目次
1 それぞれの思い
蒲田の嘆き
リンたちが東京に向かっていた同じ頃、蒲田大吾は県警本部の会議室にいた。蒲田の前には内山と名乗るごま塩頭の初老の刑事が座っていた。
「あんたのおかげで大恥かかなくて済んだ。礼を言うよ」
「いえ、当然の事をしたまでです」
「あんた、警視庁の特事班だってな。そこが引っかかるんだよなあ」
「それをお話する前に、僕もお訊きしたい事があるんです」
「ん、何だ?」
「あの日、僕はH島の異変に気付いてすぐに町に引き返し、所轄署に駆け付けました。ところが署員の人たちの動きは鈍かった。いや、鈍いというより、知っていたにも関わらず動こうとしない、そんな風に映りました」
「確かにな。こっちへの連絡もあんたが駆け込んでからしばらく経ってだった」
「何があったんですか?」
「いやな」
内山はそう言うと、会議室の机や椅子の周囲を一通り調べた。
「盗聴機はねえな――実はな、知り合いを一人とっつかまえて無理矢理、聞き出した。どうやら圧力がかかったらしい」
「圧力、どこから?」
「当然署長クラスよりも上だろ。これから数日間、H島付近で起こる事には目を瞑れってよ。その証拠に島の派出所にも誰もいなかった」
「そう言えば電話線も切断されていて、外部に連絡する方法がありませんでした。この現代国家でそんな暴挙がまかり通るものですか?」
「おやおや、特事班ってのはいつでもそんな理不尽を振りかざしてるんじゃねえのかい?」
「ええ、まあ」
「おれの方は全部しゃべったぜ。今度はそっちが話す番だ。あんた、どうしてあの島に行った?」
「たまたまですよ。そうしたら事件に遭遇した、それだけです」
蒲田の答えに納得できないのか、内山は首を大きく左右に振った。
「そんなはずはねえ。詳しくは知らねえけど、あんた、でかいヤマに関わってて公休取る暇なんてねえはずだ」
「特事は捜査権がありませんから暇なんです――って、その顔は信じてませんね。そうですよ。内山さんのおっしゃる通りです。でもよく調べましたね」
「仕事だからな。なあ、特事が乗り出すような大事って何なのよ?」
「本当に今の段階では何もわかっていないんです」
「こっちだって面子があるんだ。助け出された民間人だけじゃなく、現場に踏み込んだ署員たちもしばらくは立ち直れないくらいの酷い状況だったらしいじゃないか。まるで地獄絵図だって言ってた奴もいる。知ってる事があったら教えて欲しいんだよ」
「知っていればいくらでも話します。でも僕のような凡人の理解を超えた事態が起こっているんです」
「あんたも頑固だねえ」
「一つだけお伝えできる事があります。僕は一人の青年をマークしている。東京、山梨、静岡、彼の行く先々で予想もできない事件が起こっています」
「ん、山梨。何だそりゃあ。最近事件があったかなあ」
内山がタバコに火をつけようとした時、会議室の電話が鳴った。
「はい、内山ですが、はあ、警視庁の……はい、はい、いえ、いえ、そんな、はあ、はあ……わかりました。そう致します、失礼します」
火のついていないタバコを指先でくるくる回しながら内山が戻った。
「蒲田さん、うちの上からだ。あんたがさっき捜査会議で話した内容は公表しない。集団食中毒だとよ……ちっ、アタマかち割られて死んでたあの白衣のジジイがホシならば、立派な殺人事件じゃねえか、なあ」
蒲田は内山に少し同情的になった。
「内山さん、東京の事件、山梨のD坂、そしてここ静岡、確実な事が一つだけあります」
「一体、何だい?」
「人間の仕業ではほぼ不可能なんです。東京では人間が十メートル以上の上空から地面に叩きつけられた、D坂では短時間に自動車が百台以上、コンクリートの道路までも拳によって破壊された、H島では内山さんもご存じのように服を着たままの魚とも人間ともつかぬ死体の数々……」
「あんたが追ってる青年ってのがホンボシか?」
「言ったじゃないですか。人間の仕業じゃないって」
「ふふん、わかったぜ。ここまで出張ってきた理由が。あんた、『人外』を追ってるんだな?」
「そういう言い方もありますが、こんな事件の詳細を公表できる訳がない。東京も山梨も事故って事で、目撃者やマスコミには見た物、知った事を口外しないように箝口令が敷かれています」
「ここもその手合か。地方警察の手には負えないな」
「中央だって解決できませんよ」
「……てえ事は」
「NFIでしょうね。僕が真相にたどり着いてそれを報告しても、誰も信じてくれやしません」
真相を求めて
8月10日朝、『都鳥』にはリン、リチャード、オンディヌ、沙耶香が集まった。
「おばさん」とリンが静江に尋ねた。「沙耶香の父さん、糸瀬さんが狙われるのはどうしてか。知っている事があれば教えて下さい」
「あたしにはわからないわ。糸瀬さんに初めて出会った時、リンちゃんのお父さんの源蔵さんも一緒だったけど。その、あたしは源蔵さんにしか興味がなかったし、真由美も……まさかあの件が関係しているはずはないし――」
「あの件?」
