3.9. Story 1 山の人

2 献身

 山に入ったノカーノは砦の一室をあてがわれ、そこでローチェと暮らし始めた。
 振る舞いは赤ん坊でも大人の女性だった。ノカーノが気になっていた性差による様々な問題については砦の女性たちが交替で面倒を見てくれた。
 朝食を一緒に取り、その後の読み書きの練習、昼食、歩行訓練、夕食、寝るまで読み書き、ノカーノは付きっきりで世話をした。
 献身的な介護の甲斐もあって、一月が経つ頃にはローチェは一人で歩けるようになり、片言を話すようになった。
 二か月、三か月が過ぎ、ローチェは驚異的な速さで人としての振る舞いを学習していった。いや、元々持っていたものを思い出しただけかもしれないが、十歳の少女と同じくらいのレベルに達した。

 
 その日は寒い日だった。北にある山では白いものがちらついていた。部屋の外の小さな庭でノカーノと毬を蹴っていたローチェは不思議な光景に息を呑んだ。
「ノカーノ、これは何?」
「うーん、どうやらこれは雪というものらしい。私も初めて見る」
「へえ、雪」
 ローチェは空から降るものを捕まえようとして夢中になった。
「あまりはしゃぐんじゃないよ」
 ノカーノは笑いながら部屋の縁側に腰掛けてその様子を見守った。しばらくするとローチェが、かじかむ手に息を吹きかけながらノカーノの隣に座った。
「こんなに冷たくなった」
 頬をほんのり赤く染めたローチェがノカーノの頬に両手をつけた。
「……」
 ノカーノは雷に打たれたようにその手を振り払おうとしたが、ローチェの両手だけではなく両足も裸足だったのに気付き、自分の手でローチェの手を覆った。
「中に入ろう。ここは寒すぎる」

 
 翌日からノカーノは砦の人間に頼み込んでローチェの居室を別に設けてもらった。勉強と運動の時間だけ会う事にしたのだ。
 ノカーノの心に小さな変化が訪れていた。だがその感情に押し流されてはならない、デルギウスとの約束を守らないといけない、と自分に言い聞かせた。

 
 やがて一年が過ぎ、空海が帰国した。
「やあ、ノカーノ。帰ったよ」
「ああ、空海。どうだったい、成果は?」
「前にも言ったように学ぶ事なんて何もない。経典をもらうためだけに滞在していたようなものさ――ところでローチェは?」
「あ、ああ、サワラビの所にいるんじゃないかな」
「どうした、ノカーノ。様子がおかしいぞ」

 空海はサワラビの下を訪ねた。ヌエが嬉しそうに空海にじゃれついてきた。
「真魚、お勤めは終わったか」
「うむ。サワラビも元気そうで何よりだ――ローチェは?」
「間もなく来るじゃろう」
 ローチェが砦の女に手を引かれてやってきた。その姿、腹の膨らみにすぐに気付いた空海は天を仰いだ。

「空海様。無事お帰りで」
「あ、ええ。ローチェこそ……お腹のお子は?」
「はい。再来月には生まれる予定です」
「……サワラビ、これは?」
「どういう事と言われてもな。男と女が四六時中顔を突き合わせていれば自然の成り行きじゃろ」
「いや、そんな事を言っているのではない。お前の差し金ではないのか」
「差し金とは……ずいぶんな言い方じゃの。そういうおんしの本音はどうなんじゃ?」
「う、私も、ノカーノとローチェがそうなればいいと思っていたのは事実だ」
「じゃろ。皆が望んでおった形。もっと喜ばんか」
「しかしノカーノは元気がなかったぞ」
「そりゃそうじゃ。今更、自分のものとなった女子を差し出せぬ。だがローチェはすでに死んでおり、元から果たす事のできない約束だったではないか。何を悔やむ必要がある」
「……それでお前はこの山の新たな指導者を、朝廷に弓を引く者を手に入れるのか」
「物騒な事を言うな。生まれてくるまではわからんじゃろ」
「あの、空海様」
 ローチェがおずおずと口を開いた。
「ノカーノ様を元気づけてやって下さい」

 
 空海が部屋に向かうと、ノカーノは縁側に腰掛けてぼんやりと庭の景色を眺めていた。
「ノカーノ、ちょっといいか?」
「あ、ああ」
「桜の花を見たか?」
「……桜……ああ、春に咲き誇る花か。見事なものだったな」
「夏の青葉は?」
「うむ」
「そして今の紅葉。冬は雪に閉ざされる。こういった四季折々の景色に心動かされるのはどうしてだろうな?」
「それは生きているからだろ?」
「その通りだ。生きているからこそわかる事がある。お前も自分の幸せを追い求めたらどうだ?」
「……しかしデルギウスとの約束が」
「父親になる者がそんな事でどうする。生まれてくる子に失礼だぞ。今はローチェだけ見ていてやれ」
「……空海」

 

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 Story 2 兄妹の別れ

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