目次
Record 1 出征
二年ぶりの帰還
大都が父、健人に尋ねた。
「父さん、デズモンドさんはどうしたんでしょう?」
「大都、お前はそればかりだな。聞いてどうなるものでもない――何、あの人なら大丈夫。きっと忙しいのだ」
「もう一年半も経ちますよ」
「確かにそうだなあ」
「もうぼくらの事なんて忘れてどこか別の星で暮らしてるんじゃないでしょうか?」
「いや、あの人はそんな人じゃない。だとすれば何か言ってくるはずだ。きっと事情があるんだよ」
わしは家の戸をがらがらと勢いよく開け、「ただいま」と大きな声を響き渡らせた。
大都は声の主を確かめる前に玄関に向かって突進し、健人も相好を崩した。
飛びついた大都を抱きしめながらわしは声を上げた。
「大都、元気にしてたか。大きくなったな。幾つになった?」
「六歳になりました」
「初めて会った時、お前は四歳だったから二年も経ったか」
「そうですよ。『一年半もどこに行ったんだろう』って今も話をしていたんです」
健人が荷物を持ち、むしゃぶりついていた大都は恥ずかしそうに体を離し、わしの手を引いて家の中に上げた。
「すまねえな。《歌の星》に行ったのは予定の行動だった。その後、《牧童の星》に寄ったのが間違いだった。そっから《武の星》に行って、最後は《戦の星》でその名の通り戦に巻き込まれた。どんだけの距離を旅したかは後でバインドで見せてやるよ」
「今日は無事ご帰還のお祝いをしましょう。でもその前にあちらに寄られるんでしょう。地下のあの組織に」
「わかってるじゃねえか。すっかり忘れてたよ。んじゃあ、夜までには帰るから――健人、無理しねえでいいぞ。今は『非常時』らしいじゃねえか」
「……はい。デズモンドさんは私たちを愚かだとお思いでしょうが、いよいよこの国は勝ち目のない戦争に踏み出そうとしています」
「おいおい、滅多な事言うもんじゃねえよ。そうだ、友達の何とか君も呼んでおいてくれよ。あいつは達者なんだろ」
「坂出ですね。彼も首を長くしてデズモンドさんの帰りを待っているはずですよ。こちらから呼ばなくても気配を嗅ぎ付けてみやげ付きでやって来るのではないでしょうか」
「ははは、金持ちは優雅だな。じゃあまたな」
一時間後、わしは地下にいた。目の前には有楽斎とティオータが座っていた。
「しかしお前は一年半も何をやってたんだ?」
ティオータがあきれた表情をした。
「色々あってな。大体、お前がロディッヒ王を紹介するからいけねえんだぞ」
「ああ、王は大層お喜びだった。さすがは名うての冒険家だってよ」
「デズモンドさん、私の故郷、《牧童の星》にも寄られたそうですな」
「先生、そうなんだよ。アレクサンダー先生っていうアンタゴニスの末裔に会ったんで、《鉄の星》のトーグル王に紹介しておいたよ」
「素晴らしいですな。しかしそれだけで一年半もですか?」
「いや、そこで《武の星》の公孫転地に会って海賊退治に加勢したのが運の尽きさ。しまいには《戦の星》の争いに巻き込まれちまった。知り合いのロイとバスキアって奴が苦戦してたんだよ。で、大陸の南を奪回する作戦に参加した」
「やれやれ、あなたというお人は。で、戦果はどうでしたか?」
「一旦は南の争いを収めたが、どうなるかな。あの星はそれぞれの町が国みてえなもんだ。俺が初めて行った時には国が三十からあったが、今は十数個まで減ってる。ロイとバスキアがこの先も上手くやれるか、失敗しちまうかはわからねえ」
「そういう意味ではこの星も酷い状況です。ご存じですか。いよいよヨーロッパではドイツが戦争を始めそうです」
「ふーん、日本はどうなる?」
「日本はドイツと同盟関係にありますからな。おそらくドイツを支持するでしょう」
「ってことは、遅かれ早かれ日本も世界相手に戦争かい」
「そうなります。泥沼の大陸戦線を打開するために南方に活路を求める、つまりアメリカ、全世界を相手にするという愚行を犯しかねません」
