目次
1 警視庁登場
特殊事象班
1983年8月6日早朝、文京区M町にある糸瀬邸はものものしい雰囲気に包まれた。付近の道路には黄色の非常線テープが張られ、制服を着た警官や救急病院の人間たちがひっきりなしに行き交った。
数台の車に分乗した一団が到着し、現場に緊張が走った。車から降りた制服姿ではない男たちは無言で非常線の奥の現場に進んでいっだ。
非常線テープを張り直していた若い警官が同僚の警官に小声で耳打ちした。
「本庁のお出ましだ」
「四課はやっぱり強面だな。びびっちまうよ」
「一課のヤマだろ?」
「やられたのが全員そっち、池袋修蛇会の人間だから合同捜査らしいぞ」
「えーっ」
「最初にテープくぐった人見たか。四課の中でも”R班”だ。一度、歌舞伎町でお見かけした」
「R班って大陸系の飛頭蛮専従だろ。一筋縄じゃいかないヤマだな」
「あの現場を見ちゃ、誰でもそう思うさ」
強面の男たちが現場に消えた数分後、別の車から一人の男が降り、会釈をしてテープをくぐった。
「今の人は雰囲気が違うな?」
「うん、四課じゃなさそうだし、一課にあんな人いたかな?」
警官たちが噂した最後に非常線のテープをくぐった人物、警視庁特殊事象班、通称『特事』に所属する青年、蒲田大吾は現場検証に加わらず、屋敷の広い庭をゆっくりと歩いた。
早朝、上司の西浦から電話があった時は、何故自分が行かねばならないのか理解できなかった。
「西浦さん、やくざ者同士の抗争でしょ?」
「うーん、そうなんだけどね。嫌な予感がするんだ」
受話器越しの上司の声はあくまでも穏やかだった。
特殊事象班は複雑な事情の下に成立した組織だった。
日本経済が肥大するにつれ、犯罪の背景も又、多様化していき、捜査に当たって警察内部の主導権争いが散見されるようになった。
刑事部の一課、二課、四課が互いの情報を出し惜しみしたために、円滑な捜査が妨げられた事もあり、更にようやく捜査が終結しようかという時に、公安部から刑事部に横槍が入り、事件自体が想像もつかない幕引きを迎える場合も少なくなかった。
「開かれた警察」――このスローガンと相反する組織内部の状況を重く見た警察幹部たちは協議の末、妥協案に到達した。
公安部が保有する機密情報は刑事部と共有し、その情報を刑事部で管理するために特殊事象班ができた。
公安出身の西浦治が班長を務め、その下に一課、二課、四課出身の班員がいたが、様々な事情を経て現在は一課出身の蒲田大吾だけが残っていた。
人がいないにも関わらず、班が存続する理由、それは特事班に捜査権限はなく、捜査会議に参加し、事件或いは被疑者が『特事』の管理する『NFI (No Further Investigation:捜査中止) リスト』に該当するか否かを進言するのが主たる任務だったからだ。
仮に被疑者がNFIだった場合、特事は捜査本部にその旨を伝え、それに基づいて様々な調整が行われた。
ある殺人事件では被疑者の名前は一切公表されなくなり、又、ある暴力事件では被疑者の所属する団体に被疑者以外の人間を出頭させるように要請した。
公になれば、警察に対する信頼の根幹を揺るがすに違いないNFI、このようなものを誰が何のために作成したのか?
蒲田自身もよく知らなかったが、元々は中央の情報機関、内閣調査室が管理していて、後に公安部に渡ったものらしかった。
NFIのリストはランク別に分かれており、最重要のAランクからEランクまで存在した。
DやEの人物については、蒲田のような下っ端でも独断で進言する事ができたが、C以上については上司の西浦の許可が必要だった。
Aランクは西浦の許可なしには閲覧もできず、噂では更にその上の『U:アンタッチャブル』というランクまで存在するらしかった。
電話中に我に返った蒲田は西浦に尋ねた。
「西浦さん、NFIが関係してるって思うんですか?」
「蒲田君。修蛇会の唐河十三、飛頭蛮の養万春、この二人、Aランクだよ」
「えっ?」
「びっくりしちゃうよねえ」
「ええ、僕のような下っ端にはAランクの定義がわかりませんが、反社会的集団の代表となればとびっきりのNFIになるんですか?」
「まあ、その話はいずれね。それよりも現場になった糸瀬優の方に引っかかりを感じるんだよ」
「糸瀬って、たまにテレビで見かけますけど……やっぱりNFIですか?」
「いや、違うよ。最初に言ったでしょ。予感だって――
西浦の思い過ごしだ、やくざがらみの抗争は領分ではないと思いながら現場に向かった。
そして現場を一目見た瞬間に自身の間違いに気付いた。これは警察組織では対応不可能な事件かもしれない。