5.5. Story 1 悪の細動

 Story 2 悪魔が囁く時

1 若き科学者たち

 文月源蔵が到着した時、そこにはすでに先客がいた。
 場所を「そこ」としか言えなかったのは、下宿先の善福寺のアパートの部屋で目隠しをされ、車に乗せられたためだった。
 乗っていた時間から察するに杉並からさほど遠くない東京のはずれだろう。
 車を降り、どこかの建物の部屋に入った所で目隠しを取る事を許された。どうやらそこが源蔵に与えられた部屋らしかった。
 源蔵が部屋に入り、身の回りの物だけを詰め込んだ鞄を開けているとドアをノックする音がした。
「――はい。どうぞ」

 
 ドアを開けて入ってきたのは同世代らしき二人の青年だった。一人は痩せていて青白い顔に縁なしの眼鏡をかけた神経質そうな若者、もう一人は対照的に体格が良く日焼けした肌に白い歯が印象的なスポーツマン風の若者だった。
「三人目の到着だね。ようこそ、研究所へ」
 スポーツマン風の若者が口を開き、縁なし眼鏡も小さく微笑んだ。
「はあ、あなた方は?」
「これは失礼。須良大都です。東京大学で物理学を専攻して今は蓮崎研究室で研究者をやっております」
 蓮崎という名には聞き覚えがあった。確か最先端の物理理論によって物質を構成する極小の世界から宇宙の成り立ちまでを解明しようという革新的な学究集団だった。
「私は糸瀬優。M大学で都市工学を学び、先日まで都市デザイン計画に参加していました」
 都市デザイン計画の名も聞いた事があった。
「では東京オリンピックの施設の設計もされたのですか?」
「いや、あれは戦前の計画の焼き直しに過ぎませんから。やっているのは――ああ、そんな事よりもあなたの自己紹介が先ですよ」

 糸瀬に促されて源蔵は自己紹介をした。
「私は文月源蔵。K大学を卒業して今は大学に残って常勤講師をやっております。専攻は生物学、ひらたく言えば農業です」
「ほぉ、農業ですか」と糸瀬は眼鏡の縁を指で持ち上げながら言った。「三人とも全く畑違いの分野だな。これは面白い」
「糸瀬さん、私はまだこの『ネオポリス計画』の全貌が理解できていないのですが、一体何をすればいいのでしょうか?」
「『君』付けで構いませんよ。年も近いのだし。君は昭和七年生まれの申年でしょう。須良君と一緒だ。私は君たちよりも一級上、昭和六年生まれの未年です」
「文月君」と大都が言った。「実は私たちもよくわかっていないんだ。私も一月前にここに来たばかりだし、糸瀬君だって二月しか経っていない」

 
 三人はその晩、寮の食堂で行ったささやかな歓迎会で親交を深めた。
 最初に口を開いたのは糸瀬だった。
「ところで文月君。生まれは?」
「岩手です」
「ほぉ、大学生になって上京したのかい?」
「いえ、私は農家の次男坊だったので二つ違いの兄が家を継ぐ事は決まってたんです。父親が終戦間際に南方で戦死して、兄が早く家を継いだため居づらくなって、中学卒業と同時に東京に出てきました。それで甲州街道沿い、調布の土建屋で住み込みで働き、夜学に通いながら勉強をしたような次第です」
「そうだったのか。そう言えば、大都、君の父上も戦死されたんだよな?」
「ああ、父は南方ではなく大陸だったがね。母は顔も知らない」
「うちは大陸からの引き揚げ組だ。親父は一旗揚げるんだって張り切ってたが、あっさり交通事故で死んじまった。お袋は心労が重なったんだろう、私が高校に入学するとすぐに逝った」
「うちも母親は大学卒業前に亡くなっています」と源蔵が言った。
「何だ何だ、ここにいる三人は皆、天涯孤独の身の上か。奇遇だな」
「いや、わざとそういう境遇の人間を選んだのかもしれないぞ」と大都が言った。
「実験中に死んでも後腐れがないようにか。冗談じゃない、死んでたまるかってんだ」
「そうですよ。私たちは一蓮托生、互助会みたいなもんです」と源蔵が言うと二人は「互助会か、そりゃいいや」と言って笑った。

