1.2. Story 3 再生の時

2 ナラシャナの決死行

 ナラシャナは休まずに歩いた。真夜中近くになってようやくホーケンスの灯りが遠くにぼんやりと見えた。
 体力はとうに尽き果て、足にはマメをこしらえ、そのマメが潰れ、血が滲み出した。よろよろになっても歩みを止めない、それは息子を守ろうという母の執念だった。

 その後も歩き続け、明け方にホーケンスの市街地に到着した。
(ごめんなさい、ルンビア。少し休ませて)
 市街地の道端にしゃがみ込んでそのまま深い眠りに落ちた。目を覚ますと、すでに陽は高く上っており、喪服姿のナラシャナをじろじろと見ながら人々が通り過ぎていった。
 人目は気にならなかった。自分に一つ気合を入れ直して、再びミサゴに向かって歩き出した。
 途中で転んで、鉤裂きのできた礼服の左の袖を引きちぎり、その布きれで髪の毛をしばった。

 
 『世界の中心亭』の大きな屋根が見えた。世界の中心広場、ここの噴水のある池の縁に腰かけてリーバルンと愛の言葉を囁き合ったのがずいぶんと昔の事のように思えた。
 トイサルは元気だろうか、顔を出そうか、一瞬そんな考えが頭をよぎったが、まだ先は長い、そう思い直し、ナラシャナは噴水池の脇で休憩していたマリオネット使いの老人に話しかけた。

 
「ねえ、おじさん。手紙を書きたいんだけどペンと紙を貸して下さらない?」
「ん、ああ、いいよ。ちょっと待ってな――それにしても、ねえちゃん、妙な格好してんなあ。葬式帰りかい?」
「……ええ、そうよ。昨日までの、言われるがまま、待っているだけの自分を葬ったの」
 ナラシャナは妙な表情を見せる男からペンと紙を手渡された。
「ありがとう、ちょっと借りるわね」
 噴水脇に腰を下し、トイサルへの手紙をしたためた。人形使いに礼を言い、ペンを返してから、世界の中心亭へと向かった。
 店は営業前だった。ナラシャナは木でできた大きな扉の下に手紙を滑り込ませ、店を後にした。

 久々にしっかりと睡眠を取ったせいもあるのだろうが、ものすごく気分が良かった。
 もう自分は王宮には戻らない。ミサゴで、いやミサゴが無理であれば、どこか別の場所でルンビアと静かに暮らすのだ。
 サフィにも会わなければ。会って、詫びるのだ。あの子の母親代わりになったっていい。今度は自分が守る番だ。
 今の自分なら何だってできる、ナラシャナは自信に満ち溢れていた。

 
 広場を過ぎて西に歩くと景色が職人街へと変わった。ナラシャナは相変わらず奇異の目にさらされながらも、しっかりとした足取りで街を横切った。
 やがて街の西のはずれに差しかかった。ここを越え、まっすぐに行けば風穴島を臨む海岸線、左に曲がれば山賊や難民が多く住むという無法地帯、右がミサゴに向かう険しい山道だった。

 
 ナラシャナはホーケンスを出て十字路に差し掛かった。すると十字路の前方と右方から二人の男が現れた。人相が悪く、明らかにナラシャナを狙っている風だった。
 ホーケンスに戻ろうと振り返ったが、もう一人、別の男がそちらからも迫っていた。

「へっへっへ。そんなに慌てなさんなよ。悪いようにゃあしねえよ」
 三方から男たちが近付いてきた。ナラシャナは男たちから逃げるように十字路を左に曲がった。
「おいおい、そっちは山賊の巣窟だ。ミサゴはこっちだぜ」
 ナラシャナは男の声にきっと振り返った。
「あなたたち、ヤッカームの手の者ね」
「誰だ、そりゃ――おれたちは、あんたが邪魔だから好きにしていいって言われただけさ」

 
 ナラシャナは全速力で左の道を走った。予想外の選択に不意をつかれた男たちも慌てて後を追った。
 男たちは砂利道を全速力で逃げるナラシャナにもう少しで追いつく所まで迫ったが、突然に追いかけるのを止め、その場にばたばたと倒れていった。
 ナラシャナは尚もしばらく走った後で背後の異変に気付き、ゆっくりと振り返った。男たちが倒れている傍には見た事のない恐ろしい生き物が立っていた。

 
 獣は子牛ほどの大きさ、全身が金色に輝き、獅子のような顔には鋭い牙が生えていた。金色のたてがみを逆立て、その目はらんらんと輝いていた。
 ナラシャナが後ずさりをして、その場から逃げ出そうとしたその時、獣が言葉を発した。

 
「安心しろ。おめえを襲ったりはしない」
「あなた……言葉をしゃべれるの?」
「『水に棲む者』だな。何故、こんな場所にいる?」
「私はナラシャナ。ミサゴにいる息子のルンビアに会いに行かなくちゃならないの」
「……馬鹿言うな。おめえの体力はとうに限界を越えて、気力だけでその体を支えているはずだ。そんな真似をしたら間違いなく死んじまうぞ」
「私はこれまで自分の意志で何かを全うした事がなかったわ。いつだって人の言いなりで、皆はそれを見て『おしとやかなお嬢様だ』って誉めてくれた。きっといつの日か、素敵な人が現れて素敵な家庭を築けるって信じてた。でも王宮からここまで歩き続けてようやくわかったの。待っているだけじゃ幸せは掴めないって」
「……そこまで言うなら止めねえよ。途中まで一緒に行ってやる」
「ちょっと待って。あなたのお名前は?」
「さあ……皆は雷獣と呼んでるな。山賊のリーダーと一緒に暮らしてんだ。皆は恐れているが気のいい奴なんだぜ」

 
 雷獣はナラシャナの先に立ち、今度は十字路をまっすぐに進んだ。やがてミサゴに続く山道が見えると雷獣が言った。
「……どうする。日が暮れるとイワトビオオカミどもが動き出す。ミサゴまで付いて行ってやろうか?」
「ありがとう。でもいいわ。これ以上、私の勝手にあなたを付き合わせる訳にはいかないし――ねえ、一つだけ教えて。何故、そんなに私に優しくしてくれるの?」
「おれは会った事がねえが、ミサゴにサフィという小僧がいるだろう。おめえがここで死ねば、きっとサフィが悲しむ。だからおれはおめえを助けた」
「あなた、サフィを知っているの?」
「当然だ。神童、救世主、色々な呼び方をされている――おめえ、サフィの友達なんだろう?」
「……ううん、迷惑をかけっぱなしよ。ミサゴに行く目的の一つはサフィに謝る事でもあるのよ」
「ふーん、サフィの親が殺された、その原因が自分にあるとでも思ってるのか」
「……何故、それを?」
「気にすんな。サフィはリーバルンもおめえも恨んでねえよ。あいつはもっと器が大きい――まあ、直接聞いた訳じゃねえから推測だけどな」
「……ありがとう」
「ルンビアもあいつが育てているからには心配ない。きっと気立てのいい子供だぞ」
「何だか希望が出てきたわ。本当にありがとう。雷獣――もうここでいいから。何かお礼をしたいけど、今はこの護身用の短刀しかないの」
「それはルンビアのために取っておけよ」

 
 ナラシャナは雷獣と山道の途中で別れた。山を降りかけた雷獣が振り向き、言葉をかけた。
「ナラシャナ」
「はい」
「……いや、何でもない。気を付けて行けよ」
「ありがとう。さようなら」

 雷獣は山道を登っていくナラシャナの後ろ姿を見送った。
「魂の炎が……消える前の最後の煌きか」

 

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