目次
3 平穏な生活
翌朝、サフィがルンビアの朝食の準備をしていると突然に住民の一人が家に駆け込んできた。
「おい、サフィ。大至急、プントの家まで来てくれ」
サフィはまだ寝ているルンビアを起こさないよう音を立てずに家を出て、プントの下に向かった。
プントの家には数人の住民が集まっていて、プントの前には布団が敷かれていた。そこで眠る人物を見てサフィは息を呑んだ。
「これは……ナラシャナ様」
「そうじゃ。門の所に倒れておったらしい」
プントが目をしばたたかせながら言った。
「何故また、ここに?」
「ワンクラール王の崩御に関連して何やらあったのだろう――にしても、ここまで歩いて来られたのであれば正気の沙汰ではない」
サフィはナラシャナに近付き、痩せこけた腕を取った。
「……大分、脈が弱られていますが、最善を尽くします。プント。ルンビアにはどういう風に知らせようか」
「いくら頭の良い子とは言え、実の母だとわかるはずがない。普段通りに接すればいいじゃろ」
サフィの治療は続いた。昼過ぎに一旦、プントの家を出て自宅に戻るとルンビアがおとなしく待っていた。
「やあ、ルンビア。ごめんよ。兄さん、忙しくてね」
「いい子にしてるから、だいじょぶ」
「わかった。もう少ししたら、お前もプントの家に来ていいよ。また呼びに来る。きれいな人でびっくりするぞ」
「はあい」
サフィは簡単な昼食を済ませ、再びプントの家に入った。家の中にはプントと身の回りの世話をする中年女性だけがいた。
「サフィ。どうじゃ?」
「できる事は全てやったけど、何とも」
「ルンビアを呼んだらどうじゃろ?」
「……そうだね。きっとルンビアに会いに来られたのだから、ルンビアの声を聞けば意識が戻られるかもしれない」
ルンビアが連れて来られた。ルンビアは恐る恐るナラシャナの顔を見ていたが、サフィに尋ねた。
「ねてるの?」
「……うん、そうだよ。ルンビアの声を聞けば起きるかもしれないよ」
「ほんと?」
ルンビアは傍に行き、「おきてよ」と言いながら小さな手でナラシャナの肩を揺さぶった。
それまで意識の無かったナラシャナが静かに目を開けた。
「……ここは……サフィ……ああ、ミサゴに着いたのね」
「そうですよ。今、あなたの傍にいるのがルンビアです」
ルンビアはびっくりしたような顔をして、ナラシャナの肩に手を置いたまま、動きを止めていた。
「……ありがとう、ルンビア。私はナラシャナよ」
「ナラ……シャナ?」
「そうよ。よろしくね」
ナラシャナが弱々しく微笑むと、ルンビアも安心したのか、にこりと笑い返した。ナラシャナはゆっくりと両手を伸ばし、ルンビアの頬を手で包み込んだ。ルンビアは少し困ったような顔をしたが、そのままの姿勢でいた。
「あそばないの?」
「……少し疲れたの。お休みしたら沢山遊んであげる」
「ほんと?」
「……うふふ……あ、そうそう。あなたにこれを」
ナラシャナはゆっくりとした動作で胸元から美しい刺繍の付いた皮袋に納まった短刀を取り出した。
「遊び道具じゃなくて、ごめんね。宝物なの。あなたにあげるわ」
ルンビアはもらっていいものかどうか迷って、入口付近でプントと一緒に立っていたサフィを見た。
サフィはルンビアに近付き、囁いた。
「これは兄さんが預かっておこう。ルンビア、お礼を言いなさい」
「はい。ありがと」
「私もそうですが、ルンビアも人様から物を頂く機会なんてないんです。きっと今夜は興奮して眠れませんよ」
「……サフィ」
ナラシャナはサフィの名前を呼んだ。
「はい。何でしょう」
「あなたに謝らなければ」
「謝る事なんて一つもありませんよ。皆、信念に基づいて行動した、両親も少しでも皆の助けになればと思って死んでいったんです。ですから謝らないで下さい」
「……サフィ。そうよね、あの時の私は信念を持って行動したのだから恥じてはいけない。そんな事を言ったら、あなたのご両親に――」
「さあ、ナラシャナ様。もう少しお休み下さい。ルンビアはここに置いていきます――ルンビア、ナラシャナ様と一緒にいるんだよ」
「はぁい」
サフィとプントは一旦、家を出て散歩をした。数十分後に家の中を覗くと、ナラシャナとルンビアは仲良く手をつなぎながら眠っていた。
改めて外に出てプントが尋ねた。
「で、サフィ。どうなんじゃ?」
「……プント。どうしてナラシャナ様のような素晴らしい方がこんな目に遭わなければいけないんだろう?」
「それほどによくないか」
