目次
2 赤い雲
アレクサンダー
《巨大な星》のアンフィテアトル一帯は異常気象に見舞われた。
上空に浮かんだまま動かずにいたのは気象史において観測された事のない血のように赤い雲だった。夕焼けでもないのに空にぽっかりと浮かぶ不吉な赤い雲は何か良くない事が起こる前兆のようだった。
アレクサンダーはアンフィテアトルの中心にある連邦大学の自室で読書に勤しんでいて、外の騒ぎに気が付かなかった。
たとえ気付いたとしても彼の心がかき乱される事は少しもなかっただろう。彼の心は虚無感で満たされていたのだったから。
この世界を救うのが作為的な『全能の王』の再来であるはずがない。造られたリチャードには何の罪もなかったが、これからも自分が家庭教師として勤め上げられるか、自信を持てないでいた。
あんな邪悪な所業を認めてはいけなかった。やはり必要なのは『クグツ』だったのだ――
ため息をついて本を閉じ、顔を上げたアレクサンダーの目の前に、いつからそこにいたのだろう、真っ赤なローブを頭からすっぽりかぶった人間が立っていた。
「ずいぶんとお悩みのようね」
若い女性の声だった。アレクサンダーは恐る恐る尋ねた。
「何かご用ですか?」
「そうね。外を見てみるといいわ」
女が窓に近寄りカーテンを引き、窓を開けた。アレクサンダーが目にしたのは空に広がる赤い雲だった。
「これは?」
「あたしが連れてきた赤い雲。皆、不吉の前兆だと騒ぐけどその通りよ。これからこの世界はシニスターの闇に包まれるわ」
「あなたは、その、何をおっしゃっているのか?」
「アレクサンダー、あなたは猛烈な不満を持っているわね?」
女は質問に答えず逆に問いかけた。普段のアレクサンダーであればこのような非礼を厳しく諌めるのだが、何故かこの女には逆らえない気がして思わず口を開いた。
「あってはいけない行為です。命を弄ぶ愚かな者たちを止める事ができませんでした」
「だからあなたは命を持たない者に期待をする事にした」
「何故それを?」
「でもそれすらも頭の固い連邦の面々には理解してもらえそうにない」
「――その通りです」
「だったら連邦になど期待しなければいい。あなたの王国を造ればいいだけじゃないかしら」
「しかし私は『銀河の叡智』の再来を――」
「あら、あなたほど賢い男がまだ気付かないなんて。『銀河の叡智』なんて嘘っぱちよ。あれはただのArhatsの気まぐれ。ちょっとご褒美をあげただけじゃないの」
「そ、そんな――あなたはもしや?」
「誰かなんてどうでもいいのよ。とにかくご褒美の時間は終わり。明日からはシニスターがもたらす混乱がこの銀河を支配するの」
「私はどうすれば?」
「怒りを持ち続けなさい。シニスターはその時が来ればあなたを常人以上の存在に引き上げてくれるお薬のようなものよ」
「今すぐに、ではない?」
「いつ発現するかはあなた次第よ。明日かもしれないし、十年後かもしれない」
「何故、私だけ斯様な運命を背負わねばならないのでしょうか?」
「あなただけじゃないわ。安心なさい――さあ、質問ばっかりしないでちょっとの間、目をつぶって」
エテル
アンフィテアトルの郊外に建つ体育館のように天井の高い建物の中でエテルは空間構造モデルを確認していた。
赤いローブ姿の女性がいつの間にか背後に立ったのにも気付かず夢中になっていた。
「ずいぶんと熱心ね」
唐突に声をかけられて、ようやくエテルは訪問者の存在に気付いた。
「……あなたは?」
「誰でもいいじゃない。そんな事よりも外の様子は見た?」
「はて?」
エテルは女の言葉に軽く首を傾げてから建物の外に出てすぐに戻った。
「どうだった?」
「……赤い空だ。きっと貴女はあの空から産まれたのだろう」
「あら、天才建築家は詩人みたいな事言うのね。嫌いじゃないわ」
「そんな事よりも――そう言えばバンバはどこに行ったんだ?」
「あの巨人なら家で震えてるわよ。この空を見て昔味わった原初の恐怖を思い出したみたい」
「原初の恐怖?それは『八番目の世界』崩壊の意味か?」
「ちゃんと勉強してるのね」
「ああ、気に入らない男だったがデズモンド・ピアナは友人でもあった。彼から聞かされた」
「残念だわ。そのデズモンドとやらに会えないのが」
「それよりも今の状況を整理させて欲しい。貴女は何の目的でここに来た?」
「教えてあげるわ。あたしはあなたが選ばれた事を伝えにきたの」
「選ばれた?一体何に」
「あなた――現状に不満はないの?」
「不満などあるはずもない。私の作品は世に認められ、皆が天才建築家と褒め称えてくれる」
「なるほど、敢えて言うならば好きな女性に想いを打ち明けられず、その女性が他の男と結婚してしまった事くらいね」
「……な、何故それを」
「いいわ。そんなのは大した事じゃない――あなた、こう考えた事はない?あなたが最も情熱を傾ける研究を世間が認めなかったとしたら?」
「何を言い出すんだ。そんな事はありえない。この『転移装置』こそ『銀河の叡智』に匹敵するほどの世界を飛躍的に発展させる代物だ」
「でも事故が起こったじゃない?」
「――あれは事故ではない。科学では解明できない奇蹟だ。現にあの男は無事に暮らしている――」
「はいはい。じゃあ、あなたの研究が世間から拒絶された時のためにお薬打っときましょうね。少しだけ目を閉じて。そうそう」