6.1. Story 1 83.08

3 依頼

 

トラウマ

「もう、リン。夏休みだからって、いつまでも寝てないでお店、手伝ったら」
 リンは階下の未知の声で目を覚ました。時計の針は11時を指している、家に帰ったのが朝の5時を過ぎていたから六時間しか寝ていなかった。
 1983年8月5日、江東区S町にある喫茶店『都鳥』、この店は若林静江が経営しており、彼女の遠縁に当たる女子高生の未知がアルバイトとして雇われていた。一階が店舗と静江の住居、二階の二間をリンが間借りしていた。

「未知、いいのよ。リンちゃん、遅かったんだから」と静江の声がした。
 リンの父、源蔵と静江が古くからの知り合いで、女の一人暮らしは何かと物騒だという理由で源蔵に格安で部屋を貸してくれたのだそうだ。
「リンちゃん、ちょっといいかしら」
 階段を登る音がして、リンが襖を開けると静江が立っていた。
「あ、おばさん、すみません。お店手伝わなくて」
「いいの。さっきシゲちゃんから電話で『ジャンゴ』で一悶着あったって。リンちゃんは本当に強いって感心してたわ。ありがとうね」
 静江は部屋に入り、リンの寝ていた布団の脇に座った。
「いえ、そんな」
 リンは慌てて布団の上に正座してぽりぽりと頭をかいた。
「大きくなったなあって思ってたけど、そうやってると子供の頃のままね。お昼、用意したから、お客さん来る前に下で食べちゃいなさいな」
 静江は今でこそ多少余分な脂肪がついたが、昔はさぞ男好きのする美人だったと思わせる顔立ちだった。父とはどんな関係だったのだろう、母の顔を知らないリンは、子供の頃この人が自分の母親であってほしいと半ば本気で考えていた。

 
 リンの父、文月源蔵は大学で生物学の講師をしていた。
 1970年の夏、大阪で開催された万国博覧会に八歳だったリンを連れて観に行ったのだが、宿泊先のホテルで姿が見当たらなくなり、行方不明になったのではないかと騒ぎになった。
 リンは心当たりを尋ねられたが、うまく答えられなかった。八歳の子供には無理な相談だったのもあるが、大阪に来てからのリンの記憶自体がまるで高熱に浮かされて見た夢のように極めておぼろげだったためだ。

 だがリンには確信があった。父の行方不明の原因は自分にある。その曖昧な夢の記憶を大人たちに話したとしても理解してもらえないだろう。
 万博の警護に手一杯で失踪者探しどころではなかった大阪府警は通り一遍の捜査をした後で、結局当時流行中の蒸発だと結論付けた。

 わざわざ大阪まで迎えに来てくれた静江はリンを抱きしめながら言った。
「リンちゃん、可哀そうに。でも大丈夫。源蔵さんはきっと生きてるわ」
 以来、静江は母親のようにリンを育て、リンを大学まで行かせてくれた。

 
 あれ以来、幾度となく思い返してきたが、あの夢の記憶をうまく説明できそうになかった。

 真夏の扉

 さあ、扉が閉まる前に早くその子を連れて――

 父がいなくなったのは自分のせいだ、その思いはリンを苛み、あまり感情を表に出さない人間へと成長させた。
 一体あれは何だったんだ――

 静江が下に降りて、リンは服を着替えた。しばらくすると静江の「あら、お元気でした?」という華やいだ声が聞こえ、「リン、お客様よ」と未知が再び階下から声をかけた。

 

リンを知る訪問者

 リンが階段を降りると静江はカウンター越しに一人の紳士と話をしていた。紳士はぴんと伸びた背筋に丁寧に整えられた白髪、真夏だというのにぴしっと折り目のついたスーツを着こなした老人だった。
「ああ、来たわ」
 静江はリンを見て言った。
「中原さん、この子が文月凜太郎さんよ」
 中原と呼ばれた老人は洗練された仕草でカウンターのスツールから立ち上がり、リンに正対した。

「文月様、中原でございます。ご無沙汰しております」
 中原老人の言葉にリンは首を傾げた。
「あれ、どこかでお会いしましたっけ?」
「覚えてらっしゃらないのも無理はありません。文月様はお子様でしたから」

「リンちゃん」と静江が助け舟を出した。「中原さんはね、あたしの親友だった真由美の家の執事さんよ。今日はリンちゃんにお願いがあって来られたんですって」
「何でしょうか?」
「屋敷の警護、具体的に申し上げればお嬢様の沙耶香様の身をお守りして頂きたく参上致しました」
「どういう事でしょう?」
「屋敷の主、糸瀬が危険な組織に脅されております。昨夜、騒ぎが起こり、糸瀬は今朝早く一人で別の場所に身を隠しました。屋敷に残られたお嬢様の身辺を警護して頂きたいのです」

「何だか無責任な話ですね」
「状況を先に申し上げるべきでした。糸瀬は8月22日から24日までTホテルで開かれる予定の国際会議のホストで、最終日には重大な発表を控える身なのです。できれば事を荒立てたくない、ですから警察にも知らせず、このようにしてここにお願いに参った次第です」
「何で僕ですか?」

「責任がございます。お父様があのような目に……あの日以来、ずっとあなたの事を気にかけておりました。時には若林様にご様子をお伺いし、時には私自身の目で確かめ――あなたの先生にもお会いした事がございますのであなたの腕が確かだというのも存じ上げております」
「えっ、そんな事まで」
「ご安心下さい。他言するつもりはございません。如何でしょう。沙耶香お嬢様をお守り頂けないでしょうか?」
 リンはちらっとカウンターの中の静江を見た。話を聞いていたはずだが知らん振りをしてグラスを磨いていた。
「わかりました。場所はどこですか?」
「文京区のM町です。地図を置いておきますので夕方くらいにお越し下さい」

 中原が背筋を伸ばしたまま店を出ていき、リンはカウンターの静江を見た。
 静江は何も言わずにリンの顔を見上げ、にこりと笑った。
 こんな素敵な静江おばさんが自分の母親のはずがない、リンは今更ながらにそう思った。

 

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