「かーっ、こんな小さな国が勇ましいね。だがよ、どう見ても勝ち目はねえだろう?」
「どうでしょう。この国は明治維新以来不敗ですしね」
「冗談だろ」
「いや、瀕死の大帝国に二度勝っています。だが今回ばかりは分が悪すぎる」
「――こんな、にこにこした人たちが戦争で人を殺すのか。そして、いい人たちがどっかの馬鹿野郎のせいで死んでいくのかよ。やりきれねえな」
「そのどっかの馬鹿野郎の中には『アンビス』も入っております。嘆かわしい事だ」
「俺も海賊退治やら、《戦の星》での領土争いやらで散々暴れてるが、やっぱり馬鹿野郎なんだろうなあ」
「いや、デズモンドさんの場合は自ら命を張っておられます。自分は安全な場所に身を置いて人の命を弄ぶ、《歌の星》の専横貴族と同じような者こそ罰を受けるべきだ」
「ケイジならどうにかできるんじゃないか?」
「私ならここにいる」
いつの間にかケイジが背後に立っていた。
「この戦争を止めるために何千人の愚か者を消せばいい。殺戮機械となるのは構わんが、どうせ又、遠くない未来に同じ過ちを繰り返すだけだ」
「その通りだよなあ。どうにもできねえなあ」
「デズモンド」
ティオータが真剣な口調で言った。
「お前のいない間に麹町の家を時々覗いてたんだけどな。あの健人って人、マークされてるぞ。気を付けた方がいい」
「マーク……特高にか?」
「ああ、下河坂っていうヘビみてえな野郎だ」
「俺みてえな外人を住まわせてるからか?」
「いや、そうじゃねえよ。あの黒眼鏡のおかげでお前に対しては特高も憲兵も見て見ぬふりだ。だがあの人は違う。あの人、学校の先生なんだろ。どうやら生徒の前で問題発言をしたらしい」
「『戦争は馬鹿げている』か?」
「そんな所だ――いずれにせよ、注意しろ。まずは身近な人間を守ってやれよ」
「言われなくてもわかってらあ。あの親子は俺の大事な友人だ。危険な目には遭わせねえよ」
「何かあったら、おいらたちに相談しろよ。力になれるかもしれねえ」
「そうですぞ、デズモンドさん。言いたい事も言えない世の中など間違っておるのです。私たちは家族のような存在。何なりと言いつけて下さい」
「ありがとよ、恩に着るぜ」
背後を振り返れば、ケイジも黙って頷いていた。
二、三日の間、麹町の家でまだ小学校に上がる前の大都の相手をした後、空海の足取りの調査に取り掛かった。
1938年9月、残暑の厳しい日だった。
「一年以上も無駄に過ごしちまった。ノータがいたら怒ってるだろうな――いっちょ、気合入れるか」
わしは家を出て東京駅に向かおうとしたが、途中で考えを変えた。
「この非常時に汽車で移動はかえって目立つな。夜中にシップで動くとしよう。まず目指すは南、和歌山にもう一度行って、四国から九州を回るか」
再度、高野山に隠された異次元にある始宙摩寺の青海を訪ね、そのまま四国に向かった。満濃池周辺で住民に驚かれながらも聞き込みを行い、その他にも伝説の残っている土地を訪ね、ノカーノの名が残っていないかを調べた。
そこから九州に渡り、伝承の残る土地を訪ねて回っている内に年の瀬になった。
わしは一旦、麹町の家に戻った。正月くらいは健人や大都とつつましく、楽しく過ごそう、そう考えて帰京した。
武術の師匠
1939年になった。健人が用意してくれた国民服に袖を通した。
「やっぱり小さいなあ。見ろよ、袖がここまでしかねえぞ」
わしが窮屈そうに強張っている姿に大都は大笑いした。
「デズモンドさん、仕方ないんです。支給品ですから。これでも町内会長が駆け回って一番大きな寸法のを寄越してくれたんですよ」
「路地の奥の隠居のじいさんか。後で礼を言っとかなきゃな」
「いつも着られている赤や白い服は時節柄まずいのですよ。でもあの服は洗濯されているのを見た事がありませんが、どうなさっているのですか?」
わしは健人の質問の意味がわからず、逆に聞き返した。
