1.7. Story 1 ライゴット

3 夢魔

 ニライは眠ったミュアを右手に抱え、左手はカリゥと手を繋いだまま、ナヴ山を降りた。途中で繋いだ手を放したが、カリゥはそれに気付かずに空を飛んでいた。
(この子の能力は――もしかするとサフィ様に匹敵するほどに成長するかもしれない)

 
 ほどなくロアランドの町に着き、ニライはミュアを起こした。きょとんとしているミュアはニライたちが笑っているのに気付き、急いで笑い返した。
 三人で手を繋ぎながら報告に行くと、心配そうな表情でズーテマが待っていた。
「ズーテマ様、全て終わりましたよ」
「おお、ミュア。無事だったか――ニライ様、よくウェットボアを説得できましたな」
「それが――話の通じる相手ではなかったので倒しました」
「あ……またお戯れを。こんな短時間でお戻りになられているのですから、そんなはずはないでしょう」
「信じられないのも無理はありません。でももう生贄などという馬鹿げた風習は守らなくていいんですよ」
「いや、そんな。どうも事態が把握できませんが。何はともあれ、皆さん無事に戻られて、めでたしめでたしと言った所ですかな」

 
 その晩、ズーテマが床に着くと、いつものように床を擦る音はなく、しわがれた弱々しい声だけが聞こえてきた。
(……ズーテマ)
「ウ、ウェットボア様。ニライ様は倒したと言われましたが、ご無事だったのですね」
(……無事ではないわ。あの親子のせいで肉体は滅び、残るは魂魄のみ)
「何と」
(恐るべしはニライ。いや、それよりも息子のカリゥ。侮ったわ)
「魂魄だけになられても、このように話をされるとは」
(悠長な事は言ってられん。急がぬと『死者の国』からの迎えの力に逆らえなくなる。だがその前に何としてもあの親子に一泡吹かせてやらんと気が治まらん)
「……ニライ様は立派なお方です」
(甘いな。いつの日か、あの親子はお前にも災いを為すぞ。そうなる前に手を打つのだ)
「何と言われましても、その要求にはお応えできません」
(よく考えておくのだな。また来るぞ)

 次の晩も、その次の晩も、ウェットボアの魂はズーテマの下にやってきて、ニライへの呪詛の言葉を吐き続けた。
 連日囁かれる讒言はズーテマの精神を徐々に蝕み、そして、ついにズーテマは行動を起こした。

 
 ズーテマは険しい表情でノイロアランドに向かった。
「ニライ様はおるか?」
 住人の一人に尋ねると、ナヴ山の慰霊塔の建設現場に行っているという答えが返ってきた。
 完全に操られた状態に陥っていたズーテマは慌てた。慰霊塔が完成し、人々の浮かばれない魂が救済されれば、ウェットボアの魂も『死者の国』に連れて行かれてしまう。

 ズーテマは老体に鞭打ってナヴ山に向かった。山頂付近では十数人のノイロアランドの人間が慰霊塔の建設に勤しんでいた。
「ズーテマ様。わざわざこんな所に」
 老人の姿に気付いたニライがカリゥを連れてやってきた。
「これは何の真似だ?」
「ウェットボアの犠牲となった人々の霊を慰めるための慰霊の塔です。もうすぐ完成します」
「直ちに建設を中断するのだ」
「……ズーテマ様、何とおっしゃいました?」
「今すぐに作業を止め、そして、あなた方親子には町から出て行って頂きたい」
「何故、そのような事を」
「あなたは私たちの神にあたる方を殺した。そのような人物を町に置いておく訳にはいかない」
「あれは神などではありません。この建物の下の大地は無数の雨ざらしのしゃれこうべで覆われていたのですよ」
「……何と言われようが、あなたのしでかした行為は町の掟に反する。おとなしく出ていってくれれば、他の住民は悪いようにはせん」
「……わかりました。私とカリゥが出ていけば、何も変わらないのですね。カリゥ、ズーテマ様に良くして頂いたお礼を言いなさい」

