1.2. Story 4 絶望の翼

3 シャイアンとの契約

 ミサゴの入口に黒ずくめのマントを羽織った一人の男が降り立った。
 男は音もなく居留地の中に入り、目当ての家の前に立った。
「……こんな夜中に不在か。どこに行ったというのだ」
 男はしばらく考え込んでいたが、やがてマントを翻し、裏山に向かって歩き出した。

 
 裏手の山の中腹に小さな湧水の出る泉があった。
 居留地の人間も滅多に立ち寄らないその場所がサフィの道場だった。
 今夜もルンビアが寝付いたのを見計らってこの場所に来た。湧水で体を清めてから、精神を統一し、創造主の言葉を聞こうと瞑想に入った。

 突然に何者かが山を登ってくる気配がしてサフィは集中を破られた。
 かなりの強者の持つ気配だった。自分には到底勝ち目がない、サフィはその人物が現れるのを静かに待った。

 
 全身黒ずくめの男が現れた。男は一つ大きく息をついてから言葉を発した。
「サフィだな?」
「はい。その通りですが、まずは先に名乗られるのが礼儀かと存じます」
「お前の言う通りだ。だが私の姿を見て驚くではないぞ」
 言葉と共に男はマントを取り去った。そこには白い翼を雄々しく広げたアーゴが立っていた。
「……あっ……」
「驚くでないと申したろう。私を知っているな?」
「は、はい。もちろんでございます。ご無礼をお許し下さい」
「お前はこの世界の宝。許すも許さないもない――ところでこんな時間に何をしていた?」

「はい。創造主の力に触れるための精神統一を。最近は……弟……を寝かしつけた後のこのような夜中にしか時間が取れなくて」
「弟とはルンビアか?」
「はい」
「しっかりと面倒を見てくれているようだな」
「滅相もありません。私一人では無理です。ミサゴの方たちやスクート様のおかげです」
「何、スクートだと。あのお調子者が」
「スクート様は私に起こった出来事にひどく責任を感じておられます。時間が空いた時には私たちの様子を見に来て下さいます」
「ふむ。駄目なのはあのバカ息子だけか」

「――お言葉ですが、リーバルン様が一番辛い思いをしているはずです。おそらくスクート様がここに来られるのも指示を受けての事だと」
「サフィ、やはりお前はこの世界の救世主となるべき逸材だな。今すぐにでも出仕してもらいたいくらいだ」
「私など――我が王、何用でここにいらしたのでしょうか?」
「おお、そうだったな。一刻を争うのだ。お前の力を借りたい」
「ご用件を言って頂けませんか」

 
「リーバルンが魔道に堕ちようとしている、いや、もうすでに遅いかもしれない」
「……そんな馬鹿な」
「あれは禁断の神シャイアンを蘇らせるために比翼山地の奥に分け入った。早く止めないとシャイアンにより世界は崩壊する」
「そこまでお分かりでしたら、何故、我が王がお止めにならないのですか?」
「私やプトラゲーニョが力ずくで止めたとしても、あれの心のしこりは消えない。空を翔る者はおしまいだ」
「それで私が?」
「リーバルンは希望を失くしている。あれに光を指し示せるのは、サフィ、お前だけだ。頼む」
 アーゴはそう言って地面にひれ伏した。

「我が王、頭をお上げ下さい――わかりました。やってみます」
「おお、受けてくれるか。であれば急がねばならん。魔界の扉が開く前にあれを連れ戻さねばならんのだ」
「具体的な場所は?」
「山地の奥深くのどこかとしか言えん――サフィ、今からお前を近くまで案内する。後はお前の力で探し当ててくれ。さあ、私につかまるがよい」
「我が王、それには及びません。私は空を飛ぶ事ができます。ご一緒に飛んでいきましょう」
「おお、ますますもって頼もしいな。では参るぞ」

「我が王よ。無礼を承知で一つだけよろしいでしょうか?」
「ん、何だ。礼であれば望むものを言うがよい」
「いえ、そのような――ルンビアの寝顔を見てやっては下さいませんか?」
「孫と対面させてくれるのか。サフィ、お前という奴は……さぞや私を情の薄い為政者と思っているであろうな」
「いえ、そんな。承知して下さいますか」
「うむ。家まで案内してくれ。英雄に抱かれた子供は勇ましく育つと言う。寝顔を見るだけではつまらないからな」

 
 リーバルンとヤッカームは連れ立って暗い道を歩いた。
「ここはすでに異界か?」
 リーバルンが尋ねるとヤッカームが答えた。
「のようですな。まだシャイアンは話しかけてきませんか?」
「……近くにいる。とても巨大な何かが」

 羽ばたきの音と共に突風が起こり、低い唸り声が聞こえた。
「翼の神、シャイアンよ。そこにいるなら姿を現すがよい――
(……)
 リーバルンは立ち止まり、後方を歩いていたヤッカームに向き直った。
「何故だ。ものすごく近くにいるのがわかるのだが、話せる気がしない――お前はどうだ?」
「私には無理です。モンリュトルの祝福を受けた者ではありませんので――存在を感じているのに対話の窓が開かれない……リーバルン様の中にまだ迷いがあるからではございませんか?」
「そういう事か」
「腹を括るのですな」
「――わかった。この世界を終わらせる」