「洗濯……確かに俺はいつだって赤いシャツと白いTシャツを着てるが、洗濯ってのはどういう意味だ?」
「いえ、いつ見てもきれいで汚れていないので」
「何だ、そんな事か。あれは布自体に汚れを防ぎ、浄化する薬品が染み込ませてあるんだ。どんなに泥まみれになっても汗をかいても、服はいつでもそのままだ――という事は、この国民服にはそういう加工をしてねえんだな?」
「……それは……もちろんしていません。というよりもこの星にそのような技術は存在しません」
「そいつはいけねえ。何でもっと早く気付かなかったんだろうな。健人、お前は大都の服も洗濯してんのか?」
「ええ」
「たまにはいいが、いつも洗濯に追われてちゃいけねえや。どうだ、地下の店でその汚れを浄化する薬品を服の布に散布してくれるんだけどな。一回塗れば、ほぼ永久に落ちない」
「えっ、そんな店が」
「今、脱いで貸してくれりゃ、俺がひとっ走り行ってくる」
「……いや、さすがに一着しかないものなので脱ぐ訳には」
「だよな。じゃあ、こうしようぜ。俺たちはこれから浅草に初詣に行く。その途中でお前らは迷子になり、気が付けばどっかの地下にいる。そこに現れるのが俺って寸劇は?」
「えっ、デズモンド。ぼくも地下に行っていいの?」
大都が嬉しそうな声を上げた。
「ああ、こんな時代だし問題ねえ。本当は何かあったらお前たちをあそこに匿うつもりでいるんだ」
「私たちだけそんな恩恵に預かる訳には」
「健人、わかってくれ。俺だって皆を救いたい。でも身内すら救えないで、世界もねえもんだ。お前たちだけは何があっても助けたいんだよ」
「……わかりました。ではこうしましょう。大都だけを地下に連れて行って下さいませんか。私は初詣を終えたら家に戻ります。何、洗濯も日常生活の一部です。どうって事ありませんよ」
「健人。お前って奴は――じゃあ大都、二人で行こう。いいか、お前は頭がいいから大丈夫だと思うが、誰にも言っちゃいけねえぞ」
「うん、絶対言わない」
「よし、出発しようや」
浅草はものすごい人出だった。浅草寺での初詣を終えたわしらは予定通り人混みの中で別れた。
大都の手を引いて歩きながら話しかけた。
「いいか、大都。黙ってしっかり付いてこいよ」
「うん」
わしらは繁華街をはずれた所にあるさびれたビルディングの前で立ち止まり、その中に入った。
階段を降りて地下に出て壁に隠されたスイッチを押すと、床に穴が開き地下に続く階段が姿を現した。大都は目を見開いたまま、わしの手をぎゅっと握った。
手を引いて暗闇の階段を降りた。すぐにぼんやりとした灯りに包まれ周囲は明るくなった。
「さあ、ここが地下だ」
大都は地下に広がるまっすぐな道と両脇に建つ建物を目の前にして言葉を失くしていた。
「大都、行くぞ。店はこっちだ」
十分ほどで薬品の塗布は終わり、店を出た所で突然に声をかけられた。
「デズモンド、何をしている?」
「その声はケイジだな。相変わらず気配を感じさせない嫌な奴だ」
「そっちは――この間、ティオータが言っていた子供だな。姿を現して驚かせてはいかんからこのままでいよう」
大都は誰もいないのに誰かと話をするわしの姿を見てきょろきょろと周囲を見回し、「ごくり」と一つ喉を鳴らしてから、恐る恐る口を開いた。
「ねえ、デズモンド。誰と話してるの?」
「気にすんな。独り言だ」
「ううん、誰かいるよ。デズモンドの後ろ……」
「ほぉ」とケイジが驚いたような声を上げた。「これはすごいな。ほんの僅かの気配を出しただけなのに気付くとは」
「ああ、今のは俺も気付いたが――なあ、大都。本当にわかったのか?」
「うん、父さんのは優しいんだ。デズモンドは強い。この人は……デズモンドに似てるかな。すごく強い人」
「――デズモンド。姿を見せても構わんか。この子であれば私を見ても驚かんだろう」
ケイジはそう言って一気に気配を開放した。わしの背後には緑色ともつかないトカゲの顔をした袷姿の剣士が立っていた。
