5.6. Story 1 時は流れて

 Story 2 赤いドレスの女

1 落涙

「そう……そう……そこは三の指……そう……はい、よく弾けました」
 真由美に褒められた少女は自分の体格には大きすぎる椅子の上で嬉しそうに頷いた。
「もっと弾いてもいーい?」
「また明日にしましょうね。そろそろ中原さんが呼びに来るから。楽しいおやつの時間よ」
「わーい、おやつ」

 
 そこに執事の中原がやってきた。
「お嬢、いえ奥様」
「はいはい。おやつね。わかってますよ」
「もちろん用意はできておりますが、玄関にお客様がいらっしゃっております」
「あら、誰かしら?」
「珍しいお方です」
「玄関ではなく上がって頂かないと」
「お忙しいのか、『挨拶だけでいい』とおっしゃられまして」
「すぐに参ります――沙耶香、おやつは先に中原さんに持ってきてもらいなさいね」

 
 真由美が玄関に現れるとそこに立っていたのは日焼けしたくしゃくしゃの髪の毛の男と小さな男の子だった。
「あら、文月様……ですか?」
「はい。ご無沙汰してます」
「何年ぶりになるかしら」
「お元気でしたか?」
「え、ええ。あの、そちらのお坊ちゃんは?」
「うちの倅です。ほら、挨拶しなさい」

 男の子は源蔵のズボンの裾をつまみながら照れくさそうに名を言った。
「凛太郎です」
「よくできました。凛太郎君はおいくつ?」

 リンは何も答えずに、源蔵の背後に回ってそこからパーにした形の手を見せた。
「そう、五つなの。うちの娘と同い年ね」
「すみません。山奥で暮らしていたので人との接し方がまだわかっていないようです」
「自然の中でのびのびと育つなんて羨ましいですわ。今日は何をされにこちらに?」

「……山を降りてこちらで暮らす事になりまして」
「それは大変ですわね。奥様はどこか別の場所に行ってらっしゃるのかしら?」
「いえ、私とリンの二人だけです」
「失礼な事訊いたのでしたら謝ります。ごめんなさいね」
「大丈夫です。じゃあそろそろ。ご挨拶だけと思っていましたので」

「……ちょっと待って下さる。リン君、マドレーヌはお好きかしら?」
「ま?」
 源蔵の背後からリンが顔だけ出して小さな声を上げた。
「今ちょうど沙耶香がおやつを食べているから持ってくるわね」

 
「真由美さん、すみません。手ぶらで寄った上にこんな結構なお菓子まで頂いて」
「いいんですのよ。それより文月様……当てはございますの?」
「ええ、大学時代の友人に仕事を紹介してもらって……家はどうにかなりますよ。私とリンだけですから」
「出過ぎた真似かもしれませんが、こんな時は静江を頼ったら如何かしら。ここに寄られたのも彼女の様子を確認したかったからじゃありませんこと?」
「……ご明察です」
「静江はきっと喜びます。さ、こんな所で油を売っていないで、『都鳥』を訪ねて下さいな」

 

 源蔵とリンは電車とバスを乗り継いで江東区Sに向かった。
「父さん、今度はどこ?」
「さっきのきれいな女の人のお友達の家だよ。あ、ここだ、ここだ」

 源蔵が『都鳥』の扉の前でぶつぶつと独り言を言い、息を吸ったり吐いたりしながら呼吸を整えている間にリンは勝手に扉を押して中に入っていった。

 
 カラン、コロン、カラン
「いらっしゃいませ。あら坊や、大人の人が一緒?」
 扉に付いた鐘が勢いよく鳴り、その音で我に返った源蔵は慌てて開いたドアから店内に腕だけを伸ばすようにしてリンの体を押さえたが、カウンタの中にいた静江と目が合ってしまった。

「あ、どうも。ご無沙汰してます」
「……どうもじゃないでしょ。この坊やはあなたのお連れさんかしら?」
「ええ、私の倅の凛太郎、リンです。もうすぐ五歳になります」
「こんにちはー」

