5.5. Story 1 悪の細動

2 運命の出会い

 七月の末に三人は揃って千倉の海水浴場に出かけた。
 土用波が来る前の最後の混雑で海岸はごった返していた。
 そんな中にあって大都の姿は目を引いた。まず体格が良い上に、水泳の腕前が抜群だった。
 大都が海から陸に上がると男女を問わず大都を指差してひそひそ話が始まった。
 源蔵と糸瀬はそんな大都の姿を砂浜から見ていた。
「しかし大都は凄いな。私はこれでも『東都のトビウオ』と呼ばれた事もあるんだが、とても敵わない。オリンピックにでも出ればいいのにな」と糸瀬が言った。
「いや、天が二物を与える事があるんだね」と源蔵も答えた。
「さて、大都が上がってきたから私もちょっと水浴びに行こうか。源蔵はどうする?」
「実は泳げないんだ――」

 
「さ、荷物の見張りは交替だ。君たちも泳いでおいでよ」
 海から戻った大都が言った。
「大都。相談があるんだが」と糸瀬が源蔵の件を話した。
「何だ、そうなのか――だったら練習をしよう。そうだなあ、浅瀬は子供ばかりで照れくさいだろう。人があまりいない場所を探そうじゃないか」
 大都はそう言うとバスタオルを首に巻いて、ずんずんと歩き出した。

 
「この辺でどうかな」
 大都が海水浴場から少し離れた岩場で言った。岩場は水たまりのようになっており、誰にも邪魔されずに水泳の練習ができそうだった。
「ああ、ここはいいね。色々な生き物の生態を見る事ができる」
 源蔵が嬉しそうに言った。
「まあまあ、源蔵の生物講義は後。まずは水泳の練習だ」
 糸瀬が言ったその時、大きな岩の裏手から「止めて下さい。人を呼びますよ」という女性の声が聞こえた。

「ん、今のは?」
「どうやら只事じゃないな。行ってみよう」と大都が言って、岩の裏手にそろそろと忍び寄った。
 そこでは六人の派手なシャツを着た若者たちが二人の女性を取り囲んでいた。
「へへへ、大声出したって誰も来やしねえ。おれたちゃ東京から来たお嬢さんたちとお話したいだけだよ」と一人の若者がへらへら笑いながら言った。
「それだったら、人がたくさんいる方に行きましょうよ」
 二人連れの女性のうち、緑のワンピースを着たきりっとした眉毛の方が言葉を返した。もう一人の抜けるような色白の肌の白いワンピースに麦わら帽子をかぶった大人しそうな女性は何も言わずに俯いていた。
「そういう訳にゃいかねえんだよな」
 もう一人の男も嫌らしく笑って言った。

「おい、助けるぞ」と大都がこの様子を見て言った。「君たちは私の合図で二人の女性を安全な場所まで連れて行ってくれ。後はどうにかするから」
 大都は二人の返事も待たずに若者たちの背後に躍り出た。男たちは一斉に振り返った。
「君たち、しつこいのは嫌われるぞ」
「あ、何だと。痛い目に遭いたくなけりゃすっこんでやがれ」
「言っても無駄か。だったら少しきついお仕置きが必要だな」
 大都はそう言って息を大きく吸ってから静かに吐いた。すると若者たちは突然に重い荷物でも背負ったような苦しそうな表情を浮かべた。
「源蔵、糸瀬、今の内にお嬢さんたちを」
 大都の言葉に我に返った源蔵たちは訳がわからないまま、動けない若者たちを避けて二人の女性の手を取って走り出した。
「大都、警察を呼ぶか」
 去り際に源蔵が言うと、大都は一つウインクをして首を横に振った。

