目次
2 サフィの奇蹟
「母さん、お手伝いすることはありますか?」
「大丈夫よ。あなたも疲れているだろうから休みなさい」
「……ちょっと外に出てきます」
「はいはい。いつもよりも夕飯は遅くなるけど、がまんしてね」
サフィは外に出た。一度だけリーバルンに連れられてホーケンスまで降りて行った事があったが、その時は数時間かけてゆっくりと歩いた。
今日は事情が違う、できるだけ早く着かなければ。
サフィはサンダルの足紐を締め直して、夜の闇の中に飛び込んだ。
灯りのない夜の山道は危険だった。何度も岩につまずき、体中にすり傷をこしらえた。一度はバランスを崩して、転んだ目の前に深い谷底が口を広げていた。
足のマメがつぶれ、もうこれ以上は走れそうもなかった。遠くからイワトビオオカミの吠え声が何度も聞こえた。
このまま、狼に襲われてしまうのだろうか。空が飛べれば、こんな道あっという間に越えるのに。ああ、マーよ。私に力をお貸しください。
サフィは最後の力を振り絞って、でこぼこの道を走り始めた。途中で大きな石に蹴躓き、体が宙に浮き上がった。
地面に叩きつけられると覚悟したが、背中が地面に触れる感触がなかった。サフィはこわごわ、自分の足元を見た。
仰向けの姿勢のままで宙に浮いていた。空中でゆっくりと足を降ろし、前に進んでみた。
文字通り、飛ぶように走る事ができた。途中で何度か体の制御を失いかけたが、次第に体が感覚を掴んでいった。わずか十分ほどで、ちらちらとホーケンスの街の灯りが見えた。
サフィはこの力を与えてくれた創造主マーに感謝の言葉を述べながら、ホーケンスの市内に入った。
目指す世界の中心亭は街の中心に位置していた。行き交う人たちは、足と言わず、肘と言わず、泥と血だらけになっているサフィを、危ないものでも見るかのように避けて通った。
サフィが扉を開けると、一番奥にいたトイサルと目が合った。トイサルは訳のわからないものを見るような顔つきをしていたが、すぐに手で「裏に回れ」と合図をした。
厨房の奥の裏口に回るとトイサルがドアを開けて、中に引き入れた。
「お前、確か……リーバルンと一緒に来た小僧だよな?」
「はい。サフィです」
「『ミサゴの神童』ってずいぶんと評判だぜ――それにしてもどうした。傷だらけじゃねえか?」
「リーバルン様に急ぎ、お伝えする事があって」
「……お前、灯りも持たずにミサゴから降りてきたのか。よく死ななかったな――だが残念ながらリーバルンはいないぞ」
「そうですか」
「まあ、上がれよ。色々、理由ありみたいだしな」
サフィは個室で怪我の手当をしてもらい、温かいミルクをごちそうになって、ようやく人心地がついた。
「で、どうしてお前はリーバルンに会いたいんだ?」
「はい……」
「大丈夫だよ。おれはお前たちの味方なのわかってるだろ。言ってみろよ」
「はい。実はリーバルン様のお子様がお生まれになりました」
「何、そりゃ大変だ――だがどうしてミサゴのお前が?」
「プトラゲーニョ将軍が女性の方をお助けして、その方がミサゴに運ばれてきました」
「……何だか、面倒くさい話だな。で、その女は自分の名前を言ったのか?」
「いえ、でも、あの方はナラシャナ様です」
「さすがだな――生まれてからたった千五百日とは思えない観察力と推理力だ」
「もうすぐ二千日になります」
「まあ、どうでもいい。確かにその女はナラシャナだな。最近、来ないんで気にはしてたんだが――そんな状況だったとはな」
「早くリーバルン様にお伝えしたいんです」
「ああ、わかってるがリーバルンは未開の森に行ったきりらしいから今日は来ない。護衛のスクートならホーケンスに来てるはずだ。今、呼びに行かせるから待ってろ」
トイサルは従業員の一人を呼び、スクートのガールフレンドの家まで彼を呼びに行かせた。
「ああ、スクート様がいらっしゃれば安心です」
「そんなに安心でもねえだろ。あいつはおっちょこちょいだぞ――それにしてもお前、何時間かけて降りてきたんだ。これからミサゴに戻るのは無理だろう」
「三十分くらい前です」
「馬鹿言え。昼間だって三、四時間かかるんだ。三十分って、空でも飛ばない限りは無理に決まってる」
「空を飛びました」
サフィは精神を集中してから、トイサルの前で空中に浮いて見せた。
「……驚いたな。『持たざる者』からお前みたいな人間が出るなんて。神童どころの騒ぎじゃなく、救世主になれる存在じゃねえか」
「救世主……ですか?」
スクートが個室に入ってきた。
「何ですか。いきなり呼びつけて――あ、すみません。親子の語らいって雰囲気でもないですねえ」
「おお、スクートか。こいつはサフィ、ミサゴの住人だ」
「……サフィ、どこかで――ああ、リーバルン様がよく言っておられる持たざる者の子供か。こんな場所で何してるんだ?」
「色々、理由があってよ」
トイサルがサフィに代わって答えた。
「急いで未開の森に戻って、リーバルンに伝えてくれよ。大至急、リーバルンとミサゴに向かってほしいんだよ。どうだ、頼まれちゃくれねえか?」