 風が一層強くなり、まっすぐに立っていられないほどになった。激しい音と共に近くに雷が落ちたようだった。
 雷光の中に一瞬だけ青銅色に光る翼を持った鳥のシルエットが見えた。あまりにも巨大なその姿にリーバルンもヤッカームも息を呑んだ。
「――今のがシャイアンですか。なるほど、巨大ですな」
「ああ、あれが羽ばたけば止められる者はいない」

 
(我を求めるのは誰だ?)
 暗闇の中で声が響いた。
「シャイアンか?」
(契約が必要だ。まずは用件を言え)
「少し話をする訳にはいかないのか?」
 リーバルンが逡巡しているとヤッカームが小声で囁いた。
「リーバルン様、急がれないと。何者かがやって来る気配が」
「わかった。――シャイアンよ、願いはただ一つ。この世界を――」

 
「リーバルン、そこまでだ」
 暗闇の中から朗々とした声が響いた。声がした瞬間にヤッカームは舌打ちをして姿を隠した。
「……父上?」
 リーバルンは震える声で誰もいない暗闇に問いかけた。
「お前が行おうとしているのは世紀の大罪。それをさせる訳にはいかん。刺し違えてでもお前を止めるから待っておれ」
(どうした。早く用件を言え)
「……こんな、こんな諍いに満ちた世界など終わってしまえばいい!」

 
 稲光と共にシャイアンの姿が闇の中に浮かび上がった。青銅色の羽根を持った巨大な猛禽類の姿だった。
(契約は成立だ。これよりあらゆるものをこの翼で蹴散らそう)

 そこにアーゴが駆けつけた。
「くっ、一足遅かったか。リーバルン、シャイアンを止めるのだ」
「……父上、もう遅いのです。私は、私はこの忌まわしい世界を滅ぼします」

 
「リーバルン様、いけません!」
 アーゴから少し遅れてサフィも姿を現した。
「サフィ……」
「リーバルン様、ルンビアの事をお考えになられましたか。ルンビアは何のためにこの世に生を受けたか、次の世代の希望となるためではなかったでしょうか。それを、それをこのような行いで全て無駄にされようというのですか?」
「……サフィ、もう手遅れだ。シャイアンとの契約は完了した」

 
(その通りだ)
 アーゴとサフィの耳にもシャイアンの声が響いた。
(この者の願いを叶えてやるのだ。邪魔立てしてはならぬ)

「シャイアン!」
 サフィは巨大な鳥に向かって叫んだ。
「お前はモンリュトル様の僕であろう。何故、創造主の意に沿わぬ行為を行おうとするんだ」
(ほぉ、少しは道理のわかる者がいると思えば『持たざる者』ではないか。だがお主は大きな勘違いをしている)
「……どういう意味だ?」
(どうせ間もなく終わるこの世界をほんの少し早く終わらせるだけの事。決して創造主の意に反している訳ではない)
「そんな馬鹿な。こうなったら力づくでも止めてみせる」
(面白い。やってみるがよい)

 
 サフィはアーゴから剣を借り、足元に三角形を二つ組み合わせたような星型の図形を描き、言葉を唱えた。
「創造主よ、我にその力を示せ」
 サフィの言葉に呼応するかのように地面の三角形の頂点から赤、黄、青、白の光が一瞬だけ湧き上がったが、すぐに力なく消えた。
(『羅漢陣』か。だが言ったであろう。これは創造主の意志に反していないと)
「くそっ、だめか」
 サフィは二、三歩退き、自分が描いた図形の脇で跪き、拳で地面を何度も叩いた。

 
 シャイアンの羽ばたきの音が大きくなり、金属をこすり合わせたような嫌な音が耳を襲った。
「――いかん。外に出ようとしているぞ」

 
 アーゴが蹲るサフィを起こそうとした時に、サフィが描いた地面の図形の中心に不思議な現象が起こった。柔らかな光が溢れ出し、図形の中心には可愛らしい女性のシルエットが浮かび上がった。
 女性のシルエットは立ち上がり、シャイアンに向かって語りかけた。
(しょうがないね。こんな子供に世界の命運を担わせるなんて)
 女性のシルエットは背中に担いだ大きな楽器を取り出し、それをつま弾き出した。
 優しいメロディが辺りを包み込み、羽ばたきが起こしていた金属音が小さくなっていき、最後には聞こえなくなった。
 シャイアンは奇妙なうめき声を一つ上げた。
(――執行は取り止めだが契約は残る。契約の証となる『シャイアンの頭石』を残していこう。次回はそれに向かい我を呼び出し、用件を伝えるがいい。だが覚えておくがよい。祝福なき者が我を呼び出しても、それは心無き器、真の翼の神ではないぞ)

 

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