 
 源蔵たち四人は人でごった返す海水浴場に戻った。
 五分ほどで大都もタオルを首から下げた姿で四人の下に戻った。
「大都、大丈夫だったか?」と言う糸瀬の声は少し震えていた。
「ああ、心配ないよ。お引き取り願った――一体どうされたんですか?」
 大都の質問に緑のワンピースの女性が答えた。
「あたしがいけなかったんです。海の生物が見たいって言って、この子を連れて人気のない方に行ったら、あの男の人たちが後をつけていたらしくて――」
「海の生物――源蔵と同じ趣味の人がいるんだね。いや、失敬」と大都が源蔵を見て笑った。
「本当にあいつら、仕返しには来ないだろうね?」
 糸瀬はまだ不安そうな表情だった。
「ああ、大丈夫なはずだけど、もし心配ならば彼女らを送りがてら、私たちも引き上げるとしよう」
「そうだな、それがいい――お嬢さんたち、失礼ですがお泊りはどちらですか?」と糸瀬が紳士っぽく対応をした。
「ここからバス停に向かう途中の道を入った所の突き当りの洋館です。友人たちも心配しているから早く帰らないと」と緑色のワンピースの女性が答えた。
「では帰りましょう」
 大都は何もしゃべらない白いワンピースの女性に向かって微笑んだ。

 
「わあ、こりゃあ素敵なお屋敷だ」と糸瀬が上ずった声を上げた。
「とりあえずお礼がしたいんですけど、まず冷たい麦茶でも飲んでいって下さい」
 緑色のワンピースの女性の勧めるままに三人は白く塗られた洋館の中に入った。
 すぐに心配そうな表情の若い女性が四名、ぺちゃくちゃと何かを言いながら姿を現した。
「もう静江ったら。なかなか帰ってこないから心配しちゃったわ」
「ごめんなさいね」と緑色のワンピースの女性が答えた。
「あら、そちらの殿方は?」
「うん、実は色々あって……ちょっと上がって頂いてもいいでしょ?」

 
 大都たち三人は洋間に通され、ソファに並んで腰掛けた。
 静江ともう一人の白いワンピースの女性が対面に座り、留守番の一人が麦茶を出してから五人を遠巻きにする女性の群れに加わった。
「本当に何とお礼を言っていいのか、ありがとうございました。あたしたち、S女子大の三年生です。あたしは若林静江と言います」
「佐倉真由美です」
 初めて白いワンピースの女性が口を開いた。
「あたしたち、合唱部の友達六人でここの別荘に遊びに来ているんです。で、さっきも言った通り、あたしが『海の生き物が見たい』ってわがまま言って真由美を連れ出して――」
「いや、その話はもういいでしょう」と糸瀬が静江を遮った。「私たちも怪しい人間ではないのを示しておいた方がいい。私の名は糸瀬優、M大学を卒業して、先日まで都市デザイン計画に参加していましたが、現在は別の研究に従事しています」
 源蔵は「そんな事まで話すのか」と驚いて眼鏡の奥の目をしばたたかせた。
「……文月源蔵です。K大学の大学院に通っています」

 最後が大都の番だった。ここにやって来た時から留守番の女性たちは大都を映画スターでも見るような目つきで熱っぽく見つめていた。
「須良大都です。東京大学の――」
 遠巻きにしていた女性の一人が小さな声で「きゃっ」と叫んだので大都は一旦言葉を止めた。
「失礼。東京大学を卒業して今は研究室で働いています」
「まあ、皆さん、学者さんなんですねえ」と静江が感心したように言った。
「いや、芽が出るかどうかなんてわかりませんよ、なあ」と糸瀬が源蔵に同意を求めた。
 源蔵が答えに困っていると大都が助け舟を出した。
「さあ、喉も潤ったし、そろそろお暇しようじゃないか」
 大都がそう言うと静江が困ったような表情になった。
「でも何のお礼もさせて頂いてないし――」

 すると真由美が鈴を転がすような声で言った。
「こうしませんこと。今日は何の準備もできませんから、明日又、お越し頂いてお夕食を食べて頂くのは?」
「真由美、それは名案ね。ね、あなたたち、明日もここにいらっしゃるんでしょ?」
「ええ、もう二、三日はいる予定ですが」と糸瀬が答えた。
「だったらもう一つ厚かましいお願いがあるんですけどいいかしら。あたしたち、せっかく海に来たのに一度も海水浴に出ていないんです。殿方の前で水着になるのも恥ずかしいし、行ったら行ったで今日みたいな事があったらうんざりでしょう。でもしっかりした男の方が一緒にいらっしゃれば、その、少し、大胆になってもいいかしらって思うんです」
 静江の提案に遠巻きの女性たちから歓声と拍手が沸き起こり、真由美もにこにこと笑った。
「そりゃあ、構いませんが、私たちなんかでいいんですか?」
「ええ、もちろんです。じゃあこうしましょう。私たち、早朝に合唱の練習をいたしますので、その後に迎えに来て下さいませんか。午前中は海に行って、午後から夕食の買い出しや準備をしますから」