大都はケイジの姿を見て一瞬、身をすくめたが、すぐに笑顔に変わった。
「ほら、やっぱり強い人だ」
「ケイジだ。名は何と言う?」
質問に大都ははっきりと「須良大都。六歳です」と答えた。
「私を恐ろしいとは思わないのか?」
「いえ、だってデズモンドだって別の星の人だし、ぼくはきっとこういう……」
「トカゲのような人もいると想像していたと言いたいのか?」
「はい。あ、ごめんなさい」
「よい。ははは」
わしはある事に気付き、ぎょっとした。
「どうした、ケイジ。お前が笑うなんて初めて見たぜ」
「いや、私自身、目覚めて以来久しぶりに笑ったような気がする。なあ、デズモンド。大都は恐るべき可能性を秘めている。それはお前も気付いていただろう」
「まあな。俺が舌を巻くのは大都の知性だが、お前が感じているのは――」
「うむ、武人としての可能性だ。この星に来て初めて稽古をつけたいと思える才能に出会った――デズモンド、大都を私に預けてみる気はないか?」
「ちょっと待てよ。確かに俺は大都に強くなってほしい。特にこんな時代だし強くて損はねえ。きっとお前に稽古をつけてもらえば精神面もしっかりとした剣士になる。だがよ――」
「ねえ、デズモンド。ケイジさんと何を話してるの。ぼくの事?」
「ああ、そうだ――どうだ、ケイジ。ここは大都の意志を尊重しようじゃねえか」
「構わんぞ」
「よし」
わしは屈み込み、目線を大都の位置に下げ、ゆっくりと話した。
「大都。ケイジはな、お前を剣術の弟子にしたいんだとよ。もうわかってると思うがケイジは強い。多分、銀河全体でもこいつに勝てる奴はいねえんじゃねえかってくらいの強さだ。お前はそのケイジの弟子になれるんだ。どうだ、やりたいか?」
「ええっ。急に言われても」
「大都」
ケイジも座り込み、大都に目線を合わせて言った。
「今すぐでなくともよい。お前が本当に強くなりたいと思った時、その時に私の下を訪ねてこい。これならよいか?」
「あ、はい」
「よし、では今日はこれでお別れだ。さらば」
ケイジの姿は再び見えなくなった。
「おい、大都。どえらい奴に見込まれたな」
「うん、でもデズモンドはいっぱい話をしてくれるし、ケイジさんが剣を教えてくれたら、父さんと一緒にいる時間がなくなっちゃうからなあ」
「ははは、お前は本当に父さん想いだな。さあ、父さんの所に帰るか」
「うん。おみやげ買って行きたいなあ」
「この非常時に砂糖を使った甘いもんか。まあ、いいや。菓子屋はこっちだ」
健人の捕縛
松の内が明け、新学期が始まった健人が学校に行き出したある日、事件は起こった。
わしは健人の本棚から日本地図を引っ張り出して、縁側に寝そべりながら次に向かう中国地方の調査ルートを検討し、下校した大都は隣で夢中になって何かの本を読んでいた。
そこに隣のおシカ婆さんが駆け込んできた。
「大変だよ。大都ちゃん、それにデルモントさん」
「婆さん、何度言ったらわかるんだよ。俺はデルモントじゃなくってデズモンドだ」
「そんなのはどうでもいいんだよ。健人さんが、健人さんが」
「健人がどうかしたのかい?」
「学校の校門を出た所で特高に連行されたって。あたしゃ、買い物中にその現場を偶然見かけた知り合いから聞かされて、飛んで帰ってきたんだよ」
「何だと。あの下、何とかっていう特高か」
「名前なんか知らないよ。今頃は警察で……ああ、大都ちゃんの前で言う事じゃなかったね。とにかくデルモントさん、どうしようか」
「言われねえでもわかってら。俺に任せとけ。ありがとな、おシカさん」
「あたしゃ、とりあえず町会長に相談してみるよ」
「ああ、ちょいとの間、大都の面倒を見てもらっててもいいか?」
わしが立ち上がりかけ、おシカ婆さんが答える前に大都が大声を上げた。
「デズモンド、ぼくも行く。父さんを助けるんでしょ。ぼくも行くから」
「仕方ねえな。急いでんだから邪魔にならねえようにするんだぞ」
