5.5. Story 2 悪魔が囁く時

3 陥穽

 

舎監の正体

 十一月も半ばのある日、糸瀬は舎監に呼び出された。
 舎監はにこにこしながら糸瀬にお茶を出した。
「糸瀬君、なかなか素晴らしい成果を上げているようじゃないか」
 舎監の言葉に糸瀬は心の中で「何もわからないくせに偉そうに」と呟きながら、愛想笑いを返した。
「ところで君も都市工学を研究する身であれば藪小路了三郎の名前くらいは聞いた事があるだろうね?」
 糸瀬は「おやっ、この男何を言い出すんだ」と思ったが、「ええ、もちろんです」と答えた。
「実はね、ここだけの話だが藪小路了三郎が君の研究をいたく気に入ったようでね――」
「すみません。お言葉を返すようですが藪小路博士はすでに現役ではないでしょう」
「なるほど、確かに震災の復興院で名を挙げたのが今の君よりも上の年齢、であれば昭和三十五年の現在となればとうに八十を越える年齢となるね」
「――というよりも安否不明ではありませんでしたか?」
「いや、生きておられるよ。それにまだまだ現役だ。だからこそ君の研究に対する褒め言葉を私に伝えたのだよ」
「はあ」
「信用していないようだね。まあ、いい。今後も精進してほしいとの事だった。いずれ直接会って話す機会もあるだろう」
 舎監の話はそれで終わった。

 研究室に戻った糸瀬だったがどうにも釈然としなかった。
「あの舎監、私に何を伝えたかったのだろう?それにあの声、あんなに人をいらつかせる声をしていただろうか?」
 糸瀬はそれ以来、以前にも増して舎監の行動を注意深く観察するようになった。
 そして決定的な出来事に遭遇した。

 
 その日、糸瀬は休暇だった。真由美に会いたかったが連絡が取れなかった。最近どうも避けられている気がした。仕方なく研究所の敷地内をぶらぶら散歩していると舎監が門の所に立っているのが見えた。
 タクシーを待っているに違いない、そう考えた糸瀬は舎監を尾行する事にした。何食わぬ顔で研究所を出て、門の所にいた舎監に挨拶をしてからしばらく歩くと、おあつらえ向きに空車のタクシーが角を曲がってきた。
 糸瀬はタクシーを呼び止め、運転手に「もうすぐ別のタクシーがここを通るはずなのでその後をつけて欲しい」と頼み、道の脇で待機した。
 しばらくして一台の黒塗りの高級車がタクシーの後部座席に隠れるようにしていた糸瀬の横を通り過ぎた。何気なく車内を覗いた糸瀬は後部座席に舎監の横顔を発見して驚愕した。
「運転手さん、タクシーじゃなく今の車だ。あの後をつけてくれ」

 
 何が起こったか理解できないまま、糸瀬の追跡劇が始まった。車はN区のはずれから「オリンピック道路」と呼ばれる工事中の環状八号線を横目に新宿に向かって走り、新宿の近くで停車した。舎監が車を降りるのを見届けた糸瀬も少し離れた場所でタクシーを降りた。大陸で生まれ育った糸瀬には不案内な場所だったが、どうやら高田馬場の近くのようだった。
 電柱に身を隠し様子を覗っていた糸瀬は、舎監が一軒の立派な屋敷の門をくぐるのを確認した。
 糸瀬は冬も近いというのに吹き出る汗を拭いながら探偵の真似事を続けた。屋敷の前まで行き、「村雲」という大きな表札を確認した。
「村雲……ここは政治家村雲仁助の屋敷に違いない。だが舎監が何故?」

 
 考え込む糸瀬の目の前で突然に門が開き、中から警備の人間らしき体格の良い五分刈りの男が現れて糸瀬を睨み付けた。
「ひっ、私は怪しい者ではありません」
 男はにやりと笑って、思いのほか優しい声で答えた。
「存じ上げてますよ。糸瀬優さん、先生をつけてここまで来られたのでしょう。今、先生から『丁重に扱うように』と指令を頂戴しました」
「せ、先生……一体誰が先生なんですか?この屋敷は村雲仁助の――」
「糸瀬さん、それを知れば後戻りは出来なくなりますよ。それでも構わないなら中にお入りなさい」
「……いえ、結構です。私はこれで失礼させて頂きます」
「おや、聞いていた通りの度胸のない方だ――いいでしょう。腹を括ったらまた訪ねていらっしゃい。だが今日の事は他言無用です。もしも研究所の仲間に漏らすような事があれば、あなたは研究に行き詰った末、荒川の河川敷で焼身自殺。そうなりたくはありませんよね?」
「無論です。では失礼します」
 糸瀬は後ろを振り返る事なく、大通りに向かって一目散に走り出した。

