目次
4 悲劇
翌日は三人とも勤務日だった。
朝、自分のラボの前を通り過ぎる大都の姿を認めた源蔵が素っ頓狂な声を上げた。
「おい、大都。どうしたんだ。その顔は?」
「ああ、源蔵か。おはよう。何、眠れなくてね」
「珍しい事もあるもんだな。あまり根を詰めない方がいいぞ。お前の研究は門外漢の私から見ても完成に近付いているのがわかる。焦ってもいい事はない」
「……それが研究の事ではないんだ」
「な……」
初めて見る大都の憔悴した様子にただならぬ物を感じた源蔵は大都を自分のラボに引き込んだ。
「一体何があったんだ?」
「それがね……」
「なるほど。そういう訳か」
「彼女の実家がそんな事になっているとは知らなかった」
「つい最近の事かな。静江さんに聞いてみるか」
「いや、源蔵、彼女は嘘を吐くような人ではない。私が今更どうこうできる訳でもないのも事実だ」
「我々は金には縁がないからな。で、そのナイトに心当たりは?」
「わからない。彼女も名前までは知らされていないらしい」
「うーむ。なあ、大都、今ちらっと私の心に浮かんだ事がわかるか?」
「ああ、大体予想は付く」
「だがそれは間違いだな。糸瀬も経済的には我々と似たようなもので他人を援助できるはずがない」
「その通りだ。私は一瞬でも友人を疑った自分を恥じた」
「なあ、源蔵。教えてくれないか。私は研究を完成させる事に邁進し、彼女もそれを願っていると思っていたのだが、それは自己満足に過ぎなかったのか」
「研究者の成功が経済的なものだけではないというのは普通だろう」
「……私のやっている事は研究ですらないのかもしれない。極端な言い方をすれば公開自殺だ。成功するという事は即ち皆の前から消える事なのだからな」
「思い詰めるな。今が一番大事な時じゃないか」
自分のラボに入った大都は惨状に息を呑んだ。
ちゃんと戸締りをして帰ったはずなのに外の木の葉が吹き込んで、ラボの中は落ち葉だらけだった。
「やれやれ、集中力の欠如だな」
箒と塵取を持ってラボの掃除をしていると声がかかった。
「どうしたんだ?」
声の主は糸瀬だった。
どことなく後ろめたく感じた大都はラボの状況を糸瀬に説明した。
「ならば掃除を手伝おう。私は床を掃く。その……装置の中はデリケートなんだろう、お前が掃除した方がいい」
糸瀬は大都の様子を盗み見しながらラボの掃除を開始した。
大都は制御盤に近い方の装置の掃除を終え、昨夜自分が細工をしたもう一基の装置の掃除に取りかかろうとしていた。
「――大都、こっちはほぼ終わりだ。何か手伝おうか?」
「ああ、悪いな。じゃあ倉庫からゴミ袋を取って来てくれないか。こんなに落ち葉が出るとは思わなかったよ」
「お安いご用だ」
糸瀬は大都がもう一基の装置の中に入ったのを見届け、ラボを出て行く振りをした。そして落ち葉に足を滑らせ、派手にバランスを崩した格好のままで制御盤の電源を入れた。
装置の中で大都が異変に気付き、声を上げた。
「おい、糸瀬。転んだのか。大丈夫か。電源が入ったようなんだ。切ってくれないか――」
その時だった。何も細工をしてないはずの制御盤に近い方の装置が突然に火花を上げた。火花は床に残っていた落ち葉に燃え移り、瞬く間に装置は炎に包まれた。
しまった、こんなはずではなかった。だがやるなら今しかない――糸瀬は夢中で”Send”のボタンを押すと、振り返る事なくラボから走り去った。
糸瀬は全速力で舎監の部屋の扉を叩いた。
「やったか」
「はい――ですがラボが、ラボが炎に」
「何!」
舎監と糸瀬は全速力で大都のラボに向かって走った。途中で舎監が立ち止まって糸瀬に言った。
「君は文月君を呼んで来なさい。火事は私がどうにかしよう」
糸瀬は言われるままに源蔵のラボに飛び込み、大都のラボから火が出た事を告げた。
二人が大都のラボに着いた時には見るも無残な光景が広がっていた。
火は収まっていたが、一基の転移装置は飴細工のような奇妙な形をして鎮座していた。
肩で息をする舎監が必死になってもう一基の装置を調べていた。
「――どうやら火は収まったようだが、須良君は?」
入ってきた二人に向けられた舎監の目付きはこの世の物とは思えぬ光を帯びていた。糸瀬は体が痺れ、汗びっしょりになりながら、装置の残骸を指差した。
「こ、この、この装置の中ではないでしょうか。多分装置がショートして火に包まれて……」
