目次
1 先んずれば制す
いつもよりも遅く目覚めた大都は、昨日までとは違う力が自分の体に漲るのを感じた。これがシニスター、Arhatチエラドンナが与えてくれた特別な滴によるものなのだろう。
だが気になる点があった。これは自分だけに与えられた特権なのか。
部屋を出て階段を降りると下宿屋の親父と目が合った。挨拶を交わしてから昨日の一件を尋ねてみた。
「昨日、赤い服の女性に会われましたか?」
「ん、いやあ、そんな人には会ってねえなあ」
「空が赤くなったのには驚きましたよねえ?」
「えっ、何言ってんだ。空は赤くなんかなってねえよぉ」
「ああ、私の勘違いでしたか」
「大丈夫か。まだ良くなってねえんじゃねえか」
「いえ、行ってきます」
アンフィテアトルの市街の数軒の店で同じ質問をし、同じ答えを聞いた。
皆、記憶を消されたのか、赤い空を見ていないと言う。赤い服を着たチエラドンナはどうだろう、会ったのは限られた人間だけなのか――
意を決し、町のはずれにあるエテルの研究所に向かった。
研究所の門をくぐると助手のギンモンテと巨人バンバが所在なさげにしているのが目についた。
「やあ、ダイト」
バンバが気付いて声をかけた。
「久しぶりですね。ここに顔を出すのは」
ギンモンテが大きなバンバの後ろに隠れたまま声をかけた。
「皆さんにお尋ねしたい事があるんですが――昨日の赤い空を覚えてらっしゃいますか?」
大都の質問にそれまでにこにこと笑っていたバンバの顔色が変わった。
「……おい、ダイト。滅多な事、言うもんじゃねえ。いつ空が赤くなった?」
ギンモンテがバンバの剣幕に驚いて大都の傍に走り寄った。
「バンバ、落ち着くんだ――ダイトさんも何を言い出すかと思えば。昨日はごくごく普通の天気でしたよ。空もいつも通り青かったし」
「そうでしたか。どうもありがとうございます。バンバ、気に障る事を言ったのなら謝るよ。許しておくれ」
「いや、謝ることない。ただ、バンバ、うんと昔の恐い事、思い出しただけだ」
「それは何だったのか、差支えなければ教えてもらえないかい?」
「うーん、いやだなあ。でも言うよ。バンバが昔住んでた世界、なくなった日、空があんな色になった。だから赤い空、大きらい」
「なるほど。きっと赤い空と一緒にArhatsが降りてきたんだね」
「ははは、ダイトさん。先ほどからまるで世界の終りが来たかのような物言いですね。安心して下さい。誰も赤い空もArhatsの姿も見ていませんよ」
ギンモンテは病人を労わるかのように大都に優しい言葉をかけた。
研究所の奥からエテルが頭を振りながら現れた。
「ずいぶんと賑やかだな。おや、ダイト君じゃないか。どうも今朝は頭が痛くてな。部屋で休んでいたが君たちのせいで起きてしまった」
「それはすみません。お伺いしたい事があって――昨日の天候なのですが」
エテルは頭を振る動作を止めてバンバをちらっと盗み見た。
「――バンバ、昼の食事の仕度をしてくれないか。それからギンモンテ、町まで使いを頼まれてほしい。詳細を記した紙は私の机の上に置いてある。至急頼むよ」
エテルが人払いをして、だだっ広い研究所には大都とエテルだけが残った。
「すまんな。バンバが興奮するものでな」
「はい。私が赤い空の事を尋ねただけで大変な恐がり様でした」
「赤い空――君は昨日の事を覚えているのだな。今朝一番でギンモンテに確認したが何も覚えておらず、バンバに至っては悲鳴を上げて暴れだしそうな勢いだった」
「ここに来るまでに幾人かに尋ねましたが、覚えていたのはエテルさん、あなたが初めてです」
「ふーむ、皆の記憶が消えている、これはどういう事だろう?」
「エテルさん、全てはあの赤いドレスを着たチエラドンナの仕業です」
「ん、何だい。そのチエラドンナというのは?」
「い、いえ、何でもありません――昨日、女性にお会いになりませんでしたか?」
「会ってないね。何しろあの天候の件でバンバがそんな事になったからバタバタとしていて、人に会う暇などなかったよ」
「どうも下らない事でお邪魔しました。ところで研究の方は如何ですか?」
「ああ、順調だ。秋口になればいよいよ人体実験も開始できる――そう言えばダイト君、君もどこか違って見えるね。いい事でもあったかな?」
大都は記憶が完全に戻ったと言いかけて止めた。それを告げれば、自分が『転移装置』の研究をしていた事を伝えねばならない。そうなればエテルの研究に良しにつけ悪きにつけ影響を与えてしまう。
今の自分には研究よりもやるべき事があるのだ。
それにエテルは天才だ。いずれは装置を自力で完成させる――
「――そうでしょうか。ようやくこの星の生活にも慣れたからですよ」
「それは何よりだ。赤い空を見た事はあまり他言しない方がいいな。では又、遊びにいらっしゃい」
大都はエテルの研究所を後にした。
エテルだけ赤い空の記憶があった。だがチエラドンナには会っていないと言う。
どこまで真実なのか、それとも全てが幻か……
アンフィテアトルの有名な劇場の前に来た所で声をかける者があった。
「失礼。ダイト・スラさんですな」
大都は立ち止まり、男の顔をまじまじと見つめた。どこといって特徴のない小柄な男だったが、何よりも驚いたのは至近距離に近付くまでその男の気配を感じ取れなかった事だった。
「何故、私の名前をご存じですか。当人でさえ昨日、思い出したばかりだというのに」
「これは失礼致しました。私の名は蘭丸。ある場所にあなたをお連れするように言われ、大急ぎでやって来た次第です。詳しい事は私も存じ上げませんので、現地でお尋ね願えませんか?」
「実は私も色々とやらねばならない事ができまして、二、三日待って頂けませんか?」
「『事態は急を要する』と承ったのでこうして来たのです。何を差し置いても今すぐ私と一緒に旅立って頂きたい」
「……わかりました。そこまで言われるのでしたら伺いましょう。それにあなたの使った技にも興味がある」
「誇るほどのものではございませんが、ご賢明な判断です。では急いで向かいましょう」
大都たちは一路東へと向かった。
「しかし何をそのようにあせってらっしゃるのか?」
大都の質問に蘭丸は小さな声で答えた。
「私に詳しい事は――ただ銀河の良心はこう言われました。『先んずれば制す』と」