目次
1 甘い罠
黄龍たちが目覚めてから五十昼夜が経とうとしていた。黄龍の指導の下、三界、『持たざる者』が一致協力してシップの頭数もようやく揃いつつあった。
黄龍のアドバイスを受けて『推力』使用に伴う体力の消費が従来よりも抑えられるようになり、シップ自体の軽量化、堅牢化も進められた。
ルンビアはサフィ、黄龍と共に《巨大な星》に到達し、アンフィテアトルという都会で文明を持った先住民たちと交流を図るのに成功し、移住を快諾してもらった。
他にもいくつか移住候補となる星が見つかったが、いずれも《古の世界》より文明が発達しておらず、住民を刺激しないように慎重に接触を行う事となった。
三界の交流はホーケンスだけでなく世界の至る所で深まった。
トイサルは自分が長年取り組んできた三界の融和があっさりと実現したのを半ば複雑な気持ちで眺めた。本当はもっと喜ぶべき状況なのはわかっていた。だが所詮、この平和は次に目覚めるのが黒龍たちであれば終わる。雨の止んだ束の間だけ、空に渡される美しい虹の橋のようなものなのだ。
工房のあるホーケンスのはずれの平地では、ずらりと並んだシップを前に黄龍とピエニオスが話をしていた。
「ようやく完成か。これも黄龍のじいさんのおかげだよ」
「ほっほっほ。よく頑張ったの。全部で何隻じゃ?」
「じいさんが百人乗れるように知恵を出してくれたからな……えーと、『空を翔る者』が六隻、水が五隻、地が五隻、ミサゴで六、サソーが五、ワジが四、マードネツクが四、ホーケンスが四、それに予備が一だから全部で四十だな」
「それは凄いのぉ」
「こんな風に世界の人口がわかるようになったのもシップ製造の賜ってやつだよ。何でもっと早くにうまい事やれなかったもんかなあ」
「まあ、よしとせんといかん。ところで食料の貯えも忘れるでないぞ」
「ああ、《巨大な星》の『約束の地』までは三十昼夜くらいかかるんだろ。これだけの人数が食いっぱぐれないように準備してるはずだぜ」
「トイサルの店で出しているような料理では日持ちせんから保存の効くものを選ばないとな――ところでこのシップ、ここに置いておくつもりか」
「近いうちに引き取ってもらう。今はどこも練習船を使ってっから、皆、本番のシップで航行の訓練をしたいに決まってら」
「どうにか間に合ってよかったの」
もちろんこの平和な状況とは無縁の人間たちもいた。
『水に棲む者』のサソー居留地のリーダー、トスタイの場合、状況は深刻だった。
レイキールがシップ建造についてアダニアを登用したため、居留地の住民の大半はアダニアがリーダーだという態度を示すようになっていた。
ある日、トスタイは海底宮から出てくるヤッカームを見つけ、泣きついた。
「ヤッカーム様、どうにかして下さいよ。このままじゃ、あっしはリーダーの座を追放されちまいます」
「人望がないのだから仕方あるまい」
「何とかなりませんか?」
「ならんな……何かを犠牲にする覚悟があるなら別だが」
「え、それは?」
「お前は先代ワンクラール王に取り入り、海産物をホーケンスで販売する権利を手にいれた。だがその実、売上の一部を懐に入れ、ホーケンスに豪邸を建てるまでになった。レイキール王は今はあのようにシップ建造に浮かれているが、この事実が露見すればただでは済まない」
「な、何を言うんですか。脅しですか」
「安心しろ。お前ごときの悪行を注進するつもりはない。ホーケンスの怪しい組織とも通じているようだな」
「いえ、古くからの知り合いってだけで」
「そこに囲われている女の中にずいぶんと美しいのがいるそうじゃないか」
「ああ。元々はホーケンスの靴職人の女房だったんですけど、しばらく前に旦那がぽっくり逝きましてね。で、借金のカタに」
