2 ジウランのエピローグ

 3 デズモンドのエピローグ

1 初夏の東京

 疲れていたが嫌な疲労感ではなかった。
 マリスと聖堂の前で別れたが、じいちゃんはすでに病院に運ばれた後だったので一人だった。

 そう言えば今日は何日だろう。

 こちらに戻って以来、目が回るような忙しさだったため、日付の確認すら忘れていた。
 何気なくポケットを探るとキーが出てきた。

 これは……大森のアパートの鍵?

 不安な気持ちでいっぱいになった。
 大森のアパートを解約してビーチハウスに移ったのが確か七月だったから、六月の末?
 あのリンのいない世界で起こった事はまだ、起こっていないとなると……

 気が付けば六本木の駅まで坂道を降りていた。
 どうしよう。大森を目指すか、それとも

 JRの駅に行こう
 地下鉄を乗り継いで、有楽町線でI駅まで行った。
 ここからならばM町まで歩いていけるはずだ。

 
 地上に出た。
 暑い日になりそうだった。
 大通りを歩きながら考えた。
 世界はどんな風に元に戻ったんだろう。
 知った所で胸のつかえが取れる訳ではないのもわかっていたが、それでも二つの世界を知る数少ない人間としてそれを確認するのが自分の務めだと思った。

 幹線道路を注意深く観察しながら歩いた。
 左手には素敵な日本庭園のあるホテル、右手には有名な教会
 変わった点は見当たらないように思えた。
 でも本当にそうか、何か重大なものを見落としているのではないか

 
 屋敷の前に着いた。
 気合を入れ直し、表札を覗き込んだ。
 錆び付いた表札には、かろうじて「佐倉」という字が書いてあるのが読み取れた。

 屋敷は無人だった。庭は草がぼうぼうに伸び放題で、二階の丸窓には板が打ち付けられていた。
 もしも今が六月なら、ここで中原さんに会うはずだったが、やはりそんな事はなかった。
 門に貼られた「管理地」の看板が物悲しさを感じさせた。

 
 萎える気持ちを奮い起こして次の目的地を目指した。
 山手線で新宿に向かい、そこから花園神社に向かって歩いた。
 じいちゃんが足繁く通った店、「シルクワーム」、あちらの世界ではシゲさんがあんな状態になってたから存在しなかったけど、こっちにはあるはずだ。

 小さな店の看板が目に入った。
 まだ日の高いこの時間では当然営業していなかったがシゲさんの店に間違いなかった。

 安心して余裕ができ、花園神社に入ってベンチに腰掛けた。
 いつの間にかチノパンの中に入っていた携帯を取り出して画面を開いた。

 6月XX日 金曜日、やはり冒険が始まった頃の日付だ――

 SNSをやっていなかったのでメッセージとメールをチェックした
 未読38通
 全てチェックするのは面倒くさかったので最新のものだけを確認する事にした。

 立川菜花名

 一瞬心臓がチクッとしたが、恐々中身を確認した。

 

 最近あまり会う機会がないけど、明日の件忘れてないよね?
 麻布十番駅に11時
 美味しいランチの店、知ってるんだ

 じゃあ、また明日

 

 メールを読み終えて軽い絶望感に襲われた。
 何も変わっていないのか?

 ふらふらと立ち上がり、神社を後にし、再び『シルクワーム』に向かった。
 店の扉が開け放たれ、店内に人がいるようだった。
 意を決して中に入った。

 
 着流しの男性が背中を向けてカウンタに座り、ジャズを聴いていた。
「あら、お客さん。まだ開店してないのよ。ごめんねえ」
 そう言いながら振り返った男は、野太い声で「げっ」と小さく叫んだ。

「……あんた。外人っぽいって事はモンドちゃんの関係者?」
「そうです。孫のジウランです」
「あら、やだ。こんないい男がいたなんて。あたし、モンドちゃんから乗り換えちゃおうかしら……って、あんた、大丈夫。泣いてるじゃない」
「……ええ……だって……シゲさん、生きてるから」
「当たり前じゃない。何言ってるのよ。一体いつあたしが死んだのよ」
「……あっちの世界の……シゲさんは……伊豆の施設に入ってて」
「あら、やだ。気持ち悪い。ちょうど今、施設のパンフレット見てたのよ。そろそろ隠居しようかなあなんて。そんな事より何よ、『あっちの世界』って?」
「……それは……」
「いいわよ。モンドちゃんの孫だからどうせ変な体験してるんでしょ。いいから話してごらんなさい。ビール、おごるわよ」

 
 目覚めたのは大森のアパートの自室だった。
「あれ、昨夜はシゲさんと話をして、大分飲まされて、よく覚えてないや」
 慌てて携帯の画面を開き、時間を確認した。
 まずい、シャワー浴びるとギリギリだ

 朝食も取らず駅に向かい、五反田まで出た。そこからバスに乗り、麻布十番に着いたのが11時ちょうどだった。
 駅前に立っていたのはいつものカジュアルな服装ではなく白のワンピースにハイヒール姿のナカナだった。
「カメラ持ってきた?……まあ、いいか。携帯で撮れば」

 やはり一緒だ……
 麻布十番から六本木に向かう途中にある食堂でシンガポールチキンライスを食べる間もあまりしゃべらなかった。
「どうしたの?」

 何も変わっていない、あっちの世界と同じだとは答えられなかった。
 その場を取り繕うためにナカナが普段と違って見えるからと答えた。
「いやだ、あたしだってたまにはこういう格好するんだから」

 
 六本木のアートスペースは盛況だった。受付にいた先輩の二見浦に挨拶に向かった。
「よく来てくれたね」

 そう言うと二見浦先輩はぼくだけを会場の端に引っ張っていった。
「ジウラン、悪かったな。使い走りみたいな事させて」
「えっ?」
「ほら、おれたち、付き合い始めたばかりだろ。一人で来させるのも何だし、同学年のお前のエスコートなら安心するかなと思ったんだ」
「あの、誰をです?」
「何言ってんだよ。お前、菜花名ちゃんを連れてきてくれたじゃないか」
「……、……ああ、そうですか。そうですね。はい、確かに連れてきました」
「お前も用事あるだろ。もういいよ、お役御免で。今度メシおごるからさ」

 
 一人の帰り道、六本木ヒルズのオブジェの下のベンチに座って考えた。
 世界は変わっていた
 まさか、ナカナが先輩と付き合うなんて

 これは喜ぶべき事なのか、でも自然と笑顔がこぼれた。
 そう言えば、じいちゃんに昨日の朝以来会ってなかった。
 蒲田さんの話では大怪我を負ったらしかったが、その日の内に簡単な治療を受けて、今はビーチハウスにいるらしかった。

 ぼくもそろそろ自分の一番大切な物がどうなったか、それを確かめないと
 ベンチを立って駅に続く長いエレベータに向かって走った。

 

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