6.1. Story 1 83.08

4 逃亡

 

謎の女

 表参道のカフェの屋外のテラス席に男はいた。寝不足のためか、髪が乱れ、目は充血していたが、派手なサマージャケットに白のコットンパンツを履いた、こじゃれた業界人風の着こなしの中年男性だった。
 男は待ち合わせの時間に遅れてきた女の姿を認め、余裕を見せて右手を上げた。

「優羅」
 声をかけられた女性が微笑みながら男の前の席に座った。ゆるやかにウェーブした長い髪に大きなサングラス、赤い口紅が女性を理知的にもセクシーにも見せていた。

「糸瀬先生。今、忙しいんじゃなくて。近々、大きな会議のホスト兼メインスピーカーをなさるんでしょ?」
「あ、ああ。そうなんだがちょっと困った事があってね」
「私に頼み事?」
「今夜、君の家に泊めてもらえないか」
「それは無理。あなたもよくご存じでしょ。私は他人を自分の家には上がらせない主義なの。それにそんな仲じゃないし。ごめんなさいね」
「どうにかならないか。恐ろしい人物に脅されているんだ」
「だったら警察に相談なされば?」
「……それはできない。今は大事な時期だ。一分一秒が大切なのに警察で根掘り葉掘り事情を聞かれる、そんな時間と精神の浪費は許されない」
「本当に追い詰められているようね――ああ、こういうのはどう。あなたの伊豆の別荘、あそこなら誰にも知られないし仕事にも集中できる」
「そうだな。その手があった」
「だったら善は急げよ。タクシー拾いましょ」

 
 優羅は糸瀬を引きずるようにして大通りに出てタクシーを止め、糸瀬を後部座席に押し込んだ。
「じゃあまたね。週末には差し入れ持って遊びに行くわ」
「そうしてくれると嬉しいよ」
 糸瀬を乗せた車が見えなくなるまで手を振っていた優羅は車が見えなくなるとぽつりと呟いた。
「お馬鹿さん」

 
 タクシーの後部座席に身を沈めた糸瀬はようやく落ち着きを取り戻した。

 昨夜、家に投げ込まれたあの封筒、今朝早く、騒ぎの中で発見したのを開封し、腰を抜かさんばかりに驚いた。
 あれは確かホログラムとかいう最新技術による映像のはずだ。以前、テレビで紹介された時にコメントした記憶がある。
 もしあの映像の主が復讐を目論んでいるなら自分は破滅だ。

 その前夜に指示を受けたと言って、突然やくざ者たちが屋敷にやってきた時には何が起ころうとしているのか皆目見当がつかなかったが、そいつらは全くの役立たずだった。
 灯りを消したままで封筒が投げ込まれた屋敷の窓からそっと外を覗くと庭に倒れている男たちの姿が見えた。
 そしてあのホログラム映像、とんでもない奴を相手にしているのが実感できたからこそ、こうして逃亡しようと考えたのだ。

 それにしてもわからない事が多すぎた。
 あのホログラム映像の主が存命だったのが最大の驚きだが、奴はどうやって生き永らえた。
 今月末の国際会議の事を知っていた。実はもうこの近くに来ているのではないか。

 あの御方の動向も謎だった。 
 屋敷が襲撃される前に警護の者を寄越してくれたが、一体どこでどうやって情報をキャッチしたのだろう?

 とにかくどこかに身を隠して大切な会議まで安全に過ごす必要があったが、優羅の言う通り伊豆の別荘であれば気付かれないに違いなかった。

 いや、待てよ。あの女、黐木(もちき)優羅は伊豆の別荘の事など知らないはずだ。これまで何人もの女たちと関係を持ってきたが、伊豆の別荘には連れていった事がなかったし、別荘の話をした事すらなかった。

 急に気味が悪くなってきた……そうだ、月末に会議の開かれるTホテル、あそこに缶詰状態になればいい。身の安全も保証されるし、何より都心だ。
 必要な荷物はあの忌々しい爺に持ってこさせよう。
 再び上機嫌になった糸瀬は運転手に行先の変更を告げ、満足そうに笑った。

 

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 Story 2 邂逅

 

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