「その女を上手く使えばいいのではないか?」
「どういう意味でしょう?」
「『持たざる者』のリーダーたちを調査させた結果を聞かなかったのか。当然の事だが、サフィやルンビアはまだ子供で色仕掛けなど通用しない。エクシロン、ワジのウシュケー、マードネツクのニライ、この連中にも隙がない。だがお前が最も憎く思うアダニアは違う」
「あの堅物がですか?」
「アダニアは信心深い男でサフィを崇拝している。信仰を極めれば、まず自分自身が救われると思っていたらしい。だがサフィは信仰で人々を救えと言う。信仰心しかない自分に人が救えるだろうか、どうやら奴にはまだ迷いがあるようだ」
「へえ、よくそんな事調べましたね」
「サフィに近い人間とも情報交換をしているのだ」
「で、具体的にはどうすりゃいいんでしょう?」
「さあな、そのくらいは自分で考えろ。だが命を奪うなよ。サフィたちはこの世界の脱出に不可欠な存在だ。あくまでもアダニアが失態を犯し、サソーに居づらくなり、サフィに負い目を感じるようにするくらいだな」
「十分でやすよ。アダニアをどうにかできりゃ、あっしは万々歳だ」
ヤッカームはトスタイと別れ、ホーケンスに向かった。
「可哀そうだが、あの小者は新しい世界を拝めないな」
ヤッカームがホーケンスの屋敷にいると今度は『地に潜る者』、ギラゴーが訪ねてきた。
ギラゴーも微妙な立場だった。ネボリンドが相手にしなくなったため、閑職に追いやられていた。
「ヤッカーム様。お互い、暇ですな」
小狡い笑みを浮かべるギラゴーをヤッカームは一瞥した。
「気にならんな。彼らが一刻も早くこの世界を脱出するシップを建造する事を祈るのみだ」
「あのサフィって小僧、最初はとんでもないペテン師かと思ってましたけど、実際に龍が出現したんじゃ、文句も言えませんやね」
「サフィを過小評価してはいかん。我が好敵手に成長してもらわないと困るのだ。彼らが向かうであろう『約束の地』とやらにも一足先に行ってきた」
「えっ、ヤッカーム様。すでにシップをお持ちなんですか。だったら早いとこレイキールを殺して、『凍土の怒り』を奪ってずらかりましょうよ」
「……お前にこんな事を言っても理解できないだろうが、私にはこの星の最期を見届ける義務がある。それはリーバルンもレイキールもネボリンドも同じ。その時まではここに留まるつもりだ」
「じゃあ凍土の怒りは?」
「脱出時の混乱を狙い、レイキールから剣を頂戴する。珊瑚についてはその後で構わん」
「で、その後は?」
「祝福を受けた者でないと創造主の遺物は使えない事をシャイアンの一件で学んだ。私には凍土の怒りの力を引き出せない可能性が高い。だが剣の持つ氷の力を増幅させてやるだけでも、この銀河くらいは全て凍り付かせる事は可能なはずだ。そしてそのための舞台装置を約束の地で発見した」
「何が何だか」
「よいか、ギラゴー。お前はネボリンドに相手にされない以上、私に付いてくるしかないのだ。今から計画を話すからよく聞いておけ」
サフィたちは交替で三日ホーケンスでの飛行訓練、次の三日はそれぞれの居留地での乗員訓練を行った。
サフィの見守る中、アダニアの乗ったシップが戻ってきた。
「アダニア、調子がいいようだね」
「はい。『約束の地』に行ける自信が付いてきました。後は人々を乗せて同じようにできるかどうかです」
「頼むよ。君には多くの人を率いてほしいんだ。サソーだけでなく、ミサゴやワジ、ホーケンスやマードネツク」
「サフィ様、本当に私にそんな事ができるでしょうか?」
「大丈夫だよ、君には人並み外れた信仰心がある。それを発揮すれば良い指導者になれる」
「……はい」
