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20XX.7.20 呼び出し
『クロニクル』を読むペースが上がった。チャプター自体のボリュームが少ないのもあるけれど、どうにかチャプター6の終盤までたどり着いた。あと二、三日でエピソード6を終える事ができるんじゃないだろうか。
昼食を買いにコンビニに行きがてら、携帯をチェックするとナカナからの留守電が入っていた。
あ、もしもし、ジウラン、ごめんね。急なんだけど20日の夜に会えないかな。最大のピンチなの。助けてほしいの、ジウラン、お願い――
留守電の声の調子からはどのくらい深刻な問題か判断がつかなかったので電話をかけた。
「ジウラン」
3回目の呼び出し音でナカナが電話に出た。
「ありがとう、留守電聞いてくれたんだね。早速だけど今日の夕方5時にKにある『プスカシェ』っていうカフェに来てほしいの。で、来る時なんだけど……できるだけこざっぱりとした恰好してきてね。じゃあ詳しくは会った時に話すから」
結局一方的に話され、こちらの訊きたい事は何もわからなかった。
ずるずると押し切られた形だ。昼食を取り、シャワーを浴びて、Tシャツをポロシャツに着替えてから、家を出た。
中央線沿線のKにはナカナの実家があり「住みたい町ナンバーワン」なんだそうだ。ぼくは約束の30分前に駅に着いて街を散策した。
待ち合わせのカフェはわかりにくい路地の二階にあった。先に着いてアイスコーヒーを飲んでいると、時間通りにナカナがやってきた。
「ありがとう、ジウラン。遠かったでしょ」
今日のナカナは幾何学模様のワンピースをさらりと涼しげに着こなしていた。
「あのね、あたしのお父さん、N建設の重役だって話したよね。そのお父さんがね、縁談を持ってきたの。『今すぐに結婚という訳ではないが、結婚を前提とした交際だけでもしておいた方がいいな。なかなかの好青年だぞ』って言って。もちろん母さんやあたしは反対したわ。でもうちのお父さんって家庭では絶対的な権力者なのよ。何を言ってもだめ。とうとうあたしもかっとなって、『あたしにはもう決めた人がいるの』って言っちゃったの。そしたら『じゃあ、20日の夜に家に連れて来い』って――」
頭が真っ白になり、何も言えなかった。
「ごめんね。迷惑だと思うけど、他にお願いする人もいないし、今日だけでいいから恋人でいて。ね、助けてほしいの」
完全にはめられた。でもここでキャンセルすれば、ますますナカナの立場がなくなってしまう。
わかったよ、でもぼくは聞かれた時に必要な事しかしゃべれないよ――
「やったぁ、全然それで構わないよ。7時の約束だから少し時間あるし、夕飯ごちそうするね」
やれやれ、久々に連絡してきたと思ったら――これはもしかすると蒲田さんの言っていた接触、いやいや、そんなまさかナカナが……でも一応蒲田さんに伝えておこう。
こんな集中できない状況では、この後大惨事が起こりそうでナカナに申し訳ない気がした。
ナカナの家は公園の奥の閑静な住宅街にあった。「立川」という表札がぼんやりと宵闇の中に浮かんでいた。
「さあ、入って。ママ、ジウラン連れてきたよ」とナカナは玄関で母親を呼んだ。
家の奥から現れた母親は若作りの華やかな女性でナカナにどこか似ていた。
「まあ、あなたがジウランさんね。いつも娘があなたの話ばっかり。最近話題に上らなくなったから、ふられたんじゃないかって心配してたのよ」
若干気まずい空気が流れ、ぼくの笑顔はひきつっていたに違いない。
「もうやだ、ママったら。ね、ジウラン、上がって」
立派な応接間に通され、しばらくするとナカナと母親がお茶菓子を持って現れた。ナカナはぼくの隣に腰かけ、母親はお茶菓子を配ると対面に座った。
「それにしてもジウランさん、いい男ね。ハリウッドスターみたいよ」
「ママ、止めてよ。ジウラン、困ってるじゃない」
しばらくすると父親が部屋に入ってきた。恰幅が良く、髪はロマンスグレー、ぼくみたいな鈍い人間にも恵まれた人生を送っているのがわかった。立ち上がって挨拶をすると「まあ、座りなさい」と手で促した。
「君は菜花名の大学の友人だそうだね。失礼だが君は外国人かい」と父親は柔らかな声で話し出した。
ポルトガル人の船乗りの祖父と日本人の祖母、その息子の獣医の父と日本人の母の間にできたクォーターだと答えた。
「ほほぉ、船乗りのおじい様の海を越えたロマンスか。素敵な話じゃないか。私も若い頃は日本を飛び出したくて仕方なかったよ」
「あら、あなた。そんな話初めて聞いたわ。海の向こうでロマンスを見つけるおつもりだったの?」
目の前の夫婦はけらけらと笑い合った。きっと隠し事のない良い家族なんだ。ちらりとナカナを見ると、ナカナもほっとした顔をしていた。
その後、両親が事故で亡くなった話、じいちゃんに引き取られて育った話に移った。ナカナの母親は「まあ」とか「お気の毒に」とか相槌を入れて、父親も「うむ」と言いながら興味を持って聞いているようだった。
「ところでジウラン君。君は大学を卒業したら、どんな職業に就くつもりかね?」
とうとうこの質問が出たが嘘はつけなかった。ナカナがどんな表情をしているかを見ないようにして大学を退学した事を告げた。
「……最近はそんな若者が増えているようだね。『自分のやりたいのはこんな事ではない』などと言って簡単にドロップアウトする。育ててくれたおじい様に対して申し訳ないと思わないのかなあ?」
心なしか父親の語調がきつくなったのを感じた。
「でもあなた。ジウランさんのやろうとしている事が立派だったら、別に大学なんてどうでもいいじゃありませんか。ねえ、ジウランさん、何をなさるおつもりなの?」
事態は悪化した。それをお話しする訳にはいきませんと答えるしかなかった。
「……菜花名、お前にはがっかりだ。彼のように自分の将来も語れない、いい加減な人間にお前を任せる訳にはいかん。帰ってもらってくれないか」
父親はそのまま応接間を出て行った。
ナカナが家の外まで送りに出てきた。
「嫌な思いさせてごめんね」
いや、ぼくこそ力になれなくて――
「でもジウランらしかったよ。嘘のつけない正直なところ……」
何も言えなかった。空を見上げたが星も出ていない。
「じゃあね。本当にごめんね」
ナカナは小走りに家の中に戻っていった。