目次
1 水牙の失踪
開都の都督庁で公孫転地は《将の星》から戻ったジェニーを出迎えた。
「ジェニーよ、よくぞ関係改善への足掛かりを作ってくれたな」
転地は優しい笑顔でジェニーを労った。
「いいえ、別に大した事してませんよ。バーンと銃を撃って、後は若い奴らと騒いでただけ」
「ははは、私も水牙も真面目すぎるのだな。お主のその無邪気さこそが人々の心を溶かしたのだ」
「ほめられてんのかなあ。まあ、いいや。ところで水牙は?」
「ここ数日、体調が優れんようだ。顔色が悪いのでさすがに今日は休養を命じた。よく寝られんらしいが、まあ、修行が足りんな」
「ふーん、はっぱでもかけに行こうかな」
ジェニーはスキップで執務室を出ていった。
「水牙。体調不良なんてだらしないぞ」
水牙の部屋をノックしたジェニーは現れたその顔を見て驚きの声を上げた。
「ちょっと、どうしたのよ」
「眠りが足りないんだ。どうも悪い夢を見ているらしい。毎朝、ぐっしょりと汗をかく」
「悪い夢って――どんな内容かは覚えてる?」
「……誰かが呼んでいる。深い闇、いや、深海の底の黒に近い青だ、そこから呼ぶ声がする」
「――色々あったし、疲れてるんじゃないの。いいわ、おまじないかけてあげる。まだ小さかった頃にママがしてくれた、とっておきのやつね」
ジェニーは水牙のおでこに小さくキスをした。
「今夜も夢を見るようならあたしに言いなさい。水牙ちゃん」
ジェニーは水牙の部屋を後にした。
その夜、水牙はある決意と共に床に入った。これは夢ではない、何者かが意志を持って意識に入り込んでくるのだ、ならばこちらからその者の正体を明らかにしてやろう。
うつらうつらし出した頃にそれは始まった。
(水牙よ、決心はついたか)
水牙は必死に意識を保とうともがいた。
(貴様、何者だ。名を名乗るがよい)
(名乗らずともやがてはわかる。さあ、来るがよい)
深い海の底から聞こえてくるようなその声は年老いた男のものだろうか。
(名乗らぬ者についていく事はできん。ましてや人を操ろうなどと企む輩を信じられるか)
(……さすがは銀河の英雄。簡単には落ちん。かくなる上はあの方に頼むか……また来るぞ)
水牙はそのまま意識を失った。
翌朝、水牙はジェニーにたたき起こされ、目を覚ました。頭が重たかった。
「おはよう。どうだった?」
「……やはり悪夢を見たようだ。内容は覚えていないが某を呼んでいる。こっちに来いと呼ぶ」
「こっちってどこよ?」
「わからない」
「わからないんじゃ話にならないわ。ねえ、長老さんたちに相談してみれば。おじいちゃんたちなら何かわかると思うんだけど」
「……そうだな。今夜も夢を見るようなら相談しよう」
「嫌な予感がするの。そんな悠長な事言ってると知らないわよ」
「ありがとう、ジェニー。世話になりっ放しだな」
「何言ってるのよ。じゃあ、また後でね、お昼、一緒に食べようね」
ジェニーはひらひらと手を振りながら部屋を出ていった。
昼食を終えた水牙とジェニーは赤い大きな花の咲き乱れる開都の大通りを歩いた。
「ねえ、この赤い花、何て言う名前なの?」
「これかい。シャランだ」
「ふーん、あたしがこの星にいる時にこんな炎みたいに赤いシャランが出迎えてくれるなんて、素敵な偶然だわ」
「その通りだ。火の時代が始まる知らせかもしれないな」
「火の時代って?」
「ああ、勝手にそう呼んでいるだけだ。父の若かりし頃が土の時代、そしてつい最近までは水の時代だったが……」
「何よ、それ。あなた、まだこれからじゃない。もう終わったみたいな事言い出して」
「まったくだ。どうかしてるな」
「……ねえ、水牙」
「うん、何だ?」
「ううん、何でもない」
ジェニーは低い場所に咲くシャランの花に手を触れた。
「今夜、一緒にいてあげようか?」
「……ありがとう。だが遠慮しておく。そんな事になったら眠るどころではなくなりそうだ」
「それだけの軽口が叩けるのなら心配ないわ」
その夜、水牙は久々に晴れやかな気分で床に着いた。
(今日こそ決着をつける。心配してくれるジェニーのためにもここで終わらせる)
真夜中過ぎにそれはやってきた。水牙の意識は冴え渡っていた。いつもの夢うつつ状態で聞こえる声ではなく、部屋の外で足音が止まったのがわかった。
水牙は急いで床から出て部屋の扉を勢いよく開けた。扉の向こうには亜麻色の長い髪の少女が立っていた。何も言わずに部屋の中に入って周りを見回してから口を開いた。
「ムルリが迷惑をかけたようじゃの」
女の子は鈴を鳴らすような声を出した。
「……あの声の主はムルリと言うのか。それよりあなたは?」
「ようやく外に出られるほどに回復したので自ら参った。わらわの名は珊瑚」
「珊瑚……どこかで聞いた名だ」
「お主、『凍土の怒り』を使いこなすそうだな?」
「――思い出したぞ。『氷の宮殿』でグレイシャーが語っていた、水に棲む者の女王ではないか。だが覚めない眠りについていたのでは?」
「ほほほ。ヤッカームの呪いを解いたのはお主ではないか。お主が凍土の怒りの力を解放した時にわらわの眠りも解けたのじゃ」
「……剣を取り戻しに来たのか?」
「勘違いするでないぞ。その剣を使いこなせるのはお主しかおらん。銀河の英雄にそのような無礼な真似などせんわ」
「では何の用だ?」
「それを知りたければわらわと共に参るがよい」
「どこに?」
「《海の星》じゃ」
「……いや、だめだ。このように胡散臭い手段を取る者を信用できない。何故、正面から堂々と来ない?」
「さすがは銀河の英雄じゃな。だがすでにわらわの手中に落ちているぞ」
翌朝、ジェニーが水牙の部屋を訪れた時、部屋はもぬけの殻だった。ひどい雨漏りがあったかのような水浸しの室内でジェニーは立ちすくんだ。