1.7. Story 1 ライゴット

2 ウェットボア

 ズーテマの言葉通りロアランドの町には教会も礼拝堂もなかった。
 町の西のはずれに祭祀場があったが、そこは祈りを捧げるためではなく、恐ろしい儀式、何百昼夜かに一回、西のナヴ山を降りてくるウェットボアという怪物に生贄を捧げるための場所だった。

 ズーテマはこの事実を入植者たちに伝えるつもりはなかった。これは先住の自分たちの問題、やがて入植者たちとの融合が進めば自ずと知れるだろうが、それまではロアランドの町で処理するしかない、そう決めていた。

 そろそろウェットボアが山を降りてくる頃だった。ウェットボアはロアランドに現れる少し前には必ずズーテマの夢枕に立つのだった。
 ズーテマはシャーマンではなかったが、ロアランドの代々の指導者はウェットボアと意識を通わせ合う事ができるようだった。

 
 ある晩、ズーテマが床に着いてしばらくすると、大きな何かが床をずるずると這うような音がした。
(ズーテマよ)
「これはウェットボア様」
(また山を降りる時期になったが、此度は町の様子が大分変わっているようだな)
「……それは入植者を指しておりますか?」
(一気に人口が増え、お前の人選びも楽になったな)
「……いや、そういう訳には。彼らはまだ来たばかり。ロアランドのしきたりに馴染んではおりません」
(つれない事を言うな。お前が親切に教えてやればよいではないか)
「……はあ」
(入植者のリーダーに私が会って理を説いてやってもよいぞ。早々に手筈を整えるのだな)
「……しかし」
(ロアランドが安全でいられるのは私のおかげ。私を崇めないのであればこの地に住む資格などない事を教えてやらねばならん。わかるな)
「承知しました」

 
 翌朝、ズーテマは目覚め、深いため息をついた。
 寝室の床に残っている何かが這いずった後の粘液の軌跡を見て気分が悪くなり、窓を開け外の新鮮な空気を取り入れた。
「さて、どう伝えるべきか……」

 
 ズーテマは昼過ぎにノイロアランドに向かった。今日も人々が勤勉に、効率良く働いていた。来る度に発展する町を見るのは気持ちのいいものだった。
 ニライが顔を覆ったままでやってきた。
「ズーテマ様、ご用でしょうか?」
「いや、近くを通りかかっただけですのでどうかお気になさらずに」
「そうですか。ご用がありそうなお顔付きですけれど」
「ニライ様はまるで人の心が読めるようですな」
 ズーテマは笑いながら去ろうとしたが視界の端に見慣れぬ物を捉えた。
「おや、あの建物は?」
「あれですか。この間、お話しした集会所ですが――私たちの指導者を忘れないようにしておきたいと皆が言うので、小さな廟を脇に設けたのです」
「指導者とは……ニライ様ですか?」
「そんな。私の廟なんか作ってどうするのですか。私たちの真の指導者、サフィ様ですよ」
「ほお、それは素晴らしい」

 
 その晩、ズーテマが床に着くと再びウェットボアの気配がした。
(ズーテマ。何故ニライに伝えない?)
「ウェットボア様、あの方たちはこの星に新しい風を吹き込んでくれます。古い因習に縛られるのは私たちだけで十分です」
(ふふふ、ズーテマ。甘いな。奴らの建てた集会所を見ただろう。あれこそ邪教の館。あれを許せばこの星は取り返しのつかぬ事態に陥るぞ。そうなればお前は首長の座を追われる)
「何をそんなに神経質になられているのですか?」
(……もうよい。お前には頼まぬわ。自らの手であ奴らにきつく指導を行う)

 
 翌日、昼過ぎになってカリゥの姿が見えないのに気付いたニライは町の人間に尋ねて回った。
「カリゥを見かけなかった?」
「さあ、最近はロアランドのミュアちゃんって女の子とよく遊んでるみたいですから、あっちにいるんじゃないですか?」

 ニライはロアランドのズーテマの家に向かった。
「ズーテマ様、ミュアちゃんの家はどちらになりますか?」
「……それが、ミュアの姿が見えないので大騒ぎになっているのですが、もしかするとカリゥくんも?」
「何か心当たりがあるのですか?」

 
 ズーテマは西のナヴ山に住むウェットボアに生贄を捧げている事、ウェットボアがニライたちを快く思っていない事、全てを打ち明けた。
「……なるほど、そういう事情があったのですね。どうしてもっと早くにおっしゃって下さらなかったのですか?」
「あなた方をこんな古い習わしに巻き込む訳にはいきません」
「そのウェットボアは神ではなくただの害をなす化け物。生贄を欲するなど許される所業ではありません」
「しかし相手は恐ろしい怪物です。どうにかできる相手ではありません」
「ならば私がナヴ山に行って、カリゥたちを救い出すと共に、ウェットボアと話をつけて参りましょう」
「これまでにも町の屈強な者たちがナヴ山に登って、それきり帰って来ない事が続きました。失礼ながらニライ様はそれほどお強そうには見えませんが」
「やってみないとわかりませんよ。では行ってきます」

 
 ロアランドを出て、空を飛び、すぐにナヴ山の麓に着いた。さほど高くない山の山頂には灰色の厚い雲が不吉に垂れ込めていた。ニライはカリゥとミュアの名を呼びながら、岩だらけの山道を登った。
 山道を登っていくにつれ、霧が出始め、段々と濃くなってきた。ニライの呼ぶ声も霧の中に虚しく吸い込まれた。

