6.1. Story 1 83.08

 Story 2 邂逅

1 自然(じねん)

 

晩夏、満天の星

 リンは裏通りにある小さな公園のブランコに腰掛けて夜空を眺めた。
 珍しく星がよく見えた。新宿でこんなにきれいな星空を見るのは初めてかもしれなかった。
 細い通りを隔てた店内の喧騒はいつの間にか止んでいる。何かあったのかもしれないが、シゲさんが呼びに来るはずだと思い直して、飽きずに夏の夜空を観続けた。

 
 店の裏口のドアが開いて、マスターのシゲがその白塗りの顔をひょいと出した。
「ちょとリンちゃん、性質(たち)の悪いのがくだ巻いてんのよ」
「酔っ払いならシゲさん、自分でやれば。空手と柔道、それに剣道も有段者でしょ」
「そんなの昔の話。今はただのか弱き乙女よ。さあ、早く。ぱっぱっと片付けちゃってよ」

 
 リンは背中を押されるようにして『ジャンゴ』の店内に戻った。
 さほど広くない店内にはカウンタとテーブルが八席、カウンタの半分ほどを常連客が占めていたが、皆黙って下を向き、笑いを堪えているようだった。

 奥のテーブルの三人組が騒ぎの当事者だった。どこに行けば買えるのか訊ねてみたくなるほど品のない赤いアロハを着た若者とサングラスをおでこに引っかけた金髪の若者、それに兄貴分らしい薄紫のダブルのスーツを着た小太りの男だった。
「おい、責任者連れてきたのかよお」とアロハの男がシゲの姿を認めていきがった。

「何に因縁つけてるの?」
 リンが耳打ちし、シゲも耳打ちで返した。
「いやよねー、ジャズ喫茶なのに中林明菜の”サード・ラブ”かけろって言うのよ。秋吉敏子ならありますって答えたら、田舎者だと思ってなめてんのか、責任者呼んでこいって――でも大丈夫よ、修蛇会とかじゃないし、RFD(ディエム難民:Refugee from Diem)みたいにめんどくさいのでもない、ただの田舎者」

 

ディエム難民

 RFDか――
 リンは記憶を辿った。

 人々は皆、「ディエム難民」と呼んでいた。
 押し付けられた厄介な荷物、この島国特有の排他性からくるものだけではなく、実際にRFDの「D」は「デンジャー」の略だという噂が流れるくらい、厄介な存在だった。

 ディエムとはある日突然この地球上に現れた十本ほどの巨大な柱の事だ。海外に出かけた経験のないリンはもちろん実物を見る機会はなかったが、テレビで観た限り、奇妙な捻れ方をして、空中をぷかぷかと漂うその様は自然界の物には見えなかった。
 確認できる2、3本を除けば、殆どのディエムは険しい高山や、深い海溝といった容易には到達できない場所に存在していた事から人工の構築物である可能性も極めて低いとされた。

 「神々の物見櫓」、人々にとってディエムは信仰の対象となる一方で、当然それを邪魔だと思う人間もいた。
 そうしたディエムに敵対する姿勢を見せた人間や国に訪れた数々のアクシデントは小さな国家体制を転覆させ、ついに巨大な国が後に「ディエム戦争」と言われる武力行使に乗り出した挙句、自滅するに至って、人々はこれは人智を越えた存在であり触れてはいけないものなのだと実感するようになった。

 こういう時に最も不幸なのは国に住めなくなった人々である。
 国際社会は率先して彼らを受け入れる決定を下し、この島国にも「ディエム難民」と呼ばれる人々が移住するようになったのだそうだ。

 
 リンは高校生の時に一度だけ、日本国内に点在するRFD居留地の一つ、新宿の北にある地区にうっかり入り込んでしまった事があった。
 地区と言っても塀や囲いで区切られている訳ではなく、数本の通りの交差する一角が居留地指定されているだけだったので、土地勘のない人間や考え事をしながら歩く者は容易に迷い込む可能性があった。