「あの方はルンビアと引き離された時から、絶望して命を絶つ事だけを考えておられ、日に日に弱っていった。ようやく自分が動かなければ何も手に入らない事に気付かれた――でも少し遅すぎた」
「人とは愚かな生き物じゃ。一生それに気付かない愚かさ、死の直前、それに気付く愚かさ……やり切れんな」
「……」
「お前に言っても仕方ないか。しかし世界は自分たちを導いてくれる指導者を待ち望んでおるのかもしれん。後、数千の夜が過ぎれば、お前の出番がやってくる」
「そんな、私など」
「そうじゃ。さっき、宮殿から戻った者に聞いたが、うまい具合に今夜はリーバルン様が風穴島から戻っているらしい」
「リーバルン様にお知らせしに行くよ」
日が沈み、闇に紛れて宮殿に向かって飛び立った。目指す建物の灯りが見えると、サフィは地上に降り立ち、ミサゴの人間からもらった地図を頼りにリーバルンの居室を探した。
リーバルンのものらしき部屋の窓には灯りが点っていて、まだ起きているようだった。サフィは窓に近寄り、二、三度、拳で叩いて様子を見た。
すぐに窓が開け放たれ、燭台を手にしたリーバルンの姿が現れた。
「誰だ……む、サフィじゃないか。こんな夜中にどうしたんだい?」
「ミサゴまで大至急お越し頂きたく、お迎えに上がりました」
「……ルンビアに何かあったのか?」
「いえ……ナラシャナ様が来られています」
「……わかった。事情は道々聞こう。急ぐんだろ?」
「はい……一刻を争います」
サフィはリーバルンと共に山を降りながら、ナラシャナがやってきた時の状況を話したが、ナラシャナの体調についてだけはどうしても伝えられなかった。
「……状況はわかったよ。それにしても君にはいつも世話になっている」
「いえ、そんな事は」
リーバルンの空を飛ぶスピードに付いていこうとしてサフィは必死だった。
「しかし本当に空を飛ぶのを見ると、改めて驚くな」
「久しぶりになります」
「……あの晩以来か。ナラシャナにもルンビアにもあの時以来会っていない。あんな事があっては公にルンビアを引き取る事も……すまなかった。サフィ」
「両親の葬儀の時にも『謝るのは止めて下さい』と申したではありませんか。父も母も、お二人とルンビアのお役に立てるなら本望だと申しておりました」
「私たちにもう少し思慮というものがあったなら、あんな事にはならなかったのに……」
「お言葉ですが、ナラシャナ様は変わられました。今のあの方には全てを吹っ切られたお強さを感じます」
「……私はだめだな。いつまでも済んだ事を引きずって、君を筆頭に色んな人たちに迷惑ばかりをかけている。こんな体たらくで世界を変える王などになれる訳がないな」
「リーバルン様がそんな弱気でどうされます。ナラシャナ様とルンビアの前ではお強い姿をお見せ下さい」
「君の言う通りだ。プトラに言われるよりも胸に響くよ」
サフィとリーバルンはミサゴに舞い降りた。サフィはプントの下に退き、リーバルンはナラシャナとルンビアの下に駆け込んだ。
「……ナラシャナ」
部屋の中央に置かれた布団に横になりながら、ナラシャナはルンビアに絵本を読んであげていた。ルンビアはしきりにあくびをしてナラシャナの横で夢の国に旅立とうとしていた。
「お帰りなさい。あなた」
ナラシャナは絵本を閉じてルンビアの頭を撫で、リーバルンに向かって微笑んだ。
「ただいま」
リーバルンも微笑み返し、ナラシャナとルンビアを抱きしめるために布団に近付いた。
サフィはプントと一緒に夜空を見ていた。
サフィは泣いた。
「プント、涙が止まらないよ」
「最後の最後で幸せになれた。それで十分だろう」
翌日からリーバルンとナラシャナとルンビアの家族水入らずの生活が始まった。ルンビアはリーバルンにもすぐに慣れ、傍からはまるで長年一緒に暮らしている家族のように自然に映った。
幸せな生活は五日間続いた。六日目の朝、リーバルンが憔悴した顔でルンビアの手を引き、サフィたちの前に姿を現した。
「……ナラシャナが」
サフィたちは急いでプントの家に駆け付けた。ナラシャナはミサゴに着いたばかりの時の顔色が嘘のように、今は薔薇色の頬をして眠っていた。
サフィが脈を取り、首を横に振った後、俯いた。
「サフィ、嘘だと言ってくれないか。なあ、嘘なんだろ?」
リーバルンが懇願するように言った。
「ねえ、ナラシャナ、おきないの。また、つかれちゃったの?」
ルンビアがサフィの服の袖を引っ張りながら尋ね、サフィは何も言わずにルンビアを抱きしめた。
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