サフィと別れて、工房の脇に建てられた事務所で日誌に飛行記録を書き込んだ。行先、シップの問題点、特に重要な体の疲労具合などを事細かに記録してからピエニオスたちに挨拶をして外に出た。
アダニアはまっすぐサソーに戻らずにホーケンスの市街地に向かった。
(自分は、世界を救うなどという大それた事業にふさわしい人間か)
足は一軒の民家の前で止まった――
――十日ほど前だった。今と同じように苦悶しながらホーケンスの街を歩いていると、大通りから一本入った路地で一人の若い女性が四、五人の男に絡まれているのが目に入った。
アダニアは周りを見回してから意を決すと路地に向かった。
「何をしているのですか?」
「あん、何だてめえは。文句でもあんのか」
「若い女性を多くの人間が取り囲む。良い事には見えませんが」
「邪魔すんじゃねえよ。おれたちゃ、これからお楽しみなんだよ」
男たちは肩をいからせながら近付いた。
(仕方ない。杖しか持っていないがどうにかなる。サフィ様、私をお守り下さい)
男の一人が殴り掛かるのをひらりと空中に飛び上がって避けた。男たちは訓練を積んだアダニアの敵ではなかった。あっと言う間に二、三人が蹴り倒され、残りは泡を食って、倒れた男を担いで逃げ出した。
「お怪我はありませんでしたか?」
「……はい。どうもありがとうございます。本当に助かりました」
「よろしければご自宅までお送りしましょう。まだ待ち伏せしているかもしれません」
女性はビリヌという名だった。石畳の坂道の途中にある一軒の民家の前で「ここが私の家です」と言った。
「では私はこれで」
「あ、あの、アダニア様。よろしければ家でお茶をごちそうさせてくれませんか?」
アダニアは一万昼夜を信仰に捧げて生きてきた。居留地の他の男たちは、ある程度の年になれば何の疑問も持たずに恋をし、そして結婚をし、子供を授かった。
しかしアダニアの場合、いつか現れる救世主が自分の魂を解放してくれる、それだけを信じ、周りの事は気にならなかった。
ミサゴに暮らすサフィという少年が幼い頃から数々の奇蹟を起こしているという噂を聞いた時には、心が震えた。この方こそが自分の待っていた救世主だ、信仰に一層熱がこもるようになった。
だが実際に会ったサフィは、救われる側ではなく救う側の人間になれと告げた。
自分が世界を救う、何と大それた話だ、やりおおせる自信がなかった。
「アダニア様?」
ビリヌが心配そうに覗き込んだ。鳶色の瞳が潤んでいた。
「あ、考え事をしていたもので」
「まあ、女性といる時に失礼ですわ」
「し、失礼致しました」
「さあ、上がって下さいな。一人暮らしですからお気遣いなく」
家に上がって、茶を振る舞われ、話をして時間を過ごした。それは今までにない経験だった。
気が付けばずいぶんと時間が経っていた。アダニアは慌てて辞去する事にした。
ビリヌが玄関まで送ってくれた。
「アダニア様、また来て下さいますね?」
ぷるんとした唇が艶めかしく光った。
「いや、その……ご迷惑でなければ」
アダニアは必死でビリヌの唇から目をそらした――
――そして、幾度となくビリヌの家に通ってしまっている
「試験飛行の方は如何ですか?」
「ああ、問題なく進んでいます」
アダニアはビリヌの入れたお茶を啜りながら答えた。
「本当に龍が蘇るんでしょうか。それにこの世界が滅びるだなんて」
「準備をしておかないと、いざという時になってからでは遅いのです。サフィ様の言葉に間違いはありません」
「サフィ様、サフィ様って救世主のお話ばっかり。何だか妬けます」
ビリヌはテーブル越しにアダニアの手を握った。
「……」
「アダニア様、今夜は泊っていって下さいますね」