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20XX.7.10 Home at Last
シゲさんのいる療養所は伊豆高原にあった。美夜と東京駅で待ち合わせて東海道線に乗り込んだ。
「あの後、葉沢寛一の事を西浦さんに訊いたの。そうしたら葉沢って大失敗をやらかして出世コースからはずれたらしいの。葉沢には『事実の世界』でのより良い記憶が残っていたから、あたしたちの事実を取り戻す戦いを応援するのかしら?」
『事実の世界』でも今のところ葉沢は大した人物じゃないよ、と伝えると美夜は首を傾げた。
「妙ね。きっとエピソード7とか8の頃にものすごく偉くなってるんじゃないの?」
その後、熱海まで他愛ない話をして過ごした。熱海で伊豆急に乗り換え、伊豆高原で降りた。地図を見た限り歩いていける距離ではなさそうだったので、近くまでタクシーを使った。
「ここを登っていけば『暖生園』のはずよ」
照りつける日差しの中、急な坂を登った。
建物はこざっぱりとした二階建てだった。美夜が事務室で用件を告げた。
「葉沢さんから連絡頂いてます。重森さんのお身内の方ね。一応ここに名前だけ書いておいて下さい」と言って、太った中年女性がぼくたちを値踏みするような目で見た。
やがて女性は中に引っ込み、しばらくして女性たちのぺちゃくちゃしゃべる声が聞こえた。
介護の女性が車椅子を押しながらやってきた。車椅子に乗った男性、これがシゲさんだろうか、禿げ上がった頭に白い無精ひげが生えていた。顔に表情はなく、その目はどこを見ているのかわからなかった。
「すみません。三人だけで話をしたいんですけど」と美夜がおそるおそる言うと、介護の女性は少し困った顔をした後に、「この人は裏手の海が見える高台がお気に入りだからそこに行けば」と言い、「ただし、三十分だけね」と念を押した。
車椅子を押しながら裏手に回った。そこは太平洋が一望できる最高の景観だった。
「無駄足だったかな」と美夜がシゲさんの表情のない顔を見ながら言うと、シゲさんが突然に言葉を発した。
「……あんた」とシゲさんは車椅子を押すぼくの顔を見上げながら言った。「リンちゃんの関係者よね?」
何も言えないでいたぼくを尻目にシゲさんは続けた。
「……夢だったのかしら。リンちゃんがあんたを連れてきたの」
多少呂律が怪しかったが、言っている内容は至極まとものようだった。
「あんた、リンちゃんのために戦っているんでしょ?」
美夜が慌てて口を開いた。
「あたしたち、事実を取り戻すために色々と調べています。文月凜太郎は今のこの世界には存在していないようなんです」と美夜が堰を切ったように言った。
「……だから、それがリンちゃんのために戦っているって事よ」
「文月凜太郎の記憶がおありなんですか?」
「……懐かしいわあ。リンちゃんは腕の立つ用心棒だったの。あたしのS6貸してあげたりもしたのよ」
シゲさんの仕事について尋ねた。
「……あたしはジャズ喫茶のマスターで……あら、その前は何してたんだっけ」
葉沢さんですか、と助け舟を出した。
「……そうそう、お宮ね。あたしはお宮と一緒に政府機関で働いてたのよ。でもあたしは……あら、何だったかしら?」
「藪小路じゃないですか?」と美夜が尋ねた。
「……その名前。そうよ、藪小路と色々あって、あたしは仕事を辞めたの。で、リンちゃんに……あら、こうしちゃいられないわ。ちょっとあんた」とシゲさんは美夜に呼びかけた。「あたしの荷物の中にリンちゃんに渡すはずだった資料が入ってるの。それを読みなさい。少しは役に立つから」
美夜は大急ぎで事務室へと戻った。残されたぼくはシゲさんと海を見つめた。
「あんた、あの娘は彼女?……なあに、微妙なの。いいのよ、遠慮しないで。あんたたち信頼し合ってるから大丈夫よ」
でも事実の歴史が戻れば、見ず知らずの関係に戻ってしまうかもしれません、と伝えるとシゲさんは大笑いをしてから少し咳き込んだ。
「何、そんな事気にしてんのよ。やってみなけりゃわかんないでしょ……もしも出会わなかったとしたら……その時は探しなさい。これだけ信頼し合ってるんだからきっと会えるわよ」
ぼくは急に体が熱くなるのを感じた。美夜が資料の束を持って戻った。
「シゲさん、これですか。『Y機関に関する調査報告』」
「そうよ、それ。あんた、どうやって事務室にある荷物をちょろまかしたの?」
「子供の頃に書いた日記をおじいちゃんに読んで聞かせたいって、嘘をつきました」
「いい腕してるわ。あたしの部下の誰よりも優秀――ちょっと待ちなさいよ。『Y機関』を藪小路だって知ってる、あんた、ただ者じゃないわね」
美夜はすました顔で立っていた。ぼくは困って、シゲさん、本当はぼけてないんですよね、と尋ねた。
「それがね、リンちゃんの夢を見るまでは本当にぼけてたみたいなの。だからお宮が世話を焼いて施設に入れてくれたのよ。でも、夢の中?でリンちゃんとあんたに会ってからこの通り、昔に戻ったの。不思議ね」
じゃあ、もう普通に外でも生活できますよね、と尋ねるとシゲさんは淋しげな表情になった。
「いいのよ。このまんまで。よぼよぼのオカマが今更外の世界で生きていけないわ。だからあたしはここに居座る。どうせお金はお宮が出してるし……それに介護の人も優しいから、当分はぼけた振りするわよ」
『暖生園』の長くて急な坂道を降りた。左手にはシゲさんの資料、右手に美夜の左手を宝物のように捕まえていた。
バス通りは夕方の観光帰りの車の渋滞が始まっていた。「どうする、タクシー拾えないね」と美夜が言ったが、いいよと首を横に振った。
歩いて帰ろう、鼻歌交じりでさ。
登場人物:ジウランの日記
名 Name | 姓 Family Name | 解説 Description |
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ジウラン | ピアナ | 大学生。行方不明になった祖父のメッセージに従い、『クロニクル』という文書を読み進む | |
デズモンド | ピアナ | ジウランの祖父 一年前から消息不明 |
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能太郎 | ピアナ | ジウランの父 ジウランが幼い頃に交通事故で死亡 |
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定身 | 中原 | 文京区M町にある佐倉家の屋敷の執事 | |
美夜 | 神代 | ジウランをサポートする女性 都立H図書館に勤務 |
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菜花名 (ナカナ) | 立川 | ジウランのガールフレンド | |
治 | 西浦 | 元警視庁勤務 美夜と関係があるらしい |
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大吾 | 蒲田 | 元警視庁勤務 現在は著名な犯罪評論家 |
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シゲ (二郎) | 重森 | 伊豆の老人ホームにひっそりと暮らす |