 表通りから見た限りはよくある雑然とした繁華街だったが、一歩中に入り、進むにつれて様相は変わっていった。
 さほど広くない通りの左右に人が溢れていた。ある場所では初老の男たちが縁台を持ち出し、カードを使った賭け事に熱中していた。別の場所では酒瓶を抱えてだらしなく寝こける若者とその脇でガムをくちゃくちゃ噛みながら金づるになりそうな相手を物色する少女がいた。通りの左右にたむろする、そうした老若男女は突如迷い込んできた異邦人の少年を値踏みするように凝視した。
 普通の神経の持ち主であれば躊躇し、表通りに引き返すのだがリンは違った。自分が暮らす秩序立った東京とは全く異なる世界が隣り合わせで存在する事に興奮し、背中がひりつくような緊張感に襲われ、通りの奥へと歩を進めた。

 五分ほど歩くと地区の最深部だったが、そこでは人影はばったりと途絶えていた。
 人の姿が見当たらないのに感じる無数の視線、リンは迷った。勝てない人数ではなかったが、戦った所で何の意味もなかった。
 リンは左右の雑居ビルを見回してから、大きく息を吸い、気配を消した――

 

瞬殺

 ――ちょっと、リンちゃん。何、ぼーっとしてんのよ」
 シゲに背後から囁かれ、リンは我に返った。
「早いとこ、片づけちゃってよ」

「何、こそこそ話してんだ。責任者はどいつだよ。まさかその小僧じゃねえだろうな」
 今度はサングラスをおでこにかけた男がすごんだ。
「そのまさかなの。この子がお相手するわ」
 シゲはリンにウインクしてから、さっさと常連客の席の方に行ってひそひそ話を始めた。

 
 三人の男はリンを取り囲むように立ち上がった。
「まあ、ええわ。兄ちゃん、サービス業っちゅうのはな――」
 兄貴分らしき男がそこまで言った時に、男の左隣のサングラスの若者が突然に前のめりに倒れた。
「おっ」
 兄貴分が倒れた若者を見て声を上げる間に、今度は右隣のアロハの男も同じように操り人形の糸が切れたように、ぐにゃりと崩れ落ちた。
「……てめえ」
 兄貴分は何が起こったのかわからないまま対峙するリンの方に向き直ったが、そこにリンの姿はなかった。
「どこに――」
 言葉が途切れ、兄貴分らしき男はゆっくりとと前向きに倒れた。

 
「ひゃっほう」
 シゲの声に続いて常連客たちも歓声を上げた。
「45秒って感じかしら、ケン坊、何って言ってたっけ、1分、惜しかったわね。他はどう、3分、5分、2分半……親の総取りね。ブラボー、リンちゃん、好きよ」
「シゲさん、くだらない事やってないで、早くこの人たちを外に出しとこうよ」
 リンは何事もなかったように倒れた男たちの背後から姿を現し、シゲは警察に電話をして男たちを引き取ってもらう算段をつけた。
「リンちゃん、強いわ。っていうか見るたびにすごくなってる。初めて会った頃のリンちゃんなんて今と比べれば子供みたいなもんねえ」

 

自然の極意

 リンが若い方二人を、シゲが兄貴分をそれぞれ担いで、警察に連絡した引き取り場所の交差点まで運んだ。シゲが赤いワンピースの裾を捲し上げて、すね毛丸出しのがに股で歩くのを見たリンは吹き出しそうになった。
 シゲは店内にいる時とはがらっと異なるどすの利いた声でリンに言った。

 
「店内ではああ言ったものの……最後の男の時、何をためらったの?」
「やっぱりお見通しか。最後の人は太ってたでしょ。急所を見極めるのに手間取ったんだ」
「強い相手にはその一瞬のためらいが命取りになるのよ」
「何言ってんの。そんな修羅場には首、突っ込まないよ」

「でも不思議よね。気配を消すっていう常人には真似できない技の持主なのに攻撃が苦手だなんて」
「うん。攻撃に移るとどうしても気配が表に出ちゃうんだ。裏表の関係だね」
「あんたの師匠はそれをやってのけるんでしょ」
「ケイジは別だよ。あの人こそが本物の『自然(じねん)』の使い手。僕はたまたま修行を続けていて気配を消す技を覚えただけ」
「何だっけ。『集中』……」
「『集中』、『摺り足』、『剣振り』。師匠は十年間それしか教えてくれなかった」
「で、行き着いた先が『自然』って訳ね――ね、前にも聞いたけどもう一回だけ極意を教えて」