 
 気持ちを落ち着けようと新宿の繁華街を彷徨い、研究所に戻ったのは夜だった。入口で舎監と顔を合わせるのが何よりも恐ろしかったが、その姿はなかった。
 食堂で一人の遅い夕食を済ませると大都と源蔵が揃って姿を現した。
 糸瀬はこの仲間たちに今日の出来事を伝えるべきかどうか迷った。村雲の屋敷の男は脅しをかけたがこちらには大都がいる。あの海で見せた人間離れした力を持ってすればこの窮地を救ってくれるのではないか――

 
 先に口を開いたのは源蔵だった。
「糸瀬、今日はどこ行ってたんだ?」
「……いや、一人で新宿の町をぶらぶらとね。淀橋浄水場の跡地にどのような都市を造るべきかを考えていたんだ。なあ、源蔵――」
「なるほど。休みなのに熱心だな」と源蔵は言って大都の脇腹を突いた。「やっぱり大都、お前が言え」
 源蔵に促されて大都が話し出した。
「実は糸瀬、君に話しておかなければならない事がある」
「ん、何だ?」
「私は佐倉真由美さんと結婚しようと思う」
「……、……えっ、本当か……それはめでたいじゃないか」
「糸瀬、祝福してくれるのか?」
「当り前じゃないか。これほどめでたい事はない。いや、良かった良かった」
「ありがとう。ところで何か言おうとしたんじゃないのか?」
「ん、いや、何もない。しかし大都はすごいな。研究も順調だし、素敵な女性まで手に入れた。やはり素材が違うな」
「そんな事はないよ。私はただの変わり者だ」
「で、お前、挙式はいつだ。先方は厳しい家だろう?」
「籍だけはできるだけ早くに入れようと思う。このまま順調に研究が進んで私がこの星を飛び出してしまう前にな」
「大都、お前には本当に驚かされるな。いつの間にそんな仲になったんだ?」
「海から帰ってしばらくしてだ」
「あちらの家に挨拶は?」
「何度かお邪魔はしているが正式にはまだ」
「だめだぞ。そういう事は早くしなきゃ。私にできる事があったら何でもするからな。すぐに言えよ――じゃあ淀橋の件のまとめをするんでこれで」

 糸瀬はそそくさと食堂を出て行き、残った大都と源蔵は話を続けた。
「大都、良かったなあ。静江さんは糸瀬が心配だと言っていたが何の事はない、ああやって祝福してくれたしな」
「ああ、持つべき物は友だ」

 
 糸瀬は自分の部屋に戻らず、寮の外に出た。ぼんやりとした街灯の下を歩いて舎監のいる部屋の扉をノックした。
 扉の向こうから声が返ってきた。
「やあ、糸瀬君。来たね」
「何故、私だと?」と扉を開けて糸瀬が言った。
「上がりたまえ。君が来るのはわかっていた。どうやらその気になったね」
「その気?その気とは何ですか。私はただ、あなたが誰かを知りたくてここに来ただけです」
「嘘をついてもだめだよ、糸瀬君。君は今、非常に失望している。そして私を頼りにここにやってきた。何故なら私の正体に大体気付いているからだ」
「ではやはりあなたは……?」
「昼間も警告されただろう。まずは君が腹を括るのが先だ」
「腹を括る?」
「君は失望と同時に猛烈に嫉妬している。華やかな未来を約束するであろう研究と妙齢の女性、その両方を独り占めしてしまう才能にね。それが自分の物であったら、そう思っているのではないかね?」
「確かにそうですが、所詮は畑違い、私に彼の研究を理解する事など無理です」
「果たしてそうかな。ここの研究は全て極秘、我々以外に知る者などいないのだよ。責任者の気持ち一つでどうにでもなる」
「おっしゃっている意味が……」
「私は君に期待をしているんだ。この数か月、観察を続けてそれを確信した。君を選んだ私の目に狂いはなかった」
「で、ですが私の研究など大都のものに比べれば……」
「その通りだ。須良大都の研究こそ私が長年探し求めてきた物だ」
「でしたら私などを介さずあいつに直接おっしゃればいいではありませんか?」

