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20XX.6.3 東京探索行
初夏の爽やかな日差し、東京を旅するにはもってこいの一日になりそうだ。
まずは主人公の「文月凛太郎」の住まいを訪ねた。江東区S町にある『都鳥』という喫茶店を探せばいいので話は簡単だった。事前にネットで1丁目と2丁目があるのを調べておいたのでゆりかもめを有明で降りて2丁目から回る事にした。
2丁目は倉庫や学校が多く、1丁目の方に回るとショッピングセンターやマンションが立ち並び少し期待値が上がったが、一階店舗、二階住居の喫茶店が存在する雰囲気ではなかった。最近ではチェーン展開のコーヒー店以外の喫茶店なんて化石みたいなものだからなくなっていても不思議ではなかったが、心配なのは1983年当時のこの場所を覚えている人がいるかだった。
公共機関に聞くのが一番と考え、派出所を探したがなかなか見つからなかった。ようやく海に近い場所の派出所を見つけ出すと、運よくパトロール中の札が出てなかったので、中に入って用件を切り出した。
結論から言えばだめだった。親切な若い警官が当時から住んでいる釣具屋や食堂に電話までしてくれたけど、誰も『都鳥』なんて名前の喫茶店は知らないという事だった。
がっかりしたけれど、うなだれるにはまだ早かった。大きなショッピングセンターの二階のドーナッツショップでコーヒーを飲みながら次の作戦に移った。次は話の中で重要な役割を占める『糸瀬沙耶香』を訪ねよう、コーヒーを飲み終えて豊洲から有楽町線で護国寺に出た。
護国寺から目指すM町に歩いていった。さっきまでいたウォーターフロントのS町とは全く景色が異なるお屋敷街だ。同じ東京でこうも景色が違う。でもぼくが『事実の世界』を取り戻して歴史が変わったら両者の景色が逆転する可能性だってある、そう考えると何だか自分は魔王になったような気がした。
大層偉い人も住んでいそうな雰囲気の町並みだった。すっかり気遅れして、変に疑われても困るので派出所はパスし、古そうなお寺があったのでそこに入っていった。
お寺の先代住職だという少し耳の遠い老人が対応してくれた。糸瀬という名字には聞き覚えがないが、沙耶香という名前は何となく覚えているらしかった。本当だろうか。
老人の覚えている沙耶香という人の名字は『佐倉』らしかった。はて、佐倉、何となく聞き覚えのある名字だった。そうだ、沙耶香の母、真由美の旧姓は佐倉だ。場所を聞いて礼を言い大急ぎで寺を出て佐倉邸に向かった。老人が背中越しにもごもごと何か言っていたがよく聞こえなかった。
佐倉邸はツタのからまる古い二階建ての洋館だった。『佐倉』と書かれた表札のある門柱に付いている古い形のインタフォンを押すと男の人の声で「佐倉です」と返事があった。
用件をどう伝えればいいだろう。一瞬迷ったけど1983年の件を伺いたいとありのままをインタフォン越しに告げた。しばらくの間があり、やがて「少々お待ち下さい」と言って接続が切れた。
しまった、やっちゃったかな。門柱の所で不安げに立っていると、屋敷のドアが開いて、ダークスーツを隙なく着こなした姿勢のいい白髪の老人が現れた。
「1983年の事を伺いたいというのはあなたですか?」と老人は柔らかなバリトンボイスで尋ねた。そうですと答えると老人は一瞬遠くを見つめるような表情をした後で「お待ちしておりました」と微笑んだ。
お待ちしておりました――老人の思いがけない返答にどう反応していいのかわからず笑顔がひきつった。
ぎぃと重い音を立て鉄の扉が開いた。
中に入ると、築山に灯篭、池のある立派な日本庭園に丸窓がはめ込まれた洋館、まさしく資料の通りの風景だった。
客間に通され、しばらく待っていると老人が紅茶を持って入ってきた。老人はポットからカップに紅茶を注いでからぼくの正面に立った。
「お名前は?」
ぼくが名前を告げると老人はまた遠くを見るような表情になり「あの方、そう、デズモンドさんのお身内ですか?」と問い返してきた。
いきなりじいちゃんの名前が出たのであわてて頷き、でも行方不明なんですと付け加えた。老人はソファに腰かけたまま、ぼくの手をぎゅっと握りしめ、「あの方にどうしてもお伝えしなければならないと思い、この日を待ち焦がれておりました。けれどもまずはあなたの用件をお伺いするのが礼儀でしょう、どうぞお話下さい」と一気に言って優しく微笑んだ。