 
「源蔵」と大都が呼び捨てで言った。「君のお父上の部隊はどこだったんだい?」
「それがお恥ずかしい話なんだがよく覚えてない。私は毎日、山をほっつき回ってたからなあ」
「ああ、そうなんだ。私の父は大陸にいたんだが同じ部隊に岩手出身の人がいたそうなんだ。もしかするとその人の息子さんかなと思ってね」
「おい、大都。そんな都合のいい偶然がある訳ないだろ。大体、お前のお父上は大陸、源蔵の方は南方。大分距離があるじゃないか」
「いや、糸瀬。そうとも言えないぞ。大陸にいたが、終戦にかけて南に転戦した部隊は多いんだ。同じ部隊だった可能性はある」
「それならこっちも仲間に入れてくれよ。民間人だが大陸の幻の国の都で暮らしてたんだ。何か縁みたいなものはないか?」と糸瀬が言い、源蔵が「それこそ都合がいいよ」と答え、三人は大いに笑った。

 
「実はね」と大都が言った。「大陸の都には行った事がないが、岩手の遠野には行ったんだ」
「えっ、どのへんだい?」
 源蔵が大声を上げた。
「それがねえ、覚えてないんだよ。夜明けと共に山の奥深くに分け入ってさ」
「言ってくれれば、大体どのへんかわかるよ」
「ふふふ、着いたのは花の咲き乱れる里だった。あれこそ『桃源郷』だな」
「大都、確かにそういう伝説は数多く残っているけど――」
「源蔵、真に受けるなよ。大都はもう酔っぱらってるんだ」と糸瀬が言い、また三人で大笑いをした。

 
 三人にはそれぞれ一つずつ研究室が与えられた。通称第一ラボは糸瀬の都市モデルの構築用、第二ラボは大都の物質転移装置の研究用、第三ラボが源蔵の地下農園の研究用だった。
 研究は互いにばらばらだったが、それぞれの研究テーマを線でつなぐと一つの絵が浮かび上がるのを三人は間もなく理解した。
 狭い国土しか持たない敗戦国日本がこのまま奇跡的成長を続ければ、どこかで土地不足の事態に陥るのは明白だった。いや、既に東京都内で土地付き一戸建ての住宅を買うなど、庶民にはほぼ不可能となっていた。
 ではどうするか。その答えは地下にあった。日照時間の少ない中でも育つ作物、大動脈となる地下の移動の手間を省く物質転移装置、これらを備えたデザインの地下都市があれば日本の更なる繁栄は約束されたも同然だった。
 三人は互いの研究の詳細までは理解できなかったが、できるだけ協力し合うように努めた。実験の際には助手としてデータ収集や器具の準備、片付け、模型の作成を行った。
 何しろその広大な研究所には三人以外に誰もいなかったのだ。

 
 厳密に言えば三人だけではなかった。研究室がある建物の隣に三人が生活する寮が併設されていて、そこには毎日三食の食事を提供してくれる通いの初老の婦人が一名、それに舎監と呼ばれる眼つきの鋭い老人が住み込みで研究以外の様々な世話を焼いてくれた。

 寮での生活には様々な制約事項があった。
 まず研究所の敷地の外に出る事が簡単にはできなかった。研究所はN区のはずれの米軍の基地の近くにあったが、「原則として寝食は寮で行う」、「外出に際しては事前の届け出を出し、承認を必要とする」「その際も入退出時間は厳しく管理される」というのが規則だった。
 つまり二十四時間監視付きの牢獄で研究をしろという事だった。唯一の例外は年に二回、盆と正月にそれぞれ五日間の休みが認められており、その十日だけは監視を受けずに普通の青年としての生活を送る事ができた。

 
 源蔵が研究所に来てから三か月が経ったある日、夕食を終えた三人は唯一与えられた情報源の新聞も読み終え、就寝までの数時間、雑談をして過ごしていた。
「そう言えば、巨人に入団した王という選手はどうなのかね?」
 糸瀬が何気なく言った。
「糸瀬は巨人ファンかい。私は阪神だな。巨人はどうも好きになれない」
 大都が言葉を返した。
「源蔵は?」
「いや、特にひいきのチームはないな」
「それにしてもナイターくらい観に行きたいもんだ。外出なんてどうせ承認されないんだし、来月のお盆まで待っていられないよ」
 糸瀬が不満を漏らした。
「確かにそうだな。なあ、糸瀬。これは生産性に関わる重大な問題じゃないか」
「やっぱりそう思うか。だったら今から舎監に言いに行こう」

 
 糸瀬を先頭に三人は寮の出入り口近くにある舎監の部屋に向かった。舎監は受付の小窓を開け、三人をじろりと見回した。
 要望を伝えると舎監は「上に相談するから、紙に書いて渡せ」とだけ言って小窓を閉めた。