 
 翌朝、8時過ぎに約束通り、大都たちは別荘に到着した。
 もしかすると、と期待していた合唱の歌声は聞こえなかった。
 糸瀬が呼び鈴を鳴らし、すぐに静江が顔を出した。
「ああ、良かった。来て下さったのね。冷たい麦茶なら用意しましたから――それじゃあ、海水浴場にレッツゴー!」

 朝早い時間のため、さほど混んでいない海水浴場の一角のできるだけ目立たない場所に九人の若い男女は陣取り、銘々に大判のタオルを砂浜の上に置いた。
 男性三人はすぐにシャツを脱いで水泳パンツ姿になったが女性陣は動こうとしなかった。気まずい沈黙を打ち破るように静江が元気な声を上げた。
「さ、せっかく来たんだから水着になりましょうよ」
「あ、ああ、それがいいよ。ここにいる大都はジョニー・ワイズミュラーにも負けない水泳の名手さ。泳ぎを教えてもらうといい」と糸瀬も殊更陽気な声を上げた。
 女性たちは「えっ、それ誰ですか?」と言いながら思い切ってワンピースやブラウスの下にあらかじめ着込んでいた水着姿になった。
 唯一人、真由美だけは水着にならず、麦わら帽子をかぶった上、日傘まで差してタオルの上に座ってにこにこ笑っていた。

「さて、では推薦されたので泳ぎたい人は手を挙げて下さい」
 大都がそう言うと静江と真由美以外の四名が一斉に手を挙げた。大都はにこりと笑ってから「では準備体操を始めましょう」と言って率先して手足を動かし始めた。
 十分体を伸ばすと「それでは行きましょう」と大都が言って海に向かって走り出し、四人の女性はアヒルの子供のようにその後をついていった。

 浜辺には糸瀬と源蔵、それに静江と真由美の四人だけが残った。
 静江が源蔵に話しかけた。
「ねえ、文月さん。浅瀬に珍しい生き物いるかしら?」
「ええ、昨日のような岩場でしたら、きっとうじゃうじゃいますよ」
「じゃあ行ってみましょうよ。帰ってから泳げばいいでしょ」
 源蔵と静江は連れ立って、昨日不良たちにからまれた岩場に向かった。

 残ったのは糸瀬と真由美の二人だけだった。
「糸瀬様は泳がれないのですか?」と真由美が尋ねた。つばの広い帽子をかぶっている上に日傘を差していたので、顔の表情は陰になってよくわからなかった。
「いいんです。須良の泳ぎを見ていたいし荷物の番もせにゃならんですから。佐倉さんこそ泳がないんですか?」
「ええ、私はいいんです。あまり体の調子が良くなくて」
「……それは失礼しました。でもつまらなくありませんか?」
「いえ、それこそ糸瀬様と同じで皆さんが泳いでいる様子を見るだけで十分です――ほら、須良様のあの抜き手、まるで水の神様に愛されているようですわ」
 真由美が指差す先では大都が軽快に泳ぎ、女性たちはその姿をうっとりと目で追っていた。
「あいつはそういう男です。何をやらせても抜群で、それなのに嫌味がない」
「うふふ。お三人、とても仲が良さそうですわね」

 
 三十分ほどで大都が女性たちを連れて戻った。
「糸瀬、源蔵は?」
 大都が濡れた髪の毛をタオルで拭きながら尋ねた。
「若林さんと昨日の岩場に行った。どうしても海の生き物が見たいそうだ」
「ははっ、懲りないな――ところでお前や佐倉さんは泳がないのか?」
 真由美は首を横に振ったらしく、日傘が小さく左右に動いた。
「ああ、お前を見てたらどうでも良くなった」と糸瀬が答えた。
「そうか」と大都はタオルを砂の上に置いてそこに座った。続いて四人の女性が大都を取り囲むように場所を取ったので大都は居心地が悪そうな顔になり、すぐに立ち上がった。
「何か冷たいものを買ってこよう。いち、にい……源蔵たちはいないから七人分でいいな。一回で運べるかな」
 すかさず「あたしも」と言って付いてこようとした女性たちを優しく制して、大都は一人で歩き出した。