 
「なあ、糸瀬君。人には不思議な因縁というものがあってね、須良君は私の正体を知れば成果を渡そうとはしない」
「先生と大都の間には何があるのですか?」
「君に話した所でわからないだろうが、私には敵ともいうべき腐れ縁の人物が三人いる。須良君はその内の二人と昵懇、つまり彼と私は相入れない運命だ。だが私はどうしても彼の研究を手に入れたい」
「何故、先生は『転移装置』にそこまで執着されるのですか?」
「転移装置こそ私に欠けている力、私が千年越しで追い求める物。それがあれば私の積年の野望は実現に大きく近付くのだよ。ところが人生とは皮肉じゃないか。その鍵を握る須良君は私の存在を良しとしない者たちにより育てられた。『はい、そうですか』と言って研究成果を渡してくれる可能性は万に一つもない訳さ――ははは、今の話、ちっとも理解できないだろうね」
「いえ、源蔵からの又聞きですが、大都は三人の父によって育てられたと。先生が敵対される三人とは大都の三人の父ですか?」
「ふむ、当たらずとも遠からじだ――とにかく君の協力が不可欠だ」

 
「何故、源蔵ではなく私なのですか?」
「文月君は須良君とは違う意味で世間を超越している。彼は貧しかろうが、好きな女性を奪われようが、そんな事は一切気にかけないタイプで、こちらから提示できるエサはない――だが君は違う。三人の中で一番社会に適応している、言い換えれば俗物だ。俗物だからこそ、嫉妬をし、力を求める。違うかね?」
「それであれば友人の私ではなく、見ず知らずの誰かで良いではありませんか?」
「もちろんそれも考えた。私の部下の優秀な者に須良君の研究を引き継がせればいいだけの事だからね。だが考えてもみたまえ。遠回りをしてプロジェクトを立ち上げた私の労力を。須良君の研究成果を手に入れるために、彼の友人になり、彼を裏切る事ができる君をあてがい、更にバランスを取るために人畜無害な文月君まで探し出した私の努力を」
「……あなたはいかれている」
「最高の褒め言葉だね。もっと言いたまえ。永遠の命を持った悪魔と」

 もうこれ以上は耐えられない、人を不安にさせるこの声を聞きたくない、そう思って糸瀬は部屋を出ていこうとしたが足が動かなかった。
「お茶でも飲むかね。ふふふ、足が動くまい。『神速足枷』を軽くかけただけだから安心したまえ」

 
 舎監、いや、目の前の得体の知れない悪魔は茶を啜りながら楽しそうに続けた。
「ここから本題だ。須良君の研究はほぼ完成に近付いた。本来はもう少し待つべきだがそうも言っていられなくてね。どうして急ぐかわかるかな」
「二人が結婚を決めたからですか?」
「それだけではない。あの二人の間にはすでに子供が生まれようとしている。そうなれば君の気持ちは完全にへし折られてしまう。そうなる前に仕事を終えたいからさ」

「そんな……私に何をさせるおつもりですか?」
「君の失望を取り除くための最大の障害は須良君だ。彼を排除すれば君は彼の研究と美しいご婦人を手にする事ができる。君は彼の研究を引き継ぎ、私に渡してくれればいい」
「そんな……大都の研究を引き継ぐのは無理です」
「何十年かかっても構わんよ。私の千年の想いに比べれば一瞬だ」
「須良を排除するとは?」
「簡単な事だよ。須良君の研究しているのは転移装置だ。確かあれは送信と受信が必ず対になっていなければならないのだよね。当り前の話だ。だがもしも送信だけが行われて受信側の電源が切れていたとしたら?」
「……どうなるのでしょうか?」
「それがわかっていたら苦労せんよ。どこかに行ったきりになってしまうのは間違いないだろうがね――どうだね、須良君を装置に乗せ、電源を入れ、送信する瞬間に受信側の電源を落すだけ。簡単だろう」
「あなたは……」
「あまりのんびりもしていられないがいつ決行するかは君の自由だ。決行後に私に連絡してくれればいい」

「一つだけ質問があります。残った文月はどうなりますか?」
「彼を気にする必要はない。至極平和な小動物で良かったよ」
 そう言って舎監は大笑いをした。

 

