6.1. Story 2 邂逅

 Story 3 破壊

1 文月凛太郎

 

文京区M町

 夕方、リンは文京区のM町のお屋敷街にスクーターで乗りつけた。「文月凛太郎様」と達筆で記された封筒を開け、中原老人のくれた地図で場所を確認してからスクーターを近くの電柱の脇に停めた。
 屋敷の正面には「佐倉」と「糸瀬」という二枚の立派な表札がかかっていた。門の所に立っていた目つきの悪い男に中原からの封筒を見せると、男は門の中へ消え、すぐに別の男と一緒に現れた。
 男たちはリンを値踏みするようにじろじろと見回した。

「屋敷は池袋修蛇会が守ってる。小僧が来る所じゃねえぞ」
「沙耶香さんの警護を頼まれたんです」
 新宿だけじゃなく池袋にも蛇の会があるのか、手広くやってるな――グレイトフル・デッドのTシャツ、短パンにビーチサンダル姿のリンはそんな事を心の中で思いながら落ち着いた表情で答えた。
「ふん、お嬢ちゃんのお守りか。せいぜい足を引っ張らないようにしろや」

 リンは少しムッとし、十秒ほど集中をしてから”自然(じねん)”と心の中で唱えた。
 目の前の男たちは突然リンの姿が消えたのに慌てふためき、きょろきょろと周囲を見回した。
 その隙にリンは門の中に入り、自然を解いた。
「こっちですよ」
「てめえは忍者か」
 いつの間にか敷地内から手を振るリンに目を丸くした男は、気まずそうな表情でリンを屋敷の玄関まで案内した。

 
 二階建ての古い洋館の玄関の前では中原老人がぴんと背筋を伸ばして待っていた。
 中原は恭しく一礼をした。
「お待ちしておりました。ご無理を言って申し訳ありません」
「さっき、父がどうとか言ってましたけど」
「全く覚えてらっしゃいませんか。まずはお嬢様の下へご案内致します」

 

沙耶香

 中原は古い洋館の階段をぎしぎしときしませながらリンを二階へ案内した。二階の部屋では一人の少女がこちらに背を向けてピアノを弾いていた。

 リンはしばらくピアノに聞き入った。演奏が終わり拍手の音で少女はリンの存在に気づき振り返った。長い黒髪に憂いを秘めた黒い瞳、抜けるように白い肌をしていた。白いブラウスに黒のスカート、どこからどう見てもお嬢様だった。

「いらしていたのなら言って下されば。文月凛太郎様ですね」
「沙耶香さんですか?」
「はい、この度はわがままを言って申し訳ありません」
「いえ、大した事ではないです。ところで家の外にいる目つきの悪い人たちは何ですか?」

 沙耶香の横で鶴のように立つ中原が口を開いた。
「主人の糸瀬は数日前からあの方たち、何という名前でしたか、に警護を頼んでおりました。ところが今朝、外で見張りをしていた七、八人が瀕死の重傷を負った状態で発見されたのです。糸瀬は密かにTホテルに移りましたが、納まりがつかないのは彼らです。仇を討とうとあのように二十人以上を送り込んで参りました」
「警察に届けないんですか?」
「さあ、そうしたくない理由があるのでしょう」
 中原は口の端をほんの少しだけ歪めて微笑を浮かべた。察するに糸瀬博士も修蛇会も同列のようだった。

「沙耶香さんは一緒に避難されなかったんですか?」
「それにつきましては……」
 それまで律儀に答えを返していた中原が珍しく言い淀んだ。聞いてはいけない事だったのかとリンが後悔していると沙耶香が口を開いた。
「私、外出ができないのです」
「お嬢様」
「いいえ、中原さん。知っておいて頂かないと」
「……それは」
「幼い頃にとても強い衝撃を受け、それがトラウマになったのだとお医者様はおっしゃっています。外出するとどこかに連れていかれるのではないかという強迫観念に駆られて、動悸が早くなり、呼吸が困難になってしまう有様なのです」
「変な事訊いてごめんなさい」

 リンは謝ってから沙耶香の顔を見た。どこといって普通の人と変わらない、いや、色白の美少女がそんな苦しみを味わうなんて理不尽な世の中だ。心の中で憤りに近いものを感じたが、目の前の沙耶香は達観しているのか穏やかな表情のままだった。

 訪れた気まずい沈黙を破るように中原が再び口を開いた。
「あの時以来なのです、文月様。ここにお呼び立てした理由は警護はもちろんですが、文月様であればあの時の軛からお嬢様を解き放って下さるのではないかと期待しているからでございます」
 また訳のわからない話だ、リンが沙耶香の方をちらっと見ると沙耶香も不思議そうな表情で中原を見つめていた。
 お気の毒に、少しぼけてるのかな、立派な佇まいの紳士なのに。リンがぼんやり考えていると中原が今度は半分涙声になって告げた。
「取り乱して申し訳ありませんでした。とにかく糸瀬にとって沙耶香様は厄介者、沙耶香様はこの屋敷に取り残されたのです」
 リンはまだ会った事のない糸瀬博士の人柄を想像して少しあきれた。

 
「文月様、あの」
 中原が去り、二人きりになると、沙耶香がリンに話しかけた。
「リンでいいです」
「はい、リン様。先ほど中原さんがあのように申しておりましたけど誤解なさらないで下さいね。父は今とても大事な時なのです。ですから今回の件も私が足手まといになってはいけないと納得しております」
「わかりました。沙耶香さんは優しいんですね」
 中原と通いの家政婦が二人分の夕食を運んできて、何も起こらないままに夜は更けていった。

 

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