 ニライは頭を下げさせようとしたが、カリゥは不満げな顔をした。
「母様。ズーテマ様は――」
「いいのよ。サフィ様の予言通り、私たちはこれから長い隠遁生活に入るの。何も言っちゃだめ」

 ニライたちはズーテマに礼を言い、山を降りようとした。そこにアーノルドが近寄って二言、三言言葉を交わした。
「ニライ様、何という事でしょう」
「いいのよ。後はお願いね――アーノルド。これを」
 ニライは自分のローブの袖口から一枚の紙を取り出した。ズーテマは必死になって工事を続けようとするノイロアランドの人々を叱り飛ばしていて、ニライの方を見ていなかった。
「これは?」
「この紙を慰霊塔の正面に貼りなさい。そうすれば全てが終わるから」

 
 ニライとカリゥは山を降りていった。ズーテマは工事が中断し、外壁だけが未完成の慰霊塔を見て満足そうな表情を浮かべた。
 アーノルドは素早く慰霊塔に近付き、すでにあらかた完成した塔の正面にニライから託された紙を貼り付けた。
 紙には「浮かばれぬ魂よ、『死者の国』に導かれん」と書いてあった。

 次の瞬間、台地が激しく鳴動し、何かが地の底から地上に湧き上がった。幾百もの魂が一斉に『死者の国』を目指して旅立ったのだ。
 ズーテマも慰霊塔の周りで不安そうにしていたノイロアランドの人々も言葉も無くこの光景を見ていた。
 そしてズーテマが苦悶の表情を浮かべたかと思うと、その体からも黒い塊が飛び出した。
「くそ、覚えておれよ。ニライめ、私をこんな目に遭わせ――」
 ウェットボアの魂魄はそこまで言って空中で消えた。

 
「母様、あれは?」
 山道を下りながらカリゥが尋ねた。
「終わったのよ。今度こそウェットボアは滅びたわ。そして私たちも新しい人生を始めるの」

 アーノルドが急いで走って追いかけてきた。
「ニライ様、どうかお戻りになって下さい」
「ズーテマ様は?」
「気を失われましたが、今は意識を回復されて――とんでもない事をしたと後悔されております」
「アーノルド、ズーテマ様に『何も気に病む必要はありません』と伝えてちょうだい。私たちが一緒に暮していれば、いずれまたこのような軋轢を生む。だから私たちはここを去ります」
「そんな。残された私たちはどうすればいいのでしょう?」
「大丈夫よ。離れると言っても、聖なる台地に移り住むだけだから」
「しかし」
「シップは乗っていくわよ。これからはあなたがノイロアランドのリーダーだから、しっかりやりなさいね」
「ニライ様、困った事があったらいつでも言って下さい。私たちはニライ様を決して忘れません」
「ありがとう。そうさせてもらうわ。もう行きなさい」

 アーノルドが山頂に戻っていくのを見送って、ニライがカリゥに言った。
「カリゥ、大人になったらミュアをお嫁さんにしなさい。その時は台地から降りていいから」

 
 聖なる台地は、ノイロアランドから東に、ババナ山地、モラコマ渓谷、ライゴ山地を越えた大陸の東端にあった。聖なる台地はテーブル型の山頂をした山だが、山頂へは、ほぼ垂直の崖を登って行く以外に方法はない。ライゴ山地から向かっていくと『断罪の壁』と呼ばれる垂直の絶壁が目の前に広がっていて、およそ人のたどり着ける場所ではなかった。

 ニライとカリゥはノイロアランドで建築資材をシップに積み込み、山頂に向かった。
 不思議な事に山頂は穏やかな気候で草木が青々と生い茂っていた。
「母様、これなら快適に住めそうですね」
「ええ、そうね。早く家を建てましょう」

 

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