「いや、急に言われても。何が起こったのかわからなくちゃ、返事のしようがないですよ」
「そりゃそうだな。いいか、落ち着いて聞けよ。リーバルンの恋人がミサゴで子供を産んだ。プトラゲーニョがどっかで倒れてたのをミサゴに連れて来たらしいんだ。」
「えっ、えっ……えー!そりゃあ大変だ」
「だろう。だから早いとこ、リーバルンに知らせたいんだよ」
「……全く、ポワンスのばあさんは何やってんだか――わかりましたよ。大急ぎで戻りますよ……ところでサフィ、君はどうやってここまで来たんだ?」
「ようやく、そこに思い当たったな。この小僧はよ、ナラシャナの事を伝えるために、ここまで飛んで来たんだよ。途中までは走ったらしいが、体中傷だらけになるわ、もうだめだ、このままイワトビオオカミに食われちまうと思ったら、空を飛べるようになったって話だ」
「……そんな、馬鹿な。翼を持たない者が空を飛べる訳ないじゃないですか?」
「まあ、信じる信じないはお前の勝手だ。それより早く出発してくれよ」
「わかりましたよ――でもサフィ、君はどうやってミサゴまで帰るつもりだ?」
「スクート様、心配なさらないでください。一人で帰れますから」
「あ、ああ。それじゃあ、行ってくるよ。ミサゴに行けばいいんだな?」
「そういう事だ。よろしく頼むぜ」
スクートが出ていき、トイサルが夕食を用意してくれた。
「早く帰らないとお前の親が心配するだろうが、腹ペコじゃ空も飛べない。特製ソーセージの入ったパナだ。途中で食え」
サフィはトイサルに礼を言って店を出た。さすがに大都会で、まだ広場には人がたくさん出歩いていた。
できるだけ人のいない場所で精神集中し、えいっと大地を蹴った。サフィの体は宙に浮き、ミサゴの方角を目指してゆっくりと飛び出していった。
ミサゴに戻るとコニが心配そうに待っていた。ニザラはまだプントの家にいるようだった。
「ああ、サフィ。どこ行ってたんだい、そんな怪我して。将軍にお出しした夕食の片づけがあるから手伝っておくれよ」
「あの方は?」
「食事をお取りになって眠られてるよ。サフィの食事はもうちょっと待ってておくれ。順番にこなすからね」
「母さん、それなら心配ないです。これを」
サフィは腰の袋からトイサルの持たせてくれたサンドイッチによく似たパナを出した。
「これを一緒に食べましょうよ」
「これは……どうしたんだい、このパナ?」
「ホーケンスのトイサルさんに持たせてもらいました。どうしてもリーバルン様にお伝えしないといけないと思って、ホーケンスまで行って来たんです」
「また、この子ったら。たったの一時間ちょいじゃ、ホーケンスに行って帰ってくるなんて無理に決まってるでしょ――でもせっかくだから頂きましょうか」
サフィはコニとパナを分け合い食べた。ホーケンスのトイサルにもらったのを信じないコニは、しきりに「このソーセージは美味しい」、「これならお金を払ってでも食べたい」と唸っていた。
食事が終わってしばらくすると、ニザラが真っ青な顔をしてやってきた。
「コニ、二人分のお茶を用意してくれ……あと、サフィ、プントの家まで来なさい」
プントの家にはリーバルンとスクートが到着していた。
「あ、あれ、サフィ――どうして、ここにいるんだい?」
スクートが素っ頓狂な声を上げ、リーバルンが小さく笑った。
「言っただろ。サフィは空を飛んだんだ。そうだろ、サフィ?」
「はい」
「そんなバカな。空を飛べる持たざる者なんて聞いた試しがないですよ」
「ははは、そこがサフィの神童たる所以さ――それよりナラシャナの所に行ってもいいかな」
「は、はい」とニザラが恐縮しながら言った。「プトラゲーニョ様は入れ違いでもう帰られましたが、明日また来ると言われておりました」
「うん、わかった。礼を言わなきゃいけないし――さあ、サフィ、君も恩人の一人だ。一緒に行こう」
「はい」
リーバルン、スクート、プント、ニザラ、そしてサフィが次々に家に入った。
リーバルンは微笑んだまま、ナラシャナの眠る床に近づいて腰をかけ、その手に優しく触れると、ナラシャナが静かに目を開けた。
「……リーバルン様。ご迷惑をおかけしました」
「ううん、私こそ謝らねば。一人にしてしまい心細かったろう」
「いえ、皆さんが良くして下さって――それよりも赤ちゃんを抱いてあげて下さい。立派な男の子です」
「わかった」
リーバルンはナラシャナの隣ですやすやと寝息を立てる赤ん坊を愛おしげに抱き上げた。
「これが……私たちの子か」
「リーバルン様。その子に、私たちの子に名前を付けて下さいませんか?」
「ナラシャナ、いつも話をしていただろう。二人の間に女の子が生まれたなら名前はサリカ、男の子が生まれたなら――」
リーバルンは手を伸ばし、赤ん坊を頭の上に掲げ、高らかに宣言した。
「――お前の名は、ルンビアだ」
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