9.8. Story 2 狂騒の夏

 Story 3 終わりのない坂道

1 70.08

「明日から稽古はしばらく休みだな」
「うん、万博、今から楽しみだなあ」
「父親と一緒に出掛けるのは初めてか?」
「そうだね、父さんはいつも忙しいから……ケイジも行きたかった?」
「馬鹿を言うな。この姿で人前に現れたりすれば、どんな騒ぎになってしまうか」
「そうだね」
「それに『人類の進歩』と言っているが、この程度の文明など全く話にならないな。ただのお祭り騒ぎだ」
「『人類の進歩』じゃないよ。『進歩と調和』だよ」
「同じ事だ。調和と言うなら何故、自然と寄り添わない――子供に言っても仕方ないか」
「ケイジは何にでも厳しいね」

「ところで、お前がこの間言っていた話、本当か?」
「うん、本当だよ」
「変な奴らに襲われたというが、どんな風体だった?」
「覚えてないよ」
「……いいか、リン。休みから戻ったら今以上に厳しい稽古になるぞ。お前が自分の身を守れるようになり、そして人を守れるようになるまで修行は行うからそのつもりでな」
「はい、ケイジ先生」

 リンを送り出した後、ケイジはリンとの出会いを思い出した。

 

【ケイジの回想:リンとの出会い】

 ――リンが四歳の時、リンの父、源蔵はリンを連れて東京に戻った。保育園に行かず、源蔵に文字や数字を習っていたリンに遊び友達はいなかった。
 日中、源蔵は大学に出かけているためリンは留守番だったが、階下の静江の目を盗み、橋を渡って隣のTまで出かけ、対岸の夢の島の様子を見るのが数少ない楽しみだった。
 当時の夢の島ではごみによる埋め立てがまだ行われていた。ひっきりなしにゴミ収集車が行き来し、時にはヘリコプターが殺虫剤を散布していた。
 リンは飽きる事なくこの光景を見ていたが、私もそんなリンを同じように見ていた。
 『パンクス』地下組織への出入りに夢の島を利用する事が多かった。もちろん気配を消していたが、晴れた日も雨の日も対岸でこちらを見つめている子供が何故か気になった。

 ある日、何故そのような行為に及んだのか自分でもわからないが、この子供に対する好奇心が抑えられなくなり、それを実行に移した。
 対岸に渡り、子供に近寄ると、ほんの少しだけ気配を開放し、こう告げた。
「そんな所にいるとハエに襲われるぞ」
 子供は驚いた表情に変わったが、すぐにこちらを向いて言った。
「だいじょうぶ。ハエは来ないから」

 驚いた。自分のわずかな気配を察知したのは、最初の弟子、大都以来一人もいなかったのだから。
 私は思い切って気配を全て開放して姿を現した。
 子供は一瞬ぎょっとしたが、すぐに笑顔になって言った。
「忍者なの?ねえ、忍者なんでしょ」
「――名は何と言う?」
「リン。文月リン」
「年はいくつだ?」
「四」
「何故毎日ここにいる?」
「山ができていくの、面白いでしょ」
「私が恐くないのか?」
「うーん、強いけどやさしい」
「ふふふ」
「面白いの?」
「かつて同じ事を言った少年がいたが、私の最初の弟子になった。お前も弟子になるか?」
「……?」
「――強くなりたいか?」
「うん」
「だったら一緒にくるか?」
「うん」

 

 あの子供に稽古をつけるようになって三年が経とうとしていた。
 稽古を始めてすぐに自分の目に狂いがなかったのを確信した。
 大都も素晴らしい資質を持っていたが、結局は自分の『自然』の後継者にはならなかった。だがリンは違った。『自然』を覚えるだけではなく、更なる高みまで駆け上っていく、そう思えてならなかった。

 
 ケイジの下を去ったリンは急いで家に戻った。
 一階の喫茶店に客の姿はなく、静江がカウンタで暇そうにしていた。
「リンちゃん。お帰り」
「ただいま。おばさん」
「明日から出かけるんでしょ。準備は終わった?」
「うん。父さんも今日は早く帰るって」
「そうだ。お父さんとリンちゃんにプレゼントがあったの――これ」

 静江が取り出したのは大小二つの水筒だった。小さな方はブルーのギンガムチェックがプリントされた円筒形のもの、大きな方はカーキ色の布で覆われたごつい金属製の水筒だった。
「会場はすごく混むでしょ。飲み物も買いに行けなくて日射病になったら大変だと思ってね。でも、中に入れるの生水はだめよ。お父さんに頼んで湯ざましにするか、お茶にしなさいね」
「ありがとう、おばさん。父さん、早く帰ってこないかな」
「もうじき帰ってくるんじゃない――リンちゃん、今夜はトンカツ揚げようね」
「わーい」

 

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