目次
1 サフィの出仕
サフィは一人前の大人として認められる五千昼夜を迎えた。
「サフィよ。色々あった。長かったような気もするし、あっという間だった気もする。よくぞ……頑張ったな」
プントの家に呼ばれたサフィを前にプントが言った。
「まだまだこれからだよ」
「『山鳴殿』から連絡があった。式典の翌日より出仕せよとの事だ。嫌なら断ってもいいぞ?」
「断る理由はないさ。幼い頃、リーバルン様と交わした約束があるんだ。『私が大人になったら、この世界を共に変えよう』と。リーバルン様が覚えておいでであればだけど」
「いや、あの方なら覚えておられるはずだ。それよりも心配なのはお前の気持ち。わだかまりは本当にないな?」
「父も母もこの世界に生まれた希望を守るために戦っただけの事。私は両親を誇りに思うし、リーバルン様にも変わらぬ尊敬の念を抱いているよ」
「なら何も言うまい。今夜はささやかながらお前の送別会を行おう」
サフィが家に戻ると来客があった。
「兄さん、こんにちは」
「やあ、ルンビア。今日はどうしたんだい?」
ルンビアは『空を翔る者』の王となってから頻繁にサフィの下をお忍びで訪れていた。
「いよいよ明日ですね」
「うん、そうだね。お手柔らかに頼むよ――いや、まずは言葉使いを改めないと。我が王よ、この命に代えても」
「兄さん、冗談は止めて下さい。今まで通り兄が弟に話す口調でいいんですから」
「そうはいかないさ。プトラゲーニョ将軍にでも聞かれたら打ち首だよ」
「やれやれ、頑固だな。詳しくは明日話しましょう」
「けじめという奴さ。ところでルンビア、この後の予定は?」
「宮殿に帰らないと。色々とやる事があって」
「王ともなると忙しい。引き留める訳にはいかないなあ」
「兄さん、その事だけど……」
「さあ、こんな所で油売ってる場合じゃないぞ。明日からよろしく」
サフィが出仕してから数日が過ぎた。最初は年長者に付いて仕事を見て回り、それから雑用担当となった。
毎日、朝早くから夜遅くまで働いた。かつてのサフィの両親のように家族を持つ者は数週間に一度ミサゴに帰ったが、身寄りのない、ましてや新入りのサフィは宮殿にほぼ常駐の状態だった。
ある日、サフィが一日の仕事を終え、ようやく眠りにつこうかという時になって、当直の年長者が慌てた様子で営舎にやってきた。
「おい、サフィ」
「はい、何ですか?」
「お前、何かやらかしたか?」
「いえ、心当たりはありませんが」
「ならいいんだが、スクート様にお前の事を聞かれたんでな――いよいよ直々の呼び出しがあるかな」
「仕事も一人前にできないし、まだ早いですよ」
「いやいや、お前は特別だ。とにかくおれたちのためにも頑張ってくれよな、じゃ」
「ありがとうございました」
果たして、その翌日に予告もなしにプトラゲーニョが作業場の視察に訪れた。
プトラゲーニョはスクートを従え、縫製場で黙々と仕事に勤しむ人々に声をかけて回った。
ちょうど倉庫から新しい布を運び出し終えたサフィの前でプトラゲーニョの足が止まった。
「新入りだな。名前は?」
年を取ってはいたが、プトラゲーニョは変わらぬ鋭い目つきで質問をした。
「はい。サフィ・ニンゴラントと申します」
「ん、ニンゴラントというのは何だ?」
「いえ、サフィだけでは恰好がつかないので、サフィ・ニンゴラントと名乗ろうかと」
「変わった奴だ……だが立派になったな」
プトラゲーニョの視線が柔らかくなった。
「出仕するとなったら、何故、真っ先に連絡に来んのだ」
「まずは仕事を覚えるのが先だと思いました」
「特別扱いは困るか。お前らしい。だがこうしてわしと話をしている段階ですでに特別だ――ここでは話がしにくい。スクートについて宮中まで参れ」
プトラゲーニョは振り返る事なく外に出ていった。
サフィはスクートの後を歩いた。宮殿は天井の少ない作りだった。空を飛んだ方が移動に手間取らない事もあったし、空を翔る者の中には閉鎖された空間が苦手な者も多かったからだ。
「サフィは大人になったなあ。いや、昔からしっかりしてたけどな」
前を歩くスクートがサフィを振り返りながら言った。
「いえ、まだまだ未熟者です。早く仕事を覚えて年長の方のお力にならないと」
「……そうもいかないんだよ。将軍も言ってたけど君は特別だし、多分、別の任務が与えられると思うよ」
「さあ、ここだ」
スクートが大きな部屋の前で立ち止まった。
天井のない吹き抜けの大きな部屋の中央に円形の卓があり、すでにプトラゲーニョが座っていた。
「まあ座れ、サフィ、スクートもだ」
プトラゲーニョが声をかけた。