「ふむ、すると君は須良君がこの装置の中に入ったまま炎に焼かれた、そう言いたい訳だね?」
「え、ええ。大都はいつでも実験の前に装置を掃除していましたから――な、源蔵?」
「ああ、その通りだ。とすると大都はまだこの中に?」
「君たち」と舎監が落ち着いた声で言った。「すでに消防には連絡してある。現場検証も必要だし、ここは私に任せて外に出ていたまえ」
「しかし大都が――」
源蔵が大きな声を出し装置に向かって進もうとすると、舎監が糸瀬に目で合図をした。
「源蔵、私たちではどうにもできない。ここは言われる通りに」
そう言って糸瀬は源蔵を引き摺る様にして大都のラボを出ていった。
十分後に連絡を受けた消防の人間が大挙してやってきた。消防の人間と名乗っていたが、全身白い服を着て防護マスクのようなものを顔に付けた、消防にも警察にも見えない一団だった。
舎監は先頭に立っててきぱきと動いていた。
数時間後、ラボで待機していた糸瀬の下に舎監が顔を出した。
「あ、あの」
糸瀬は恐怖のあまり今にも泣き出しそうだった。
「65点、かろうじて及第点だ。一基を燃やしたのは誤算だったが、はなから君に満点は期待していなかった。約束通り、君の望む物を手に入れるがいい」
舎監はそれだけ言ってラボを出ていった。
翌日、寮の食堂で舎監が現場検証の結果を二人に伝えた。
心配のあまり一睡もできなかったのだろう、源蔵は目を真っ赤に腫らしていた。もちろん糸瀬も一睡もできなかったがそれは全く違う理由からだった。
「現場検証の結果だが」と舎監が言った。「須良君を発見する事はできなかった」
沈黙が訪れた。その沈黙を破ったのは源蔵だった。
「大都は、転移されたのではないでしょうか?」
「ん、それはどういう意味だい?」
「つまり無事な方の装置に入って”Send”状態になった。ところが”Receive”側の装置が火を噴いた――結果として帰る場所を失くしてしまったのではないでしょうか」
「――なるほど。研究の性質からして考えられない事ではないかもしれない」
「どうすれば大都は帰ってくるでしょうか?」
「私にそんな事を尋ねてもわかるはずがない――昨夜、プロジェクトの委員会から連絡が入った。プロジェクトは一旦中断、追って連絡があるだろう。二人とも自宅に戻るがいい。自宅がない者には委員会から援助が出るので、家が決まるまでホテルを使ってくれたまえ。では各自荷物をまとめて、明日中にこの研究所から退出してくれたまえ」
荷物をまとめ終わった源蔵が糸瀬の部屋に入ってきた。源蔵は一層憔悴していた。
「なあ、糸瀬。大都は死んでしまったのかな」
「……さあ、だがお前の言う通りだとしたら現代の科学ではどうにもならない。そう考えるしかないじゃないか」
「大都は身寄りがないんだよなあ。せめて私たちで葬式をあげてやらないか?」
「ああ、私もそう思っていた。あまりにも大都が不憫だ」
「二人だけの参列者か」
「……どうせなら真由美さんと静江さんも呼ぼう。お前から連絡してくれないか」
「わかった」
源蔵から連絡を受けた静江が奔走して葬儀の日取りが決まった。
冷たい冬の雨の降る日、都内のホテルを出た源蔵と糸瀬は葬儀場に向かった。
葬儀場にはすでに鎮痛な面持ちの静江と、静江に支えられるようにしてかろうじて立っている真由美の姿があった。
四人はあまり言葉を交わす事もなく、ただすすり泣きながら、遺体のない葬儀を終えた。
お清めの場所として静江が予約した料理屋に入っても会話は弾まなかった。
何かが終わった、まだ源蔵と交際と言えるような形に発展していなかった静江は漠然とそんな考えに至った。
この人たちと会う事は二度とない、源蔵はしばらく戻っていない故郷の岩手、大都の言っていた『桃源郷』のある山に行こうと考えていた。
大都は約束より早く行ってしまった、しかもあんな別れ方をしたままで。これからはお腹の中の子だけが生きがいだった。しっかりしなくては――でもこの心にぽっかりと空いた穴を埋める事ができるだろうか、真由美は悲しみの後に訪れるであろう虚無感をうっすらと予感した。
唯一、糸瀬だけが違う事に思いを巡らせていた。賽は投げられたのだ。これから自分は藪小路了三郎の庇護の下で名声を得て、そして同時に真由美という女性も手に入れる。
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