1.1.2.1. 比翼山地

 1.1.2.2. 希望の光

 

1 比翼山地

 大陸の北西、『比翼山地』の最も高い峰に通称『山鳴殿』が鎮座している。険しい斜面をいくつも乗り越え、突然視界に飛び込んでくる石造りの建物はまさに神秘という表現がふさわしかった。
 その建物は翼ある者の住居にふさわしく、屋根が極力排除された吹き抜けのような作りになっていた。雨風をしのぐためだけに屋根があり、王宮の人々は建物の中を自由気ままに飛び回った。

 宮殿の主、白き翼の王、アーゴは日に焼けた逞しい体をローブに包み、頭には色取り取りの羽根飾りをつけていた。玉座に腰掛けたアーゴの傍らには黒き翼の老雄プトラゲーニョが立ち、一人息子のリーバルンがアーゴと向かい合って立っていた。

「プトラゲーニョ。リーバルンも七千五百昼夜式典(およそ二十五歳)の節目を迎えた。わしはそろそろ次の代の事を考えようと思う」
 アーゴは唐突に言った。
「父上、私はまだ――」
 父と同じ白い翼を背に生やしたリーバルンが途中まで言いかけたのを艶めく黒い翼のプトラゲーニョが目で制した。
「我が君よ。確かにリーバルン様は頭脳明晰にして武勇にも優れ、王になる素質は十分かと存じます。ただまだ経験が足りないのではないかと考えますが」
「ふむ、わしがワンクラール王の下に乗り込んだ時とは時代が違うか」
「左様で。今はつかの間ではありますが平穏な世。この平穏をより確固とした平和に変えていくために君主に望まれるのは、失礼ながら我が君がお見せになったような勇猛さだけではないのでは」
「ふはは。相変わらずプトラゲーニョは厳しいな……ではこうしようではないか。リーバルン、明日から各地を見て回れ。そして民の考えを直接その肌で感じ取るのだ。スクートを護衛につけよう」
「かしこまりました」
 リーバルンは端正な顔をほころばせてから、軽く頭を下げた。
「父上。各地とおっしゃられたのは領内は言うに及ばず、ホーケンスもキャンプも……他の王の支配地や南部も含めた全世界という意味でしょうか?」
「難しい質問をするな、リーバルン」
 アーゴは片方の眉を吊り上げた。
「ホーケンスはもちろんだ。南部についてはお前があの地を平定すると言うならそれも良かろう。だがミサゴのキャンプで『持たざる者』の意見まで聞くつもりか?ましてや他の種族の支配地に行くのはまかりならん。いたずらに敵勢力を刺激してどうする」
「……わかりました。明日よりスクートと共に視察を開始いたします」

 アーゴが席を立って去ったのを見届けてからプトラゲーニョが口を開いた。プトラゲーニョはアーゴの父、リーバルンにとっては祖父に仕え、部族間紛争の際に獅子奮迅の働きをした英雄だった。今はやせ細っているが、その眼光は、「ハゲワシ」と呼ばれ、恐れられた若い頃のままの鋭さを保っていた。
「全く何を言い出すのやら。ひやひやしたぞ」
「いけない事言ったかい?」
「まあな。王たる者が奴隷の生活を見たいなどとは驚天動地……もっともわしもたまにミサゴのキャンプを訪れるがな」
「プトラは私が間違ってるって思うかい?」
「わしは、我が君ほど現実主義者でもなければ、お前ほど理想主義者でもない。お前が道さえ踏み外さなければ何をしても良いと思っている」
「……道?」
「明日からの視察で見えてくる事が多々ある。全てはそれ次第だ」
 プトラゲーニョも行ってしまい、リーバルンは自分の寝室に戻った。

 
 寝室に行きかけて立ち止まり、再び歩き出した。夜勤の使用人の詰め所の前まで行き、そこに入っていった。
「ニザラはいるかい?」
 いきなり声をかけられた夜勤の男は座っていた椅子から転げ落ちそうになった。
「こ、これはリーバルン様。何か粗相でも?」
 男は立ち上がって最敬礼で答えた。
「いや、そうじゃないんだ。ただニザラがいるかなと思ってね」
「見回りに行っております。戻り次第、すぐにお部屋に向かわせますので、どうか御自室でお待ち下さい」
「……じゃあ、よろしく頼むよ」