 
 大都たちが陣取った海水浴場の端から海の家までは大分距離があった。大都は一人で歩きながら考え事をした。

 ――女性の騒がしさが苦手だ。物心ついてからずっと男手で育てられてきたから免疫ができていない。母を早くに失くし、健人、デズモンド、そして伝右衛門……いや、伝右衛門さんの家にはお千代さんという可愛らしいおかみさんがいたな。
 あまり体の強くない女性だったけど優しい人だった。いつでも日本髪をきっちりと結っていて和服がよく似合った――ああ、そうか。佐倉真由美さんを見て誰かに似てると思っていたが、お千代さんだったんだ。

 中学卒業と同時に門前仲町の家を出たからその後お千代さんに会う事はなかった。高二の時にお千代さんが亡くなったと連絡を受けた。あんなに素敵で優しい人がどうして死ななくてはならないのか納得がいかなかった
 伝右衛門さんはその後ずっと独身でいたが昨年、若い奥さんをもらったと聞いた。
 伝右衛門さん、久々に会いに行こうかな――

 
 気が付けば海の家の前に来ていた。トタン板の看板に白いペンキで「JAKE」と書いてあった。
「ジェイク、変な名前だな。それとも広島弁かな」
 大都は店先に誰もいないのに気付いて、畳敷きの小上がりの所まで入って人を呼んだ。
 しばらくすると「はあい」と言う声がして若者が現れたが、小上がりに腰掛ける大都の後ろ姿を見て「げっ」と言って走って奥に引っ込んだ。
 すると次に店の主人らしい禿げ上がった男が現れた。
 男は心配そうにきょろきょろと周囲を見回しながら大都に話しかけた。

「へい、何のご用でしょう」
「ああ、来た来た。冷たい飲み物、ジュースか何かを欲しいんですけど」
「ジュースですか……お客さんみたいな若い方だとやっぱりコカ・コーラかな。ファンタなんかもありますけどね」
「あまり甘くないのがいいんですけど」
「プラッシーなんてどうです?」
「ああ、いいですねえ。七本欲しいんですけど」
「えっ、七本ですか……困ったな」
「困った」と言いながら、主人は一向に動こうとせず店の外の様子を覗っていた。大都は「何かあるな」と勘付き、しばらくその場の流れに任せる事にした。
「じゃあラムネでいいですよ」
「ああ、ラムネね。それなら――」
 主人がのろのろと奥に行きかけた時、大都は背後から声をかけられた。
「ふぅ、間に合ったぜ――よぉ、あんちゃん。ちょっと用があんだけどな」

 
 大都がゆっくり振り返るとそこには先ほど店先に顔を出した若者とぺらぺらの麻のスーツを着た男が立っていた。
「ここじゃあ何だ。ちょっくら裏へ回ってくんねえか」
 麻のスーツの男の言葉に従って海の家の裏手に回ると、ラジオ体操でもやるような小さな広場になっていた。広場の向こうは防風林になっていて木々の間を砂利道がまっすぐに国道まで続いていた。国道の方から一台の黒塗りの車が砂利道をゆっくりとこちらに近付いていた。

「昨日はうちのシマでずいぶんと派手な事してくれたみてえじゃねえか」
 麻のスーツの男が言った。男の周りには五、六人の若者が付き添っており、昨日大都にやっつけられた若者たちだった。
「こいつはどうも腕の骨が折れたみてえなんだよな」
 麻のスーツの男は一人の若者を指差して言ったが、そんなはずはなかった。
 大都は若者たちの周囲の重力を変えて動けなくしてから、一人一人手刀で急所を軽く叩いて失神させただけだった。