ぼくは心の準備ができておらず、さて、何から話したものかと言葉に詰まった。
「これは私とした事が失礼致しました、名乗りもせずに。私は中原と申します」
初めて資料が現実とリンクした記念すべき瞬間だった。中原さんの下の名前は資料の通り『定身』だ。いきなり力が湧いて、本題の1983年の夏について沙耶香と話がしてみたい旨を伝えた。
「……やはり私の話を聞いて頂いた方が良さそうです」と中原さんは弱々しい口調になった。「もう何年前になりますか、デズモンドさん、あなたのおじい様にあたるのですか、その方が今日のあなたと同じように私の下を訪ねていらしたのです。あの方はお訊きになりたかったはずです。沙耶香様と話がしたい、糸瀬優と話がしたい、真由美様と話がしたいと」
中原さんはため息を一つついてぼくに問いかけた。
「ジウランさんも同じご用件でしょう?」
ぼくが頷くと中原さんは少し間を置いてから言った。
「色々な部分が事実とは異なっておりました。例えば私は文月源蔵や凛太郎なる人物にお会いした事はございません。真由美様はご結婚され沙耶香様を授かりましたが、ここにはいらっしゃいません」
単なる偶然の一致か、じいちゃんがどこかで名前を見つけて使ったのか、いずれにしても現実は資料の通りではなかった。
「ジウランさん、ここまでが当時おじい様にお話したかった内容です――おじい様が帰られたその後から私は頻繁に夢を見るようになりました。その夢の中には文月凛太郎という青年が出てきてリチャードという男と対決をして沙耶香様をお助けになるのです。それが1983年の夏です。私はこれをデズモンドさんにお伝えしなければと思い、ずっとお待ちしておりました。そして今日あなたが来て下さった――所詮、こんなのは老人の妄想に過ぎませんな、いや、失礼致しました」
老人は言ってから淋しげに笑った。
落ち込んでいるはずのぼくが逆に中原さんを慰める羽目になった。そんな事はありません、きっと中原さんの隠された記憶が呼び起こされたんです、そうやって記憶している人が増えればなくなった事実が蘇るってじいちゃんも言ってました、と思いつきでいい加減な事をしゃべった。
中原さんは再びぼくの手を握りしめた。冷たい手だった。
「そうでしょうか。あなたは良い青年です。また話をしに遊びに来てくれませんか?」
ぼくはもちろんですと言い、お茶のお礼を述べてから屋敷を後にした。すっかり日が暮れてお屋敷街は何だかうすら寒かった。
池袋まで出て品川で乗り換えビーチハウスに帰る間ずっと、今日の出会いをどう位置づければいいのか考えた。ただの偶然だろうか、そうは思えない、でも決定的なピースが欠けている、そんな気持ちが強くなった。
登場人物:ジウランの日記
名 Name | 姓 Family Name | 解説 Description |
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ジウラン | ピアナ | 大学生。行方不明になった祖父のメッセージに従い、『クロニクル』という文書を読み進む | |
デズモンド | ピアナ | ジウランの祖父 一年前から消息不明 |
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能太郎 | ピアナ | ジウランの父 ジウランが幼い頃に交通事故で死亡 |
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定身 | 中原 | 文京区M町にある佐倉家の屋敷の執事 | |
美夜 | 神代 | ジウランをサポートする女性 都立H図書館に勤務 |
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菜花名 (ナカナ) | 立川 | ジウランのガールフレンド | |
治 | 西浦 | 元警視庁勤務 美夜と関係があるらしい |
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大吾 | 蒲田 | 元警視庁勤務 現在は著名な犯罪評論家 |
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シゲ (二郎) | 重森 | 伊豆の老人ホームにひっそりと暮らす |