大都を背負いながら夕暮れの近い町の中を風のように走り抜けた。
ほどなく数日前に来た地下街に着き、大都は声を上げた。
「あれ、デズモンド。警察に行くんじゃないの?」
「何、言ってんだ。俺たちが頼んだって特高が許す訳ねえだろ。ここは一つ、偉い人にお願いするんだよ」
わしは大都をおぶったままでとあるビルディングから地下に入った。広間には一人の職人風の男が座っていた。
「よぉ、デズモンド。あれ、その背中の子は――ああ、麹町の」
「ティオータ。詳しく事情を話してる暇はねえんだ。有楽斎先生はどこだ?」
「診察が終わったら来るって言ってたからもうすぐじゃねえか。一体どうしたってんだよ、そんなに慌てて」
わしは大都を背中から降ろして言った。
「お前の心配通り、健人が特高に連れてかれた。助ける方法を知ってるなら教えてくれ」
「そういう事かい。方法は知ってるが俺からは頼めねえ。先生ならどうにかできるだろう」
「アンビスだな」
「黒眼鏡の男でも日本にいりゃいいんだが、あいにく大陸だ。あっちは戦争の真っ最中ですぐにどうこうできるもんでもねえ。ここは一つ先生の到着を待つしかねえ」
「父さんを助けたいんです。お願いします」
大都はティオータにすがるようにして懇願した。
「お前がケイジの認めた大都くんか。あせる気持ちはわかるが落ち着け。もうすぐ先生が来るから、そうしたらお前の父さんは無事帰ってくる」
「本当ですか?」
「本当だよ――なあ、大都くん。お前、デズモンドは強いから父さんを力ずくで助け出してくれるとか思ってないよな?」
「ちょっとだけ思ってます」
「確かにデズモンド、ケイジ、そしてこのおいらなら、そんなのは朝飯前だ。でもな、そんな事したらお前ら親子はこの国に住めなくなっちまう。ずっと追われる身だ。言ってる意味、わかるか?」
「はい」
「だから力じゃなくて別の方法で解決するしかねえんだよ」
「……力……じゃない」
しばらくして有楽斎が広間にやってきたが、話を聞くと椅子に腰掛ける事もなく再び慌ただしく出ていった。
「大都。後は先生が上手くやってくれる。警察署の前で健人を待とう」
わしは大都の手を引いて警察署に向かった。夕闇の中、大都のかじかんだ小さな手を自分の大きな手で暖めながら署の前で待っていると、特高の下河坂に背中を押されるようにして健人がよろめきながら外に出てきた。
痩せた猫背の下河坂は健人を突き飛ばし、わしは急いで暗闇から飛び出して健人を抱き止めた。跪いて健人を抱きかかえたまま、警察署の門の前で仁王立ちしている下河坂を睨み付けた。
「へっ、お迎えがいて良かったな。須良、今回は上から圧力がかかって放免だが、二度と非国民的な言動をするんじゃないぞ」
下河坂はくしゃくしゃのタバコを口にくわえて煙をうまそうに吐き出した。
「私は……子供たちの未来を……案じただけだ」
大分ひどい拷問を受けたのだろう、抱きかかえられたままの健人は声に力がなかった。それを聞いた下河坂は並びの悪い歯を見せて、にやっと笑い、地面に唾を吐いた。
「せいぜい聖人を気取ってな――先生」
わしが拳を固めると、後ろから大都が国民服の裾を引っ張り、必死になって止めた。
「ああ、それからそっちのうすらでかい野郎。てめえについちゃ、憲兵隊のお偉いさんから『相手にするな』って言われてるが、そんなの知ったこっちゃねえ。いつか可愛がってやるよ。この神国でてめえみてえな毛唐が暮らすのをおれは認めねえからな」
下河坂は高笑いをしながら警察署の中に消えた。
「おい、健人。大丈夫か」
背負おうとしたが健人は拒否した。
「大丈夫です。大した傷ではありません」
「だけどよ」
「本当に大丈夫です――それより、大都。子供がこんな夜遅くまで外を出歩いていてはいかんな」
「おい、健人」
「さあ、帰りましょう。今日は夕食の仕度ができなかったが許して下さい」
健人は足を引きずりながら灯りの少ない夜の町を歩き出した。