 
 ベッドに入って読書をしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「やあ、ニザラ。入りなよ」
 リーバルンは気さくに声をかけ、一人の男が部屋におずおず入ってきた。くすんだ緑の服を着て、伏し目がちで気が弱そうな中年男に見えたが、それはただ長い間感情を押し殺すのに慣れてしまっただけで、瞳の奥には強い光が宿っていた。

「リーバルン様、不手際がありましたでしょうか?」
「いやいや、そうじゃないよ。どうして皆、そういう風に言うのかな?」
「……では何を?」
「ニザラ。君の次の休みはいつだい?」
「はあ。五昼夜後でございます」
「その時にはコニと一緒にミサゴのキャンプに戻るんだろう?」
「そうするつもりですが……」
「わかった。それじゃあこうしよう。キャンプに戻る前にコニと一緒にここに寄ってくれないか」
「はあ」
「頼んだよ。約束だからね。お休み」
「お休みなさいませ」
 ニザラは理解しかねるような調子を声に含ませ、部屋を後にした。

 
 翌朝からリーバルンの視察が始まった。お供のスクートと共に領内を飛び回り、様々な人と話をした。
 視察を開始してから三昼夜が過ぎた日、空を飛びながらリーバルンが言った。
「スクート。今日はもうちょっと東に行ってみよう」
「でもリーバルン様、これ以上、東に行くと『水に棲む者』の支配地に入ってしまいますよ」
 少し軽薄な感じのするこの若者は茶色の翼に流行りの派手な色合いのビーズをいくつも付けていた。
「地図の上ではどちらの支配地にもなっていない一帯があるようだけどな」
「『清廉の泉』ですね。あんな所に行っても何もありませんよ。万が一、水に棲む者に出会っても面倒くさいだけですし、止めときましょうよ」
「だったら君だけ領内に留まっていればいい。一人で泉に行くから」
「だめですよぉ。そんな事がばれたらプトラゲーニョ様に怒られちまいますよ」
「ばれなければ怒られないだろう。大丈夫だよ。私だって子供じゃない。無茶はしないさ」
「でもなあ」
「さあ、もうすぐ着くよ。君はこのへんにいて、一時間経っても戻らなかったら、その時は探しに来ておくれ。じゃあまた後で」
「あ、リーバルン様」
 スクートが声をかける間もなく、リーバルンは東へと飛び去った。
「待って下さい。おれも行きますよ」

 
 降り立ったのは薄い靄の垂れ込めた岩場だった。近くに湧き水でもあるのか、かすかな水の音が聞こえた。
「スクート、この匂いは一体何だい?」
 リーバルンは降り立った時から漂う鼻をくすぐる香りの正体を尋ねた。
「何かの薬草じゃないですか?ここの泉の水は体にいいらしいですから」
「ふーん、泉に行ってみよう」

 泉には先客がいるようだった。遠くから話し声や小さな笑い声が聞こえた。
「リーバルン様、まずいですよ。誰かいる――」
 スクートが言いかけたのをリーバルンは指で制し、岩陰からそっと泉を覗き込んだ。
 ちょうど靄が晴れ、水と戯れる一人の若い女性とそれに付き添う老婦人の姿が目に飛び込んだ。女性は水色のドレスを着て、亜麻色の長い髪を揺らしながら、楽しそうに老婦人と語らいながら足の甲で水を蹴飛ばしていた。リーバルンはその美しさに一瞬で心を奪われ、息をする事さえ忘れてしまいそうだった。
 その時、後ろにいたスクートが砂利に足を取られ、大きな音が立った。泉にいた二人が音に驚き、付き添いの老婦人が大きな声を出した。

「誰ですか。そこにいるのは。出てらっしゃい」
 リーバルンはすまなそうに頭を下げるスクートに「やれやれ」という表情をして、泉に向かって歩き出した。
「失礼をいたしました。そちらのご婦人があまりにも美しかったので見とれてしまったのです」
 リーバルンは恭しく頭を下げた。
 若い方の女性が何か言おうとする前に付き添いの老婦人が眉をしかめて言った。
「お嬢様。この男たちは『空を翔る者』、こんな野蛮人を相手にしてはいけません。すぐに戻って人を呼んで来ます」
「まあ」
 若い女性は鈴を転がすような美しい声を出した。
「それはおかしいわ、ポワンス。だってこの泉はどちらの領土でもない中立の地。どなたが来られてもいいはずでしょ」
「いえ」
 ポワンスと呼ばれた老婦人は困った顔で言った。
「中立地とはいえ、この場所は水に棲む者のためのもの。羽根のある野蛮人に清廉の泉の効能などわかるはずがありませんもの」