「こんにちは。リンちゃん、よくご挨拶できたわね。さ、そんな所に突っ立ってると営業妨害よ。早く席に着いて」

 
「リンちゃん、お腹空いてるんじゃない。何か食べる?」
 源蔵とリンが席に着くと静江が尋ねた。
「たべるー」
「こら、リン。厚かましいぞ」
「いいじゃない。それともこの後食事の予定が入ってたのかしら?」
「いや、そんな訳では。私とリンの二人だけです」
「だったら食べていきなさいよ。リンちゃん、オムライスとナポリタン、どっちが好き?」
「お?」

「静江さん、すみません。ずっと山奥で暮らしていたもので何もわかっていない子なんです」
「……それは山奥で暮らしていたせいだけじゃなくて、あなたが育てたからよ」
「これは手厳しいなあ、は、は、は」
「他人の気持ちなんてお構いなしで、何も告げずにいなくなる。帰ってきたと思ったらこんな可愛らしい子と一緒――さっき真由美から連絡は受けていたけど、どう対応すればいいのよ。わからないわ」

「あわわわ、静江さん。すみません。今すぐ出ていきますから」
「だからそんな事言ってるんじゃないのよ――」

「父さん、おこられてる」
「おい、リン」
「――そうよね。まずは食事、話はその後ね。リンちゃん、特製のオムライス作ってあげるから」

 
「おいしかったー」
「良かったわ、リンちゃんのお気に召したみたいで」
 食後のコーヒーをテーブルに置いた静江は席に着き、源蔵が話し出すのを待った。

「実はですね、山を降りまして」
「山って、ご実家のある岩手?」
「ええ、遠野の山中です」
「そこで奥様とご家庭を持たれていたの?」
「……うーん、何と言えばいいんでしょうか。正式に籍を入れたとか、家庭を持ったとかではないんです。ただこの子がその年齢に達したので山を降りなければならなくなりました」

「何、それ。奥様とは離れ離れなの?」
「ですから正式に妻という訳では……これ以上は勘弁して下さい。とにかく私とリンはこれから下界で生きてゆかねばならないのです」

 
「で、これからどうするつもり?」
「今日は上野あたりで夜を過ごして、明日になったら大学時代の友人を訪ねて職を口利きしてもらえれば、と考えています」
「生活は?」
「仕事さえ決まってしまえばどこかに部屋を借りる事ができます。それまでの間は……今は季節もいいですし、それに私たち親子は山奥で暮らしていましたからね。公園とかで平気ですよ」
「あきれた。まだ五歳にもなってない子にそんな生活をさせるなんて――もう素直に『ここに住まわせて下さい』って言えばいいじゃないの」
「そんなに甘える訳には。ご家族にもご迷惑がかかりますし」
「そんな事気にしてたの。あたしはご覧の通り、独り者。父もそのうち貿易会社を弟に継がせるつもりみたいで、あたしは手切れ金代わりにこの店ともう一軒新宿の小さなお店をもらったの。これでどうにか一人でも食ってけるだろうって」
「はあ」

「あのね。さっき真由美から久しぶりに電話がかかってきて、困った源蔵さんがここを訪ねるって聞いた時に嬉しかったの。色々あったけどまだ頼りにしてくれてるんだなあって。でも会ってみたら相変わらずの煮え切らない唐変木」
「面目ないです」

「父さん、おこられてる」
「そうよ、リンちゃん。おばさんは怒ってるの。そうだ、リンちゃん。お外で寝泊まりするよりもここで暮らす方がいいわよね?」
「うん」
「毎日オムライスやナポリタン食べたいよね」
「うん」
「ほら、子供は素直じゃない。でもどうしてもあなたが気にするのならこう考えて。あたしはリンちゃんを世話したいだけ。あなたはただの付添。これなら文句ないでしょ」
「……静江さん、本当にいいんですか?」

「いいって言ったらいいの。二階が空いてるからそこを使って。さ、そうと決まれば早速模様替えしなきゃ。二階の荷物を一階に下ろすの手伝ってくれない?」
 

 

先頭に戻る