麹町の家にたどり着くまではしっかりとしていた健人だったが、家に入ってから意識を失って倒れた。大都とわしは急いで布団を敷いて健人を寝かし付けた。
「デズモンド。お医者様を呼んだ方が良くありませんか?」
「ああ、今夜はもう遅いから明日、有楽斎先生に来てもらおう。今日は俺の薬を与えとくよ」
翌朝、わしの薬が効いたのか、昼前に健人は目を覚ました。枕元で眠っていた大都とわしも目を覚ました。
「どうだ、気分は?」
「……はい、もう大丈夫です。学校に行かなくては」
「朝の内に町内会長が行ってくれたよ。傷の手当てもあるし、しばらくは自宅待機だってよ」
「――そうですか。私はこのまま職を失ってしまうのでしょうね」
「今はそんな事気にしてんじゃねえ。傷を治すのを第一に考えろ――おっ、有楽斎先生が来たようだ」
わしは往診を終えた有楽斎と家の外で話をした。
「まあ、二、三日で治るでしょう。アンビスに早く連絡がついて良かったです」
「先生、何から何まで済まねえなあ」
「仕方ないじゃありませんか。デズモンドさんが世話になっている方の危機だったんですから」
「ああ、ついでと言っちゃ何だが――」
「GCUの両替ですね?」
「しばらく健人が働けないだろうから、いつもよりも多めに替えときたいんだ」
「心配ありませんよ。あなたは『クロニクル』で一財産を築いておられる。幾らでも限りなく両替できますよ。しかし――」
「ん、何だよ?」
「いえ、何でもありません。ではお大事に」
家の中に戻ると健人が心配そうな表情をして床で上半身を起こしていた。
「デズモンドさん、あの……」
「何だよ、健人。寝てなきゃだめだろう」
「いえ、デズモンドさん、ありがとうございます」
「急に改まって何だよ」
「デズモンドさんが我が家にお金を入れて下さると言われた時、一体どうやって稼いでいらっしゃるのかと不思議に思ったのですが、天野先生が診察中に『銀河で最も多く読まれている本の著者だ』と言われておりました。我が家はその貴重な金で救われていたのですね」
「何だ、そんな事かよ。いいから気にすんな。元気になれば又、稼げるんだ」
「……そうもいかないような気がしますが」
Like a Rolling Stone
果たして健人の言葉通り、一週間経っても二週間経っても職場復帰は成らなかった。
そして事件から一月後、手紙が届いた。そこには「教師として不適格な言動により免職」という旨が記してあった。
「やはりこういう結果になりました」
夜の茶の間で健人が手紙を見せながら自嘲気味に言った。
「何でそんな事になるんだ。学校は守っちゃくれねえのか?」
「仕方ありませんよ。今は学校でも『非常時』、『国民総動員』ですからね。戦争に反対する不穏分子を守りはしないし、いたずらに擁護して軍部に睨まれたくはありませんよ」
「全く狂ってやがるな」
「でもすっきりしました。明日から仕事を探します」
「――あのな、健人。それについちゃ考えがあるんだが」
「デズモンドさん、地下に逃げ込めとおっしゃるのでしょう。それはできません。私は教え子たちを戦争に追い立て、その中には亡くなった若者もいます。私だけが安全な場所に逃げ出す訳にはいきません」
「お前の責任じゃねえよ」
「いえ、私たち全員の責任です。こうなった以上、逃げる事はできません。逃げたら、大都たち若い世代を誰が守るというのです?」
「だったら俺はどうなるんだ」
「……デズモンドさんや地下の方々は外から来られましたから。自分の星は自分の力で守らないといけない、それを教えてくれたのはデズモンドさんですよ」
「その通りだ。だがな、これだけは言わせてくれ。俺はお前や大都を守る。何故ならかけがえのない友人だからだ。これからもお節介を焼かせてもらうぜ」
「……デズモンドさん、感謝します。大都をよろしくお願い致します」
「おいおい、そんなお別れみてえな事、言わねえでくれよ」
