっきよりも少し斜め上方から鐘に向かってトップスピードで激突した。
 先ほどよりも澄み渡った音が大地を震わせ、立っていた大海たちは地面の揺れを感じた。
 そのまま十回近く同じ動作を繰り返し、鐘の音は遍く響き渡った。
「――もう十分です」
 大海の言葉でセキは動きを止め、体の縄をほどいた

「セキ殿、急かすようで済まぬが京の七条まで行って下さらんか。明海に道案内させますので」
 セキと明海は休む間もなく、本堂から飛び出した。

 

ヌエ

 京都までの道のりは五分ほどだった。
「あそこです」
 明海が指差す先、盆地に切り開かれた碁盤の目のような街路の中心よりも南の地点に大きな生き物が寝そべっているのが見えた。
 セキと明海は高架の線路を分断するように廃墟の上で眠る全長五メートルはありそうな巨大な生き物に空から近寄った。
 生き物は気配を感じ取ると、片目を開けて唸り声を上げた。

 セキたちの頭の中に直接言葉が飛び込んだ。
(……空海んとこの若いもんと――おっと、こいつは驚いた。長生きするもんだ)
「ヌエかい」とセキが声をかけた。
(鐘を鳴らしたのはおめえか。おかげで目が覚めた。変な起こし方されちまったから、どうなるかと思ったぜ)
「駅を破壊したではないか」と明海が言った。
(これか。気にすんな。この都には不似合いだ)
「そうは言うが、そこは東西をつなぐ要所だ」
(小僧、何もわかっちゃいないな。おれが目覚めた時に最初に目についたのがこの黒い塊だ。こいつが竜脈を分断していやがったから綺麗にしただけだ。こんなもんがあるから魔に魅入られるんだ)
「お前が魔じゃないのか」と明海が言った。

(ふん、何とでも言え。で、どうすりゃいい?)
「一緒に高野まで来てもらおうか。鬼退治を手伝ってもらいたい」
(それだけでいいのか)
「その後は私も知らん」
(じゃあ行くか。急いだ方がいい。そいつら、もうすぐ来るぜ)

 
 始宙摩寺の入口でセキはヌエをまじまじと見つめた。体は虎のようだが、顔は猿のよう、尻尾は蛇という恐ろしい化け物だった。
 ヌエはセキの視線に気付いた。
(何だよ。そんなにおれが珍しいか)
「いや、君はどこで生まれたのかなと思ってさ」
(さあな。この星じゃない。この星の近くでもない。どっか他の宇宙だ――何でそんな事聞く?)
「これから来る鬼を退治するのは気まずくないかなって思っただけだよ」
(はん、そんな事かよ。おれは昔から好きにやってんだ。気にすんじゃねえよ)
「お二方」と明海が言った。「結界の場所にご案内しますので」

 
 セキたちは本堂と『無限堂』の間の二本の大樹に挟まれた場所に設けられた結界に向かった。
 鬼の腕を取り囲むように結界が描かれ、大海を始めとする僧たちがその周りに座り、篝火が四隅に置かれていた。
「セキ殿」と大海が坐したままで口を開いた。「無事にヌエを連れてこられましたな」
(空海の弟子か)
 結界の脇で座り込んだヌエが鳥の鳴き声のような声で吠えた。
「うむ、『退魔の鐘』を聞き、よくぞ正気に戻ってくれた」
(冗談じゃねえ。元々正気だ。小僧たちにも言ったんだが、都の竜脈を遮る邪魔な物を片付けてただけだ――それにアカボシとユウヅツの樹の近くで戦うってのも洒落が効いてるじゃねえか)
「ふむ。しゃっきりしとるようじゃ」
(色々聞きてえ事はあるが、まずはやるべき事をやるか――来たぜ)

 
 風もないのに篝火が激しく揺れ出したのを見て大海は周りの僧たちと真言を唱え始めた。
 本堂に続く山道を何かが登ってくる気配がした。霧の中に青白い炎がいくつも浮かび上がり、こちらにやってきた。
 深い霧は本堂もろとも結界の張ってある場所も包み込んだ。青白い炎は全部で十、五人の大鬼がいるようだった。

 
「貴様ら、剣だけでなくヌエまで味方につけたか」
 霧の中から声がした。
「何を言うか」と明海が言った。「ヌエは元々大師が大陸より連れ帰った。我らに与するのは当然だ」
 明海の言葉にヌエは一声吠えた。
(おい、そうじゃねえよ。おれはやりたいようにやるだけだ。空海も関係ねえ)
 霧の中から声が返ってきた。
「ヌエ、お前の居場所はどこにもなくなるぞ。それでいいのか」
(構わんな。おれを飽きさせない飼い主も戻ったしな)
「奉ろわぬ者の剣を持ち、鐘まで鳴らした男か。この星からいなくなったと思っていたのに邪魔だな」
(話は以上か……この後の里帰りがある。さっさと終わらせてえんだ)

 ヌエが構えを取るセキと明海の前に立ちはだかり、霧に向かって口から紅蓮の炎を吹き出すと、たちまち十の青白い炎のうち八つまでが叫び声と共に消え失せた。
「貴様ら、許さん」
 霧の中から右腕のない大鬼が現れた。鬼は結界の中の自分の右腕を奪い取ろうと手を伸ばしたが、大海たちの唱える真言に動きを止めた。
「セキ殿、今です」
 セキは『鎮山の剣』を抜くと、鬼の頭上に飛び上がり、そのまま剣を頭に振り下ろした。

 
 消滅した鬼とその腕のあった結界の周りにセキたちが集まった。
「大海さん、ヌエが言ってたけどこの後の里帰りってどういう意味ですか?」
「その事ですか。この後、行って頂きたい場所が幾つかあります。そこに行けばこの国は救われる。その手始めにヌエと共に里帰りをして下さい」
「どこですか?」
「遠野です」

 

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 Story 5 天に昇る

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