 
 山頂に着いた頃には周りはすっかり暗くなっていた。その場所は円形の広場のようになっていて中央に黒い影が見えた。
「カリゥ、ミュア」
 ニライが黒い影に向かって走り寄ろうとして一歩踏み出した時、足に妙な感触が伝わった。どうやら骨を踏んでいるようだ。きっとこの広場は無数の人骨で埋め尽くされているに違いない。
 二人ともぐったりとして目を閉じていたが息はあった。ニライは二人の頬を軽く叩いて目を覚まさせた。

「もう大丈夫よ。さあ、帰りましょう」
 ニライが二人の手を取り、山を降りようとすると「待て」と声がかかった。
「ウェットボアね。隠れていないで出てらっしゃいよ」
「ふふふ、そう慌てるでない。もうお前のそばにおるわ」

 
 数十メートル先の闇の中に赤く光る二つの眼が見えた。
「のお、ニライ。他所の星に来たらその星の習慣に従うのは当然であろう?」
「……それが良い習慣であれば従いもするわ。でもあなたが強いているのは恐怖による支配。今すぐに人を食らうのを止めなさい」
「おやおや、皆に優しくするのであれば、私にも優しくしてくれても良かろうに」
「ならば人と協調して暮らすようにしなさい。それができるなら生きていてもいいわ」
「協調だと。神たる私を捕まえて『人と一緒に生きろ』とは笑わせるわ」
「こっちこそ大笑いよ。創造主は私たちの世界を破壊した。それなのに誰も救いの手も差し伸べてはくれなかった。神は助けてくれなかったのよ」
「悲しい話だな。私のような神を崇めていれば世界が終わる事もなかったろうに」
「ちょっと、あなたのどこが神よ。どうせ七回目だか八回目だかに造られたできそこないの生き残りでしょ。一つだけ質問させてもらうわ。あなただったら創造主に立ち向かえる?」
「私は神だ。私を崇めていれば、そのような破壊などそもそも起こらない」
「……答えになってない。ディヴァインのように創造主に立ち向かう訳でもなし、雷獣のように人間と一緒に生きる訳でもなし。あなたの足りない頭では理解できないでしょうけどね」
「先般からの無礼の数々、いい気になりおって。ここで死ぬがよい!」

 
 闇の中から銀色に輝く何かが飛び出した。ニライはそれを避け、カリゥとミュアに下がっているように伝えた。
 ニライは注意深く闇を見つめた。闇の中で何かが擦れるような音がした次の瞬間、今度は背後から何かが飛びかかった。
 ニライはこれも避け、闇に向かって「心弾」と唱えながらエネルギー弾を撃ち込んだ。
 撃ち込まれた一発が命中したのだろう、「ぐぅ」という呻き声がしたかと思うと、闇が薄くなり、そこには銀色に輝く大蛇の姿があった。全長は十メートルほど、胴回りの一番太い部分は一メートルを越えそうな大きさだった。
 地上の様子が露わになると、そこには予想通り無数の人骨が散らばっていた。ニライはカリゥたちに目を閉じているように言い、再びウェットボアに相対した。

「自らの仕掛けた舞台装置を放棄するとは――あなたの負けね」
「こしゃくな。本当に許さんぞ」
 ウェットボアの体が不思議な具合に撓み、バネ仕掛けのおもちゃのように体当たりを仕掛けた。
 その速さに対応しきれずにニライは尻尾の一撃を食らって地面に倒れ込んだ。
「母様!」
 ミュアの手を握りしめたカリゥが叫んだ。
 ウェットボアはすかさずニライに巻き付き、体を締め付け始めた。
「もう、逃げられんぞ。このまま体中の骨という骨を粉々にしてくれるわ」
「……くっ」

 
 両手の自由を奪われたニライがウェットボアの締め付けから逃れようと悪戦苦闘していると、背後でカリゥの声がした。
「母様、じっとしてて」
 するとウェットボアの鎌首の辺りで四、五発、まるで爆弾が落ちたような爆発が起こった。
「ぐぉ」
 ウェットボアはたまらずニライの体を離した。ニライが飛び退いて相手を見ると、全身が朱色に染まっていた。
「母様、止めを」
 カリゥの声に我に返ったニライは、地面に落ちていた錆びついた剣、おそらくは蛇退治に来て返り討ちに遭ったロアランドの勇者の物だろう、を拾い、「強化」と唱えた。
 錆びついた剣にニライの精神力が乗り移り、剣は青白い光を放った。ニライは爆発で深手を負ったウェットボアの頭部に剣の一撃を思い切り叩き込んだ。
「……」
 頭を割られたウェットボアは音も無く地面に伸びて、それきり動かなくなった。

 
 ウェットボアの最期を見届けたニライは振り向いて言った。
「さあ、カリゥ、ミュア、帰るわよ。あまり見ない方がいいわ。ここには慰霊の塔を建てましょう」
 山を降りかけてニライは足を止めた。
「そう言えば、カリゥ、さっきのはいつからなの?」
「母様がサフィ様に言われて練習していた時に、ぼくもお手伝いしたいと思って練習してたんだけど……できたのは今日が初めてだった」
「ふーん、さすがは私の息子と言うべきかしら。だったらもう一つ宿題よ」
「えっ、何?」
 ニライは意味ありげに微笑んでからミュアを呼び、そのおでこにそっと触った。ミュアはすぐに寝息を立てて眠り始めた。
「さあ、これで気兼ねなくできるわよ」
 ミュアを右手で抱き上げたニライはもう片方の手でカリゥの手を取り、楽しそうに言った。
「空を飛んで帰るから」

 
 ウェットボアは死んではいなかった。肉体は滅びたがその邪悪な精神はかろうじて生き永らえた。
(くそ、このまま『死者の国』になど行ってたまるか。覚えていろよ)

 

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