9.8. Story 3 終わりのない坂道

 ジウランの航海日誌 (16)

1 リンを守る者

 源蔵は水筒をかたかた言わせながら、ロビーのハクたちや中原がいる場所とは反対側のソファに腰かけ、ソファの脇の新聞を読み始めた。
「親父の姿が見当たらないな」
「様子からすると、行方不明という訳ではなさそうだけれど」

 ハクの言葉通り、源蔵は遅れてやってくるリンを待っているようだった。
 そのまま五分近く経った所でロビーに動きがあった。
 客室係の男性がフロントに何事かを告げた後、ハクたちの横に腰掛ける中原に近付き、やはり何かを告げた。
 中原は大きく一つ頷いてから立ち上がり、客室係に案内されてロビーから去った。

 
「どうしたんだろう?」
「あの様子じゃあ、お袋は見つかってない。多分、警察に届けるな」
「心配だな。しかも父さんも現れていない」
「俺、ちょっと親父の部屋の様子見てくるわ。ハクはここにいてくれ」

 更に三分近く経ち、さすがに源蔵は新聞を読む手を休め、そわそわし出したようだった。
 客室エレベータが降りてきて扉が開き、コクが顔を出した。ハクと目が合うと、「開」ボタンを押したままで来るように合図をした。
 落ち着きなくソファに座っている源蔵の背中を横目に、ハクはエレベータに飛び乗った。

「どうした?」
「……」
 コクは無言で「5」のボタンを押し、エレベータは上昇した。

 まだ室内清掃も来ていない早朝の静まり返った廊下を歩きながらコクが言った。
「部屋に入ってみた」
「えっ、お前。どうやって」
「こうやってさ」
 コクはリンの部屋の前までくると、針金のようなものを使って器用に開錠した。
「昔の悪い仲間、チャパが教えてくれたんだ。電子錠なら雷一発だが、こういった原始的な錠前の開け方はやっぱ原始的になる」
「それより父さんは?」
「まあ、中に入って話そうぜ」

 
 ハクは部屋の様子を観察した。
 少し乱れた無人のダブルベッドの布団、洗面所の前には室内履きが置かれ、洗面所の中のユニットバスはまだシャワーの水で濡れていた。
「……父さんの持ち物は?」
「確か青っぽい水筒だけだったと思うが、ここにはないな」
「父さんはすでに外に出た?」
「客室エレベータは一か所しかなくて、ずっとお前がロビーにいたんだ。会っちゃいないだろ?」
「ああ」
「万が一って事もある。俺はこの上の階のお袋の部屋も入ってみたんだ。そっちも同じような状況だった。お前が盗み聞きしたようにお袋は熱出してたんだと思う。おでこに乗せてたタオルがそのまんま、ベッドの上に置いてあった。だが部屋着は脱ぎ捨てられてたから、お袋も出かける用意だけはしてたんだろうな」
「しかし母さんもロビーには降りてきていない。という事は父さんも母さんも行方――

 
「そこで何をしているんですか?」
 二人の会話は唐突に遮られた。いつの間に部屋の鍵を開けたのか、そこには源蔵が立っていた。
「いえ、これには事情がありまして――」
「おや、あなたは昨夜の……息子はどこにいますか?」
「それが……いないんです」
「……どうも怪しいですね。私はロビーで待ってたから降りてはいないんです。息子は、リンはどこですか?」
「落ち着いて下さい」
「勝手に部屋に入った人たちに『落ち着け』と言われて、落ち着けるはずがないでしょう」
 源蔵はそう言って室内電話をかけようとしたが、その手をコクが掴んだ。

「待ってくれよ。俺たちゃ怪しい者じゃないんだ。確かに昨日からあんたたちの視界に入ってたのは偶然じゃねえ。俺たちゃ、あんたたちを監視してたんだ」
「監視?何のために?」
「あんたら、特に息子が何者かに狙われてるって情報が入ったんだ。それで不審者がいねえか、見張ってた」
「……リンが……」
 源蔵は急に静かになり、しばらく考え込んだが、やがて顔を上げた。

「思い当る節がない訳ではありません。あの子は特別と言えば特別です。あなたたちがどこまで事情をご存じかは知りませんが」
「わかってくれたかい」
「ですがまだ私の質問に答えていません。リンはどこにいるのですか?」
「俺たちも7階に部屋を取ってるんだ。昨夜はあいつと交替で見回りをし、今朝も早い内からロビーであんたたち親子が出てくるのを待ってたが、あんたの息子は見ちゃいない」
「という事はまだこのホテル内に?」
「そうなるな。一応この階と上の6階は調べたが、異常はなかった。あんた、今朝は息子と会ったんだろ?」
「私が先に起きて用意を整え、息子を起こし、ロビーで待ち合わせだ、と告げました。その時には何もおかしな点はなかったのですが」
「あんたの息子が自発的に姿をくらました訳じゃないさ」
「……誘拐?」
「断言はできないが、事件に巻き込まれた可能性が高い、ってのがそこにいる兄貴と俺の見解だな」
「……あなたたちは双子ですか?」
「そんなのはどうでもいいんだが、そうだよ」
「不思議です。本来であれば勝手に部屋に忍び込んだあなたたちを真っ先に疑うべきなのに、何故かそうならない。寧ろ、身内と話しているような安心感に包まれるのはどうしてでしょう」

「色々とあるんだよ――それよりもあんたの息子の行方だ。今も言ったように早朝からロビーにいた俺たちが見ていない、つまりはこのホテルのどこかにいるって事だ」
「一体どこに?」
「3階まではレストランや宴会場で、4階は不吉だから存在しない。客室は5階から8階まで。このうち5階と6階は確認済みだ――」

「なあ」
 ハクがコクの名を呼ばずに話しかけた。
「一つ心当たりがあるんだが――」
「やっぱ双子だな。俺も同じ事考えてたよ」
「えっ、それはどこですか?」
「7階の私たちの部屋に行きましょう」

 
 三人は7階でエレベータを降りた。
「さあ、ここだよ。入ってくれ」
 コクが先頭、源蔵を挟むように最後尾をハクが歩き、部屋に入った。
「あっ」

 部屋に入った三人はほぼ同時に声を上げた。
 昨夜は交替で見回りをしていたためにほとんど使用しなかったベッドの上の空間に、黒々とした直径二メートルほどの穴が口を開けていた。

「こ、これは何でしょうか?」
「やっぱりな――これは次元の裂け目、この先は別の世界になってんだ」
「……別の世界」
「やはり驚きませんね。そうです。かつて暮らされていた山の中と同じ、この世にあって、この世ではない、別世界への扉です」
「何故、そんな事まで?」
「何も知らずに監視はできません――ですがこの先に何があるかは私たちにもわかりません。山のように花の咲き乱れる里なのか、暗黒の宇宙空間なのか、どこに繋がっているかは行ってみないとわかりません」
「リンはこの先に……」
「おそらく」

 

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