 大都が何も言わず黙っていると、黒塗りの車が防風林の切れ目で停車して男が降りるのが見えた。
 麻のスーツの男は降りた男の下に走り寄り、何かを囁いた。
 茶色のトンボ眼鏡のようなサングラスをかけた開襟シャツ姿の男は大都の顔を睨み付けてから「あっ」という声を出した。
 その声に驚いた大都も男を見て口を開いた。

「何だ、ジェイクじゃないか――そうか。君は千葉の生まれだって言ってたよな」
「だだだだ、大都の兄貴じゃねえすか」
 男は早口で言った後、精一杯の威厳を取り戻して麻のスーツの男と取り巻きの若者を怒鳴り付けた。
「てめえら、俺に恥かかせんじゃねえ。こちらの方がどなたか知ってんのか。俺の命の恩人、上野『九頭竜会』のリーダーにして『関東丸市会』の客分、須良大都さんだ。所詮てめえらが敵う相手じゃねえんだ!」
 ジェイクと呼ばれた男は麻のスーツの男と若者たちを睨み付けて言った。
「腕の骨を折った事にして慰謝料せしめましょうだと――冗談じゃねえ。大都さんがそんなヘマする訳ねえだろ。おい、本当はどういう風にやられたんだ?」
「……それが急に体が動かなくなって、気が付いたら岩場で寝転がってました」と一人の若者がおずおずと答えた。

「そうだろう」
 ジェイクは得意そうな顔をしてから大都に向き直った。
「大都さん、あれはブクロに殴り込んだ時でしたかねえ。こっちは十人しかいないのに相手は五十人、しかもドスやハジキ持ち出してきやがった。大都さんが一人で乗り込んでって、ハジキの一発打たせる訳でもなく、あっという間に全員倒しちまった。俺はあん時に『この人だけにゃ逆らっちゃいけねえ』って固く心に誓ったんですよ」
「ねえ、ジェイク。あの頃の仲間が元気に暮らしてるのを見るのは嬉しいよ。今やってる仕事だって地元のトラブルを防ぐ必要悪みたいなものだってのも認める。でも私が言った事を覚えているかな?」
「え、ええ」
「カタギには手を出さない、クスリには手を出さない。もちろん守ってるよね。もしそうでなかったら――今、この場で」
 大都は最後まで言わず、開いた左の掌にグーにした右手を軽くポンと降ろした
 ジェイクは真っ青な顔になって、ばっと大都の前で土下座をした。ぼっと突っ立っていた男たちも兄貴分が土下座したのを見て慌てて土下座した。
「大都さん、勘弁して下さい。そんな事になったら市邨のおやっさんに顔向けができねえし、俺はここに居られなくなっちまう」
「今回は大目に見るよ。じゃあ元気でやりなよ、ジェイク」
 浜辺に戻ろうとする大都をジェイクが必死で引き止めた。
「大都さん、それじゃあ俺の気持ちが納まらねえ。そうだ、これを」と言って、ジェイクは金の飾り文字のついた名刺を大都に手渡した。「必ず連絡して下さいよ。いい店にお連れしますから。いつまでこっちにいらっしゃるんですか?」
「予定では明後日までかな」

 
 ようやく解放された大都は海の家に戻った。主人は腰を抜かさんばかりに驚いていたが、続いて顔を出したジェイクに呼ばれ、何事かを言い含められているようだった。
 ジェイクが「俺はこれで」と言って深々と礼をして去ると、主人がラムネと栓抜きを用意して待っていた。
 大都が四本、主人が三本のラムネの瓶と栓抜きを持って糸瀬たちの下に戻るとすかさず糸瀬が声をかけた。
「おい、大都。ずいぶん時間がかかったじゃないか」
「ああ、ごめんごめん。ラムネの栓抜きが見つからなくてね。ご主人がわざわざ栓抜きを探して持ってきてくれたんだ」
 主人はかいがいしく一人一人にラムネの栓を抜いて手渡して回った。
 みんなでラムネをからんからん言わせながら飲んでいると源蔵と静江が戻った。
「あら、いいわね」
 源蔵と静江も持参した麦茶を飲みながら肌を焼いていると、海の家の主人が三人の若者を連れて再び現れた。それぞれの両手には焼きそばの皿が乗っかっていた。
 主人は焼きそばを各人に配り、ラムネの瓶を回収してから立ち去ろうとした。
「焼きそばなんて注文していないよ」と大都が言うと主人は大都の耳元で囁いた。
「うちの主人がこうしろって言うんです。この後イカ焼きも持ってきますんで」
「えっ、そりゃ困る」
「そうしないと、あっしが怒られちまいます」と主人は言って立ち去った。
「まあ、いいじゃないか。腹も空いてたし、いただくとしよう」と糸瀬が気楽に言った。
「でもあまり食べ過ぎないで下さいね。今夜はあたしたちがご馳走するんですから」と静江は言った。
「ちょっと行ってくる」
 大都は再び海の家に向かって歩き出した。