「ううん、真由美が別の人を好きだったって話――もう、あれこれ考えてても仕方ないわ。詳しい人間を呼びましょう」
静江はそう言ってカウンター脇に置かれた公衆電話で話を始めた。
「ああ、シゲ。寝てたの。悪いわね、起こしちゃって。『都鳥』まで来てもらえる……ええ、そう。糸瀬さんについて知ってる事を教えて欲しいの……あたしじゃないわ。リンちゃんよ……待ってるわ。できるだけ早くね」
静江は電話を切ってリンたちの下に戻った。
「シゲ、昼前には来るって。それまではどうしようか」
「おばさん、さっきの話だけど、おばさんは父さんを」
「昔の話はいいのよ。それよりも若い刑事さんは?」
「蒲田さんか。きっと地元警察で質問攻めに遭ってる」
「今朝、テレビのニュースで言ってたわ。『H島のホテル、集団食中毒で死者多数』って。何だかリンちゃんの行く所で必ず騒ぎが起こるわね」
「おばさま」と沙耶香が心配そうに声を上げた。「父に直接確かめた方がいいのではありませんか?」
「ええ、それが一番でしょうけど本当の事を言ってもらえるかどうか――それに今は大事な時期なんでしょ?」
「そうですけど――でしたら中原さんに来てもらおうかしら?」
「沙耶香ちゃん……辛い事実を突きつけられるかもしれないわよ。それでもいいの?」
「――構いません。電話お借りします」
集まった人々
二時間後、『都鳥』の扉を開けて入ってきたのは疲れ果てた表情の蒲田だった。
店に入るなり、「文月君、リチャードさん、オンディヌさん」と声をかけたが、静江の姿に気付いて店の隅に三人を呼び寄せようとした。
「いいのよ――二人とも留学生だなんて嘘っぱち、日本語もちゃんと話せるんでしょ。あなたたちが何者かはそのうち聞かせてもらうから」
静江の言葉にリチャードは肩をすくめる仕草をしてカウンターに戻った。
「リチャードさん」
蒲田が席に着き、出された水を一息に飲み干してから言った。
「昨夜の事件についてですが――」
「ああ、少し待ってくれ。これから一連の事件の背景を整理するために静江ママの知り合いが来て話をする。お前もまずはそれを聞いた方がいい」
「若林さんのお知り合い……ですか?」
「ええ、かつては蒲田さんとご同業だった人。今の姿を見たら驚くかもしれないけど」
続いて現れたのは中原老人だった。いつものように隙のない服装で背筋をぴんと伸ばしたまま店内に入ってきた。
「皆様お揃いで。お待たせして申し訳ありません」
中原は沙耶香をちらりと見て微笑むと、テーブル席に座る蒲田に軽く会釈してから空いている席に腰掛けた。
少し遅れてやってきた未知は異様な雰囲気に気付き、静江から「みっちゃん、今日は『準備中』の札をかけて、看板も引っ込めておいて」と言われ、慌てて作業に取り掛かった。
11時を過ぎた頃、ようやくシゲが到着した。大きな黒いバッグを肩から下げて扉を開けたシゲはぎょっとした表情で店内を見回した。
右手のカウンターには手前からリン、知らない若い女性、外人の男と女が腰かけていた。左手の奥のテーブル席では若い男と姿勢のいい老人が黙って向かい合って座っていた。
カウンターの奥から静江が顔を出して言った。
「ああ、シゲ。来たわね。皆がお待ちかねよ。みっちゃん、お水出したら外に行っててくれる?」
「どうも」
シゲは誰も座っていないテーブルに黒い鞄を置いて自分も腰を下した。今日のシゲは化粧もせず、カツラもかぶっていないポロシャツ姿の普通の中年男だった。
「無理言ってごめんなさいね。シゲ、早いけど今日からお盆休みで構わないから」
「その分、給料差っ引くんじゃいやよ。色々準備があったし」
「わかってるわよ」
「冗談よ。一昨日、リンちゃんにそのうち話すって言っといたし、いい機会よ……でも他の方々は?」
「紹介しないとね。まずあんたの向かい側のテーブルでこっち向いてるのが警視庁の蒲田さん」
「あら、西浦さんの所の『何とか事件係』のぼうやね。よろしく」
蒲田は少し照れたような笑いを浮かべて会釈を返した。
「背中を向けてるのは中原さん、糸瀬の屋敷の執事をされてるわ」
「えっ、あっ、そう言えば何度かお見かけした事があったわ。わざわざM町からお越し下さったの?」
中原は立ち上がってシゲに向き直り、深々と一礼をした。
「カウンターの遠い方からオンディヌさんとリチャードさん……お二人が何者かは後で本人たちから説明があるわ。とりあえずリンちゃんの友人ね」
リチャードとオンディヌはカウンターに腰掛けたままシゲに手を振った。
「そしてリンちゃんのお隣のお嬢さんは糸瀬沙耶香さん――」
「ちょっと、ママ。勘弁してよ。当事者中の当事者じゃないの」
「シゲさん……ですか。いいんです。ありのままをお話しして下さい」
沙耶香は立ち上がってシゲの顔を覗き込むように懇願した。
「仕方ないわね。そこまで心の準備ができてるんなら――」
「シゲさん」とリンが口を挟んだ。「大丈夫。何があっても沙耶香は僕が守るって決めたんだ。僕たちは糸瀬さんがどういう人物で、何故狙われるのか、それを知りたい」
「まっ、生意気言って。じゃあ準備するわね」