「これから話す内容は他言無用だ。まだ公式発表前だからな。いいな」
サフィは大きく頷いた。
「まずはお前の意志確認だ。かねてより先代王、リーバルン、我が王からお前の志について幾度となく話を聞いてきた。サフィよ、志に変わりはないな?」
「はい」
「うむ。空を翔る者の中から斯様な崇高な精神の持ち主が現れなかったのは残念だが、その考え自体が馬鹿げている。優れた人物であれば種族に関係なく重用していかねばならない――そこでお前を我が王直属の視察官に任命する」
「……視察官とは何をするのでしょうか?」
「我が王の目となり、耳となって、この世界のあらゆる場所を訪ね、少しでも多くの共鳴者を増やしてほしい。それがやがては新しい世界を作る大きなうねりとなる」
「はい……ただ私はまだ半人前の身。せめて仕事を覚えるまでは――」
「サフィ、こんな言い方は好きではないが、お前は縫製場で布を運ぶためにここに来たのではない。それは縫製場の人間も他の作業場の人間も理解しているはずだ。一刻も早くお前に立ち上がってほしいと思っている。そんな事をしている余裕はないのだ」
「では謹んでお受け致します」
「よし、ここまではいいな。ついてはお前と行動を共にするパートナーを紹介しよう――どうぞ、お入りを」
プトラゲーニョの声を合図に部屋に入ってきたのは背中に美しい白い翼を生やしたルンビアだった。
「ル……我が王?」
「兄さん、ぼくはもう王ではなくなるんだ。これからは兄さんと一緒に世界各地を飛び回るのさ」
「いや、しかし王としての政は?」
「サフィ、申したであろう」とプトラゲーニョが口を挟んだ。「お前の出仕を契機として、リーバルンが王になり、お前はルンビアと共にそれを補佐する、その発表を間もなく行う」
「……リーバルン様がその気になって下さったのですか?」
「うむ、あいつはお前とルンビアのためなら何でもすると言っていた」
「そんな私ごときなど」
「この宮殿の書庫にある蔵書の類は好きに読んでよいぞ。きっとお前のためになる事が書いてある」
「ありがとうございます……ですが幼少の頃より、ミサゴの人間に頼んで、蔵書を秘かに持ち出してもらっていたのです。あらかたは読んでしまったはずです」
「……時折、『蔵書がない』とリーバルンが騒いでおったが、お前の仕業だったか。道理で幼い時からすでに医術の心得があったはずだ」
「申し訳ありません」
「本来であれば処罰の対象だが、お前が相手では怒る気にもなれん――気にするな。で、最近は何を読んだ?」
「はい。『羅漢陣』と呼ばれる、Arhatsを呼び出す術についての書物でございます」
「あまり魔道を突き詰めん方がいいぞ。武術の心得も忘れるでない」
「はい」
「実はな、一つ心配がある。それは我らとお前の体の違いだ。お前の移動能力では迅速に任務を達成できないのではないかという事だ」
「将軍、心配は要りません。私は重力を制御できます」
「重力を制御するか。以前もそんな話を聞いたな――サフィ、今ここでやってみる事はできるか?」
プトラゲーニョの問いかけにサフィは静かに頷いた。
サフィが円形の卓の傍らに立ち、静かに目を閉じ、両手を合わせると、その足は徐々に床から離れていった。サフィの両足が五十センチほど宙に浮いた所でプトラゲーニョが声をかけた。
「こちらまで移動できるか?」
サフィは呼びかけに応じてプトラゲーニョの近くまでふわりと飛んでいき、部屋の周りを一周してから地上に降りた。
「うむ、見事だ。『持たざる者』などと言われるが、創造主はお前たちに一番の可能性を残して下さったのかもしれんな。合格だ、サフィ。明日から頑張れよ」
プトラゲーニョが出ていくと、ルンビアとスクートが声をかけた。
「へー、空を翔る者以外が空を飛ぶのを初めて見たよ」
「兄さん、やはりすごいです。何と言う名の術ですか?」とルンビアが尋ねた。
「考えてなかったな。そうだな、重力耐性、あるいは重力適性とでも言うのかな。まだ他にも訓練している事があるんだ」
「え、何ですか?」
「ルンビア、お前にとっては何でもないけど、私たちは水の中では生きてはいけないんだ。そういった状況でも呼吸をする訓練だよ。後は毒に対しての抵抗力を高める訓練もしているんだ」
「どうしてそんな事を?」
「だってそうだろう。水の中で行動できれば『白花の海』の中にも入っていける。毒に抵抗があれば、『淡霞低地』の奥にだって入っていけるじゃないか」
「おれはお前が子供の頃からただ者じゃないとは思ってたよ。まあ、晴れて仲間だ。楽しくやろうぜ」
スクートは肩をすくめて大げさに言った。