「あなた方」
 若い女性はポワンスに取り合わず、尋ねた。
「お名前は何とおっしゃいますの?」
「はい」
 リーバルンは顔を上気させて答えた。
「私はリーバルン。後ろにいるのが護衛、いえ、友人のスクートです。差し支えなければあなたのお名前も教えて頂けませんか?」
「まあ、何てあつかましい。お嬢様、答える必要なんて――」
「ナラシャナと申します」
「ナラシャナ……素敵なお名前です」
「ありがとうございます。リーバルン様」
「さ、お嬢様、もう参りましょう。こんな者たちと話しても何の得にもなりません」
 ポワンスはナラシャナの手を取り、強引に東の海の方へと引っ張っていった。
「ナラシャナ」
 リーバルンが再び周囲を包み出した靄の彼方に消えようとするナラシャナに向かって声をかけると、ナラシャナのシルエットは動きを止めた。
「また、会ってもらえないでしょうか?五昼夜後、同じ時刻にこの場所で」
 ナラシャナの姿は東の海に消えた。だがリーバルンは自分の問いかけに対してシルエットが頷いてくれたような気がした。

 
 リーバルンが泉のほとりに佇んでいるとスクートが声をかけた。
「ここにいたらまずいですよ」
 スクートはリーバルンの顔を覗き込んだ。
「わっ、何を呆けてるんですか?」
「ああ、スクートか」
 リーバルンはようやく我に返った。
「大丈夫だよ。あちらが襲撃してきたりはしないよ。彼女は誰にも口外しないさ」
「えっ、でももう一人のばあさんが言いつけるかもしれないじゃないですか。全く言いたい放題、言いやがって」
 スクートが口を尖らせるのを見てリーバルンはにこりと笑った。
「スクート。よく我慢したね。偉かったよ」
「そりゃどうも……って、そんな事より早いとこ領内に戻りましょうよ」

 
「ここまで来ればもう安心です」
 領空に戻って、スクートが安心したような顔を見せた。
「……スクート。君にお願いがあるんだけどな」
「はい、何でしょう」
「まず一つ。今日の一件は誰にも言っちゃいけない。いいね」
「……そうはいきませんよ。プトラゲーニョ将軍には逐一、報告するように言われてますから」
「ああ、そう。だったら私もプトラに言わなきゃならない事があるんだ。ある親衛隊の若い兵士が勤務中にも関わらず、ホーケンスに暮らすガールフレンドの家に足繁く通ってるってね」
「リーバルン様、どうしてそれを……って言うか、これ、脅迫ですよね」
「どう取ってもいいよ。でもプトラは怒るだろうなあ」
「……わかりましたよ。誰にも言いません。これでいいですか」
「もう一つお願いがあるんだ。今後の私の視察内容も誰にも言わないでほしい。ううん、視察は私一人でやるから、君はその間、ホーケンスに住むガールフレンドと――」
「リーバルン様」
 スクートはリーバルンの言葉を遮った。
「それはだめです。そんな事したら本当に将軍に殺されます」
「ふーん、だったら私の行く場所に黙って付いて来てくれるかい?」
「……場合によりますねえ。今日みたいのはもう勘弁して下さいよ」
「どうしてだい?他の種族と仲良くなってはいけないのかな?」
「……リーバルン様、ホーケンスは元々、種族の融和を目指してアーゴ様がお作りになった場所ですけどね。もしも空と水の間に子供ができたとしましょう、するとその親も子も生きていくには辛いんだってうちの彼女が言ってましたよ。あのでっかいトイサルがそういう人たちを保護してるから、かろうじて生きていけるような状況らしいっすよ。それが現実なんですよ。王族のリーバルン様がそんな事になったとしたら、どうなると思いますか?」
「……トイサルか。しばらく会ってないなあ」
 リーバルンはスクートの説得を聞いていないようだった。

 

 1.1.2.2. 希望の光

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