 
「――まずは集中を極限まで高める」
「それで、それで」
「そうすると何ていうのかな、テンションみたいなものが身体の中に湧き上がってくる。今度はそのテンションを体中のあらゆる場所、指先や足の先まで行き渡るように頭の中で念じるんだ」
「うん、うん」
「すると突然に指先や足先がどこまでも無限に広がっていく感覚に襲われる。でもそれは末端が伸びてるんじゃなくて身体が周囲の環境と同化しつつあるポイント、そこが自然なんだ」
「ふーん、聞いたからってできるもんじゃなさそうね」
「物凄く微妙だからね。最近では素早く、そして長時間自然の状態を続けられるようになったけど、言ったみたいに攻撃しようとするとだめ。そもそも周囲と同化したものが襲ってくるって穏やかじゃないからね」

「まあね。あたしが連れてってあげた警視庁の道場では剣道の全日本王者から一本取ったじゃない?」
「あれは相手の山坂さんが面食らっただけだよ。あの後、もう一度手合せする機会があったけど一本は取らせてもらえなかった」
「自然のままで攻撃もできるようになれば日本一なのに」
「師匠が僕に攻撃の技を教えてくれなかったのにはきっと深い意味があるんじゃないかな」
「えっ、どんな?」
「だって日本で普通に暮らしてたら戦う事なんてないし、それに武道の競技で自然はちょっとまずいよ」
「気配が消える……審判も気付かなくなるって事?」
「うん、極めればそうなっちゃう。そんなの意味ないよ」
「とことん平和主義者ね」

「シゲさんのおかげだよ。攻撃が苦手なら相手の急所をピンポイントで突けばいいってアドバイスしてくれた」
「そうね。今、担いでる奴らみたいに一瞬で延髄突かれてお寝んねしちゃう。それなら気配を消したままで大丈夫だし――でももっと素早くやらないとだめよ。相手がデブだろうと、鉄の鎧に身を包んでようと、勝負は一瞬」
「ははは、鉄の鎧だなんてありえない」

 

シゲとの出会い

 リンは笑いながらシゲをまじまじと見た。リン親子、訳あって今はリン一人だが、が間借りする部屋の大家が『ジャンゴ』の経営者で、その人物が去年紹介してくれた。
 くたびれた中年のオカマにしか見えなかったが、昔は警察関係の仕事に就いていたそうだ。リンに一目会うなり、才能に惚れ込み、警察の猛者たちとの稽古の場を用意してくれるようになった。
 いつもおちゃらけていたが、新宿を取り仕切る修蛇会やRFDの『飛頭蛮』にも顔が利くらしく、今夜のような何も知らない酔っ払い以外が店に因縁をつける事はまずなかった。

 
 知り合ってからしばらくしてリンは新宿の北の居留地に入った話をした。最深部まで行ったが気配を消してそのまま帰ったと伝えると、シゲはあきれたような顔をして「無茶するわね」と言った後でこう付け加えた。
「戦えばいい勝負だったでしょうけど戦わないで正解よ。あの居留地の奥を根城にしてる飛頭蛮の本体は西の大陸にあるの。だから末端を潰しても本体から補充が来るだけ。しかもしつこく付け狙われてキリがない。そんな暮らし、いやでしょ?」
「修蛇会も敵わない?」
「細かい小競り合いはあっても正面切って衝突はしないわよ。根っこは同じだから」
「根っこ?」
「気にしないで――

 
 ――何見てんの、いやだ、ヒゲ生えてきてる?」
 シゲの言葉にリンは曖昧に笑った。
「ほら、ここのタバコの自販機の所に放り出しときましょ、はい、終わり」
 シゲはぱんぱんと手を叩いて「うぉー」と男の声で伸びをした。
「リンちゃん、ごめんね。ママのお使いで来てくれただけなのに、『店閉めた後にご飯食べよう』って引き留めたせいでこんな目に遭わせちゃって」
「ううん、世話になってるから。それよりも賭けでずいぶん稼いだんじゃないの?」
「あら、きれいな星空。さっきこれ見てたのね。さ、帰って”アフタヌーン・イン・パリス”でも聴いてから、店閉めよっと――焼肉でいいわよね」
 シゲは鼻歌交じりに大股で歩いていった。

 

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