「何だ、あいつ。愛想ないな」
 廊下を歩きながら糸瀬が怒ったように言うと「あの男はただ者じゃないよ」と大都がぽつりと答えた。
「えっ、大都。どうしてお前、そんな事わかるんだ?」
「――いや、ただの勘だ。気にしないでくれ」
「いやあ、気になるなあ――よし、しばらくあいつの行動を観察しよう。何しろ、あいつの裏をかく事が我々の自由につながる訳だからな」と糸瀬は決心したように言った。
「そう言えば」と源蔵が言った。「あの舎監、私たちの研究している時間帯は結構不在のようだぞ。この前、肥料をこぼしたんで箒と塵取を借りに行ったら留守だった。何回も行ったが、結局捕まったのは翌朝だった。おかげで研究室内の臭いがたまらなかったよ」
「本当か。だとすると計画が実行できるな――おい、作戦会議だ」

 
 食堂に戻った三人はひそひそ話を始めた。
 糸瀬の計画とは、それぞれの研究室の床に穴を掘り、つなげ、そしてそのトンネルを外まで伸ばすというものだった。
 大都と源蔵も賛成し、作戦名は数年前に流行った映画の題名を取って、『戦場にかける橋』に決まった。
 作業は研究時間帯に行う、但し、監視カメラがあるかもしれないので不自然な動きはしない、その他諸々を決めて翌日から三人は計画に取りかかった。
 初日に大都が監視カメラの場所を発見したおかげで、監視カメラの死角となる場所を糸瀬が計算し、図面を引いた。
 幸い、糸瀬の研究室には巨大な都市ジオラマ、大都の所には巨大な装置、源蔵の所にはビニールハウスが設置されていたので、その陰に隠れれば事が露見する心配はなかった。
 三日目には源蔵が床のリノリウムを溶かす薬品を調合し、約一週間で『戦場にかける橋』はほぼ完成しようとしていた。

 それと時を同じくして三人は舎監に呼び出された。舎監と一緒に寮の食堂で待っていたのは黒縁眼鏡をかけた見知らぬ男だった。
 男は関係省庁を代表して来たと言い、三人に口頭で研究の進捗状況を述べさせ、その後にこう言った。
「ふむ、順調のようですな。それでしたら規則をこう変えましょう。週に一回の外出を許可します。ただし三人一緒ではなく一人ずつ、過度の飲酒は慎んで下さい。揃って飲酒でもされますと、気が大きくなって何を話すかわかったものではありませんからな――後、皆さんは健全な若い男性とお見受けします。そちらの方面については新聞と同じように定期的にいわゆる『ブルー・フィルム』なるものを届けさせましょう。決して外のいかがわしい場所には立ち入らないでもらいたいのです。これでよろしいですか?」
 三人は勝利の雄叫びを上げたい所を堪えて嬉しそうに微笑んだ。
 大都がちらっと舎監を見ると、彼も又笑っていた。だがその笑いは違う意味を含んでいるようだった――この男、もしかして『戦場にかける橋』に気付いているのか?

 
 黒縁眼鏡の男が帰ってしまうと上機嫌の舎監が三人に言った。
「良かったな。研究さえちゃんとしてくれれば別に囚人みたいに扱おうって訳じゃないみたいだ」
 舎監が初めてまともに話すのを聞いて三人はどう答えていいかわからずにいた。
「ところであんたたち、来月のお盆休みはどうするんだい?」
「私は別に」と糸瀬が答えると残りの二人も頷いた。
「何だ、里帰りしないのか――だったら少し早めに休みを取るといい。土用を過ぎてしまうと海は遅いから、今月の末か来月の頭にでもどこかに行ってくるんだね」
 三人はまたしても幸運を感じずにはいられなかった。
「でも上の方に言って許可を頂かないと」と糸瀬が心配そうに言った。
「いいよ。こっちでうまく言っておく」
 そう言って舎監は食堂を出ていった。

 
「何だ、舎監は思ったよりいい人だな」と糸瀬が言った。
「ああ、人情あるお裁きって所だ」と源蔵も言った。
 大都は納得しなかった。かつて上野で愚連隊を率いていた時に出会った危険な人間たち、あの舎監からはそれよりももっと危ない雰囲気を感じ取っていた。
「どうしたんだよ、大都。もっと喜べよ。我々の完全勝利だぞ」
「ああ」
「そうだ、夏休みの計画を立てないか。実は知り合いが千葉県の千倉で民宿をやってるんだ。今から頼んでも一部屋くらいはどうにかなる。早速、電話……って連絡が取れないか」
「糸瀬、外出日に電話すればいいだろう。最初の外出は君がすればいい」と源蔵が答えた。
「ああ、すまんな。じゃあそうさせてもらうよ。楽しみにしていてくれよ」

 

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