目次
1 世界の中心亭
古の世界 (別ウインドウが開きます)
大陸の北西部は『比翼山地』と呼ばれる険しい山々、北東部には『白花の海』が広がり、無数の奇岩が頭を突き出している。南東部は『淡霞低地』、毒を含む霧に包まれた湿地帯だ。南西部は『未開の森』、むき出しの大自然が迫っている。その地形に挟まれて東西に伸びる平地がホーケンス、通称非武装地帯だった。
ホーケンス非武装地帯は三界の支配者たちが会談を持ち、試験的に設けられた緩衝地帯だ。ここでは三界の者、そして『持たざる者』も肩を寄せ合って生活している。
ホーケンス非武装地帯の中心は“世界の中心”広場と呼ばれており、人々の憩いの場となっている。その広場で一際異彩を放っているのが『世界の中心亭』だった。
二階建ての食堂だったが、天井の高さ、窓の大きさ、間口の広さ、どれを取っても規格外に大きい。これは店の主人であるトイサルが身の丈三メートル近い巨人のためだった。
トイサルはあごひげを伸ばし、頭にはお気に入りの赤いバンダナを巻き、藍色のつなぎを着て、いつでも店の奥で目を光らせていた。店内で争いごとでも起ころうものなら、それが三界の者であれ持たざる者であれ容赦なく店外につまみ出した。
外に出て広場を見回る事もあった。喧嘩をしている者はトイサルの大きな姿を見かけるとおとなしくなり、盗みを考えていた男はトイサルの影に怯えてどこかに隠れた。ホーケンスに暮らす人々は皆、トイサルの事が好きで、トイサルを信頼していた。
トイサルは自分の店の使用人にも分け隔てなく接した。様々な客層に対応するため、『空を翔る者』、『水に棲む者』、『地に潜る者』、持たざる者の全ての種族から人を雇った。皆、トイサルの店で働きたいと願い、トイサルを「親父さん」と親しみを込めて呼んだ。
トイサルはそんな子供たちが一生懸命に働く姿を見るのが好きだった。深夜に店が終わると二階の寝室に上がり、切妻造りの屋根に設けられた大きな窓を開けて、一本の葉巻をくゆらせた。ホーケンスの人々は世界の中心亭から煙がたなびき出すのを見て、一日の終わりを実感した。トイサルの機嫌が良くない時には煙はせわしなく上がり、上機嫌の時にはまっすぐの煙がゆっくりと立ち上った。
今日も店は超満員だった。トイサルはいつものように店の奥のキッチンの前にでんと腰をかけ店内を見回していた。
「親父さん」
フロア係の空と地のハーフの青年が走ってきた。
「トラブルっす。ちょっと来て下さい」
無用のトラブルを防ぐために三界それぞれのブロックを分けていたが、店内が満席の時にはどうしても異なる種族が隣り合わせになってしまう。ホーケンスの住人であれば店で争いを起こすような真似はしないが、三界の支配地から来た客の場合、小競り合いを起こす事がたまにあった。
「――お客さん、どうしました?」
トイサルは広い店の真ん中にゆっくりと移動して、座っている客の背後から声をかけた。
「ふざけんじゃねえよ。何で鳥と並んでメシ食わなきゃいけねえんだ」
男はトイサルの方を振り返らずにまくし立てた。男の隣のテーブルでは背中に青色の翼の生えた母親と小さな娘が怯えて小さくなっていた。
「おかしいですね」
「だろう。だからどうにかしろってんだ」
「――私が申し上げているのは、お客様のような下品な方が店にいるのがおかしいと」
「んだと」
男は初めてトイサルの方に向き直り、その巨体に息を呑んだ。
「あ……」
「さてと、お客様。外に出ましょうか」
トイサルは優しい声のままで言った。
「外に出ればお客様でも何でもありませんから」
「……てめえ、ただで済むと思うなよ。おれのバックにはヤッカーム様がついてんだぞ」
男はトイサルに服の襟のあたりをつままれ、足をじたばたさせながら叫んだ。
「ヤッカームだか何だか知らねえが」
トイサルは男をつまみ上げ、その耳元で囁いた。
「この店には二種類の人間しかいねえんだ。お客様とおれたち従業員だ」
トイサルは男をつまみ上げたまま店の外に出て、すぐに戻った。
「お客様、申し訳ありませんでした。どうぞお食事をお続け下さい」
満席の店内から拍手と歓声が沸き起こった。トイサルは怯えて小さくなっていた母娘の前でしゃがみ込み、つなぎのポケットから小さな飴を取り出し、女の子に与えた。
「さあ、もう怖い事はねえぞ。悪かったな」
「……ありがとう。トイサルのおじちゃん」
女の子はようやく笑顔を見せた。
「どういたしまして」
トイサルは店の奥に戻った。
どうにか今日も葉巻が吸えそうだ――だがこの世界は間違っている。
別ウインドウが開きます |