目次
1 屍鬼
警護が手薄な王宮に潜入したシロンは聖なる樹を見上げた。
一時にこんなにたくさんの人が亡くなるなんて、この星でこれまでなかった事に違いない。
シロンは心の中で「ごめんよ」と詫びた。
樹が一瞬、「ざわっ」と揺れたような気がした。まるで警告しているようだった。
聖樹を越え、かつて盛大なパーティが催された庭を抜け、宮城の内部に忍び込んだ。
宮城の中にはイソムボの姿はおろか、他の人間の姿も見当たらなかった。シロンは注意深く部屋を見て回った。
幾つか目の部屋の扉をそっと開けた時に視界の端にかすかに動くものが見えた。
シロンは部屋の中を見回した。書類の束の積まれた大きな机が置いてある、ここがイソムボの執務室に違いない、そう考え、小さく声をかけた。
「……イソムボ様、いらっしゃるならお答え下さい。覇王剣士隊のシロンでございます。お助けに参りました」
白い塊が机の陰で動いた気がした。シロンは急いで机の裏手に回った。
「イソムボ様?」
机の下を覗き込んだ次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
「うっ、何を」
シロンは慌ててその場を飛び退いた。机の下から現れたのはイソムボとは似ても似つかない大きなイノシシのような化け物だった。
化け物を見つめていると扉が突然に閉まった。
「……貴方は」
扉の前に立って行く手を塞いだのはドノスだった。
「ようこそ――ハンナ」
「ハンナ?それはイソムボ様の娘の名前ではないか。イソムボ様はどうした?」
「イソムボ、ああ、とっくに死んでるよ。ハンナ、それよりも勝手に外を出歩いたらだめじゃないか」
「何を言ってる。ハンナは行方不明だろう」
「行方はわかっているさ。私が殺したんだから」
そこまで言ってドノスは端正な顔を歪め、頭をかきむしった。
「だったらお前は誰だ、誰なんだ?」
「……こいつ、いかれてる」
「いいや、やっぱりお前はハンナだ。どうしてお前は私の気持ちをわかってくれないんだ。言う事を聞かないなら、又殺さなければならない。ここにいるツォラがお前を切り刻むぞ」
「……何、ツォラとは《起源の星》のツォラ将軍か?」
シロンは驚いて机の下から現れた化け物を見た。
「現時点での私の最高傑作の一つだ。やはり元がいいと良い作品が出来上がる」
「人体実験か――外道め。許してはおけん」
シロンは剣を抜き、ドノスに向かおうとした。
「ツォラ、やれ」
それまでおとなしくしていた化け物が低く吠えた。凄まじい殺気を感じたシロンは一旦ドノスをあきらめ、かつてツォラだった化け物に向き合った。
イノシシのような化け物は涎を垂らしながら近付いた。両手の鋭い爪を振り回し、シロンはその攻撃を巧みに剣で避けた。
狭い部屋の中での戦いで互いに動きが制限された。ツォラの右手の爪が狙いをはずして本棚に突き刺さると、シロンはすかさず右肩に渾身の突きをお見舞いした。
ツォラは恐ろしい雄叫びを上げて残った左腕を目茶苦茶に振り回し始めた。その勢いに押されて、一歩退いたシロンは椅子の角に踵を引っかけ、バランスを崩して尻餅を着いた。
倒れたシロンにツォラが飛び乗った。ツォラは馬乗りになったまま左腕を大きく振り上げ、首を切り裂こうとした。
勝ち誇ったような咆哮が途中で止まった。黒い塊が部屋に飛び込んでツォラの顔面の辺りに襲いかかっていた。ツォラはたまらず顔を押さえてシロンから離れた。
その隙に体勢を立て直したシロンは心臓に剣を突き立てた。ツォラは一瞬だけ人間に戻ったかのような笑顔を見せ、そして静かに倒れた。
シロンは自分を救った黒い塊を見た。部屋の隅にいるそれは、人間の顔に鳥の姿をした女性だった。
鳥の姿の女性は哀しそうな目でシロンを見た。
「さあ、早く逃げなよ。ここにいては危険さ」
「あなたは――でもドノスをこのままにはしておけない」
シロンはドノスのいた方を振り返った。ドノスは今まさにドアを開けて逃げ去る所だった。
「待て!」
シロンは後を追った。ドノスがドアを開けた先は小さな部屋で、そこでも又ドノスはドアを開けようとしていた。ドアを開けたその先も小さな小部屋、そのまた先も小部屋、部屋はどこまでも続いていた。
「……おかしい。こんなに部屋が続いているはずがない」
「あんた。空間の歪みに引きずり込まれようとしてんだよ」
慌てて追いかけてきた鳥の女性がシロンの肩越しに言った。
「……空間の歪み?」
シロンは走る速度を緩めた。
「そう。ドノスがあの忌々しいヘウドゥオスからもらったものの一つ。あんたが最後まで付いていって、あのおぞましい部屋を見たいなら止めないけど」
「おぞましい部屋?」
「あたいもそこで改造されたの。そしてハルピュイアと名前を付けられて『忌避者の村』に捨てられた」
「何て事を……ハンナもそこにいるのか?」
「……あそこで永遠の眠りについてるわ。よく似たあんたを見てドノスはおかしくなっちまったみたい。ほら、ドアは開いてるでしょ。あんたを誘ってるんだよ」
「……どうすれば?」
「これ以上、深入りしない方がいいよ。あたいに任せてここを抜け出そう」
「……うん。一旦仲間と合流してから改めてドノスを討ち取るよ」
「そうこなくっちゃ。じゃあ、あたいにつかまって」
シロンはハルピュイアの足に捕まった。ハルピュイアは風のように飛び立ち、いつの間にかシロンは王宮の外に出ていた。
「じゃあ気を付けてね。あたいは村に戻るから」
「本当にありがとう。仇はきっと取るから」
「無理しなくていいよ。こんな姿にならなくても、どうせ貧民街で野垂れ死にだったんだ……じゃあね」