 
 大都は海の家に入った。大分客がいて七割方小上がりは埋まっていた。
 主人は大都を見つけてすまなそうに言った。
「ああ、取りに来て頂かなくても、イカ焼きはお運びしますから」
「いや、そうじゃないんだ。ご主人はジェイクに何を言われたんだい?」
「『大事なお客様だから明後日までは姿をお見かけしたら、できる限りの事はしろ』と」
「ふーん、そういう事だね――ご主人、申し訳ないが私たちはもう戻るんでイカは要らないよ。せっかくだから焼きそばだけはご馳走になるけどね。それから予定が変わったので明日東京に戻ろうと思ってる」
「えっ、えっ、えっ」と主人は半べそをかいたような顔に変わった。
「このままじゃ、ご主人はジェイクに叱られてしまうね。わかった、私がジェイクに電話しよう。ご主人、電話を借りるよ」
 大都は名刺に刷り込まれた電話番号にダイアルしたが、ジェイクは急用で出かけてまだ戻っていないとの事だったので、名前だけを伝えて電話を切った。
「さすがにまだ戻ってないか――」
 大都が浜辺の方を振り向くと、いつからそこにいたのか静江が立っていた。
「大都さん、何やってるの?」

 
「――何だ、そういう事だったの」
 静江は海の家の小上がりに腰掛けてプラッシーを飲みながら笑った。
 大都は差しさわりのない範囲で、自分を命の恩人と崇める人間が海の家を経営していて、どうしてもお礼をしたいと言われ困っていると伝えた。
「でも確かにちょっと鬱陶しいわね。ねえ、どうせなら明日は本当にどこかに出かけましょうよ。この近くの牧場なんてどうかしら。今流行りの合ハイって奴よ」
「それは名案だ――じゃあもう一度ジェイクに電話するから」

 ようやくジェイクに電話が通じて事情を伝え、大都と静江は連れ立って海の家を出た。
「源蔵さんが言ってたわよ。大都さんは魅力的だけど謎も多いって。今のも謎の一つかしら?」
「ははは、いいじゃないですか。でもあの口下手な源蔵が静江さんとは何の抵抗もなく話ができるなんて不思議だな。源蔵はいい奴でしょ?」
「ええ、あたし、源蔵さんの事好きよ」
「えっ、そいつはびっくりだ」

「それよりもあなたの事を話しましょうよ。大都さん、ガールフレンドはいるの?」
「いえ、どうも女性の扱いは苦手で――」
「そういう感じがしたわ。ねえ、真由美の事どう思う?」
 大都は真由美の名を聞いた途端に胸がどきっと高鳴ったのを感じた。
「どうって言われても――素敵な方だと思いますよ」
「あら、良かったわ。あたし、子供の頃から真由美と一緒にいるからよくわかるの。真由美は大都さんを好きみたい。だからよろしくね」
「『よろしく』と言われてもどうすればいいのかな」
「うふふ、きっとそういう所が魅力なのね。でもぼやぼやしてちゃだめよ。糸瀬さんは真由美を気に入っているみたいだから」
「糸瀬が気に入っているならいいじゃないですか?」
「お友達であるあなたにこんな事言いたくないんだけど、あたし、糸瀬さんは苦手」
「うーん」
「同じ事を源蔵さんに言ったら、源蔵さんも『うーん』って言ってたわ――とにかく東京に戻ったらアタックあるのみよ。あたしも応援するから。さて、皆に明日の合ハイの提案をしなくちゃね」
 静江はそう言って皆の下へと走っていった。

 

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 Story 2 悪魔が囁く時

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