悪魔の計画

 大都が休みで外出した隙に糸瀬は大都のラボに忍び込んだ。卒塔婆のような二基の装置が部屋の中央に鎮座していた。
 糸瀬はゆっくりと制御盤に近付き、電源を入れた。赤い色の”Send”と書かれたボタンと青い色の”Receive”のボタンが点灯した。
 一基の装置の電源コードをそっと引っ張った。少し力を入れて引っ張るとコードがコンセントからはずれたが、次の瞬間、制御盤の二つのボタンが同時に光を失い、装置が二基とも動かなくなるのがわかった。
「当たり前だ。一基だけが動く危険な状態を大都が想定しないはずがない」
 糸瀬は尚も装置の周りを観察し、上唇を舌で舐めた。
「荒っぽいやり方だが仕方ない。電源を入れたなら片方の装置だけをショートさせるように仕掛けを施そう。火事にはならんだろう」

 
 次の日、糸瀬は再び大都のラボに立ち寄った。大都は実験用のウサギを前にして結果をノートに記していた。
「やあ、大都。そろそろ人間で実験かい?」
「今、ウサギの転移の結果をまとめているんだ。これが完璧ならば、次はもう少し大きな生き物、そうだなあ、豚あたりを転移させてみて、その次が人間だね」
「ふーん、順調だな。何か手伝う事はあるかい?」
「いや、しばらくは実験結果をまとめるだけさ。装置は動かさないよ」

 糸瀬は落胆した。もしかすると自分が畜生道に墜ちるのを止めるように神が警告しているのかもしれないと思った。
 決心が鈍った。だが自分はやらねばならない。成功者になり、名声と女、その両方を手にするのは自分であるべきなのだ。

 
 思い悩んだ糸瀬は再び舎監の下を訪れた。
「まだ決心がつかないかね。そんな事では桁外れの胆力を持つ須良君の相手は務まらんな」
「やはり私には無理です」
「だったら彼の集中力を乱せばいい」
「あいつは超人です。どうやって?」
「須良君のお相手の女性に子供ができた事実はほとんどの人間がまだ知らない。彼女を診察した医師から私が聞き、それを君に伝えただけで、もう一方の当事者の須良君ですら知らされていない。これを利用すればいい」

「はあ」
「ふふふ、こういう事に頭が回らないようだね。彼女がひた隠しにするその事実を伝えにご母堂の下に大手を振って乗り込めばいいだけじゃないか」
「それだけですか?」
「君がやるべき事はね。何、私も人肌脱がせてもらうよ。彼女の家の生計は何によって成り立っているのだね?」
「確か、父親が某大手鉄鋼会社の社長で、母親は二号さんのような形でその人物から援助を受けているのではないかと」
「なるほど。大体見当はつく。ならばその男が援助できなくなればますます都合がいいな。君はさしずめナイトのように経済的援助を餌にご母堂を釣ればよい」
「しかし私にそんな金銭的な余裕はありません」
「ふふふ、金ならばいくらでも貸してあげるよ。心配しなくていい。君はとにかくご母堂に取り入る事だ」

 
 数週間後、秘かに借りているアパートに大都が向かうと、先に到着していた真由美が電気も点けずに部屋でぼんやりと座っていた。
「どうしたんだい、真由美さん」
 真由美は大都の声に我に返って立ち上がった。
「大都さん、お帰りなさい。ご飯の用意していないの」
「そんなの気にする事はないよ。後でラーメン屋にでも行こう」
「……」
「本当にどうしたんだい。おかしいぞ」

「大都さん、母が私たちの交際を聞き付けたようで猛反対しています」
「仕方ないよ。時間をかけてわかってもらうしかない……私にはそんなに時間が残されていないが」
「それだけではありません。母が縁談を持ってきて、その話を受ければ経済的な援助を約束するって」
「経済的な援助。どういう事だい?」
「実は……」

 
「……という話です」
「それは困ったね。籠の鳥状態の私にできる事は限られているけれども――」
「大都さん、いいんです。今日はお別れを言いに来ました。私がいるとあなたは羽をもがれた鳥。どうか私の事は忘れて下さい」
「何を言い出すんだ。前にも言った通り、落ち着いて一緒に考えよう」
「あなたは間もなくこの水平線上には存在しなくなる方。今更、何ができますか」
「……」

「家を、母を助けるために縁談を受けます。もうお会いする事もないでしょうが、どうかご健勝で……さようなら」

 

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