翌日から健人は職探しを始め、二週間後に上野桜木にある製薬会社の出先研究所の職員の口を見つけてきた。
「健人、良かったな。仕事が見つかって」
わしの言葉に健人は照れくさそうに笑った。
「坂出君の紹介なんです」
「持つべきは友人だなあ」
「早速、来週から通勤します」
しかし二か月と経たずに健人は研究所を解雇された。
「おい、健人。どうしたんだ。又、何かとんでもねえ事言ったのか?」
わしは縁側でしょげる健人に声をかけた。
「それが一向に心当たりがないんです。職場は大人の方ばかりですし、十分に気を使ったつもりなのですが、突然に所長に呼び出されて」
「ふーん」
落ち込む健人を残してわしが外に出ると、路地からティオータが手招きをしていた。
「何だよ」
「……お宅の旦那、ありゃあまずいぜ。あの特高の野郎がまとわりついて密告や嫌がらせをしてる。あれじゃあ、どこに行っても続かないなあ」
「やっぱりそうか――健人に伝えるべきか」
「難しい所だな」
「いっそ、あの下何とかいう野郎、締め上げちまうか」
「いや、それは止めといた方がいい。一応あんな奴でも公僕だ。敵に回すのは得策じゃねえ」
「我慢するしかねえのか」
「地下で働きゃいいじゃねえか」
「それはできねえんだとよ。若いもんを見捨てる訳にはいかないんだそうだ」
「立派なもんだ。じゃあ嫌がらせされても我慢するしかねえな」
「けっ、嫌な話だ」
その後も健人は仕事を見つけては解雇される事を繰り返した。仕事も事務職、ビルの守衛を経て、現在は玉の井の先にある長靴工場で働いていた。
家では疲れた顔を見せた事がなかった健人だが、さすがに口数が少なくなっていた。
「おい、健人。無理してんじゃねえか」
「いえ、それよりもドイツがポーランドに侵攻を始めたようです。いよいよ世界規模の戦争が始まります」
「うん、そうだなあ。俺は先々月に出た『国民徴用令』が心配だ。お前も戦争に行かされちまうんだろ?」
「甲種合格ですからね。ですが私は家長ですし、今すぐという事はありませんよ」
「ならいいけどな」
召集令状
夏が過ぎ、秋になっても健人は解雇されなかった。蛇のように執念深い下河坂もあきらめたのか、安定した生活が戻ったと思った矢先に、それはやってきた。
わしが中国地方の調査から戻ると、健人が「話がある」と声をかけた。
「何だよ、改まって」
ちゃぶ台を挟んで健人と向き合った。大都は泣き出しそうな顔になっていた。
「デズモンドさん、私宛てに召集令状が来ました。おそらく大陸に行きます」
「何だよ、お前。すぐには行かないって言ってたじゃねえか」
「状況が変わったのでしょう」
「拒否は?」
「考えた事もありません」
「大体、お前は戦争に反対なんだろ?」
「はい。その気持ちに変わりはありませんが、大都たち若い世代を救わなくてはなりません」
「大都は、大都の面倒はどうすんだよ」
「以前、お願いした通りです。デズモンドさんが大都を預かって下さると嬉しいのですが」
「ちょっと待てよ。お前に身内がいねえのは承知だが、俺の身の上も知ってるだろう」
「はい。永久にという訳ではありません。私が戦地から帰るまでの間だけです。お願いします」
「――少し考えさせてくれねえか」
わしが立ち上がろうとすると健人が厳しい声で止めた。
「地下に行かれるのですか。さすがに今回ばかりはどうにもなりませんよ。それに私ももう覚悟を決めています」
わしは浮かしかけた腰を落し、再び座り直した。
「わかった――だが健人。これだけは約束しろ。絶対に死なないで帰ってこいよ。いいな」
「大丈夫ですよ。戦争が終わったらデズモンドさんの調査旅行にお付き合いしたいですね。大都も連れて……でもそれでは遊びになってしまうか、失礼」
「ああ、絶対に一緒に行こう――だから生きて帰ってこい」
「わかりました。出征は一週間後です。今夜はささやかですがお祝いをしましょう」
一週間後、健人は町内の人々に盛大に送られて戦地に旅立った。